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流れ星  作者: 景雪
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流れ星

 「グランパ。何で、何でカズを殺したんだ!」

 舵を握るリチャードにマイクが詰め寄った。リチャードは微動だにせず、ただ船の行く先を見つめていた。視界に入ってくるのはドライアイスを濃密にしたような霧だけだった。

 「グランパ。聞いているの? 日本人が憎かったんだろう? ジャップとか言って。ポールの敵討のつもりだったの?」

 マイクは何かに気付いたとでも言うのか、瞳を大きく見開いて続けた。

 「分かった。グランパ。僕とミス・ヤマダとの結婚を許してくれないんだろう? だからわざわざ日本人の友達を殺した話をしたんだな!」

 いつの間にかリチャードは目を閉じていた。船の進む方向は身体が全て分かっているというふうに、背筋を伸ばして立ち続けていた。返事をしようとしないリチャードに苛立ち、マイクはより一層声を荒げた。

 「カズは聖書を見せようとしたんだろう? そして、投降しようとしたんだろう? それなのに……」

 「違うわ」

 思いがけずミス・ヤマダに言葉を遮られ、マイクは彼女の方を振り返った。リチャードも首をほんの少し斜め後ろに向けた。彼女は二人に向けて交互に視線を移し、ゆっくりと続けた。

 「カズは聖書をディックに渡そうとしたのよ。聖書には彼の日記が書かれていたから。家族に渡してって頼もうとしたんだと思う」

 急に饒舌になったミス・ヤマダに戸惑いながら、マイクは口をはさんだ。

 「だから、それで降伏しようとしたんだろう? グランパに」

 「ううん。聖書を託して、自決するつもりだったんじゃない?」

 「……え? 何で……?」

 ミス・ヤマダはリチャードが大事にしていた古い聖書をパラパラとめくった。擦り切れそうな薄い縦書きの日本語が余白に書かれていた。彼女はあるページで指を止めた。

 「五月二十九日で日記が終わっているんだけど、これが最期の日記みたい。奥さんに感謝して、奥さんとお子さんの名前を書き殴ってある。これは、遺書よ。遺書を家族に渡してほしかったのよ」

 「……」

 「五月二十八日の日記には、カズも流れ星を見たって、書いてある」

 ミス・ヤマダは細い指先で聖書の文字をなぞった。マイクは彼女を見つめながら、何かを言いかけたが言葉にならなかった。太平洋はあまりにも静かだった。そこに存在する音の一つ一つが小さく凝縮されて、霧の細かい粒子に変化してしまったかのように感じた。

 「着いたぞ」

 リチャードが低い声でつぶやいた。マイクとミス・ヤマダは船のへ先に駆け寄った。風が強く、ミス・ヤマダの長い黒髪が無造作に舞った。彼女はマイクの腕をつかみ、風を遮るように彼の背中に隠れた。霧で何も見えなかった。

 「グランパ。もしかして……ここがアッツ?」

 リチャードは無言でうなずいた。霧に含まれる水分が肌に張りついて冷たかった。

 「ここに来たのは何回目だろう。わしは戦争が終わって何度も何度もアッツ沖を訪れたが、いつもこの濃い霧が邪魔をして島には近付けなかった」

 「聖書は……遺書は奥さんに渡せば良かったんじゃない? 何なら日本に帰って私が……」

 「日本にも行った。ユリコ・タニグチは死んでいた。三人の子供も一緒に。一九四五年三月の東京空襲でね」

 「……!」

 一羽の海鳥が霧を縫って近付いてきた。鳥は八の字を書くように器用に飛んでいた。鳥の行方を目で追っていると、白一面だった視界に色の濃さが滲むように広がった。嘘のように霧が晴れ、目の前に島影がはっきりと姿を現した。

 「グランパ!」

 「やっと、霧が晴れたか。日本人の美人が一緒だからだな」

 マイクとミス・ヤマダは手を握り合いながら島を見て歓声を上げており、リチャードの軽口には気付かなかった。島はどんどん迫ってきた。真夏だというのに、霧に隠れた山頂には残雪がはっきりと見えた。マイクもミス・ヤマダも灰色の墓場のような島を思い浮かべていたから、一面が緑にくるまれた景色は意外だった。

 ミス・ヤマダの手から、リチャードは聖書を受け取った。船のへ先は岩壁に手が届きそうなほどに迫っていた。目の前には、海岸からしばらく平坦な土地がずっと続いていた。

 「カズ。返すぞ。お前の日記だ」

 二人が声を上げる間もなく、リチャードは古い聖書を力の限り島に向けて投げた。強風にあおられてページがバラバラになり、聖書の一枚一枚は空中に広がった。リチャードは風で引きちぎられそうになる紙切れをじっと眺めた。真夏の太平洋に、大粒の雪が降っているように思えた。

 その時、空を舞う紙切れの間にリチャードは人影を見た。一人や二人ではない。数百、数千の人影が島の海外線に整列していた。

 「なんという……」

 震えながら前方を凝視するリチャードを、若い二人は不思議そうに見た。

 数千人の人影は軍服姿の日本兵だった。皆同じように挙手の礼でリチャードの方を向いていた。先頭にいるのがコーネル・ヤマザキだと分かった。ちらほらとアメリカ兵もいた。デビットもサムも見つけた。リチャードは衰えた視力のありったけを使った。

 「おお……」

 ポールとカズオ・タニグチは肩を組んで立っていた。二人とも歯を出して笑いながらリチャードに向かって手を振っていた。

 「どうしたの? グランパ?」

 マイクとミス・ヤマダが怪訝そうに自分を見つめているのに気が付き、リチャードは思った。自分にももう迎えが来る頃だなと。

 太陽が陰り、明るさを急激に奪った。霧が徐々に視界を埋めていった。リチャードは島影を目に焼き付けた。背中に力を入れ、足を揃えた。挙手の礼で、霧に包まれ薄くなっていく数千人の男たちに応えた。

 「今夜は、きっと星がきれいだろう.」

 リチャードがそう言い終わる頃には、島はすっかり霧に覆われ見えなくなってしまった。リチャードは瞼を閉じた。目の前に広がった暗闇に、流れ星が一つ落ちた気がした。

 この作品は、アリューシャン列島アッツ島で戦死した、辰口信夫軍医曹長をモデルにしています。辰口は米国のロマリンダ大学において医学を学んだクリスチャンで、日本に戻っている時に徴兵され、日本陸軍軍医としてアッツ島で散華しました。敵性国の大学を卒業した事実は隠匿され、東京帝国大学卒業と経歴を偽らざるを得ず、軍医であるのに士官になれませんでした。ちなみに、昭和医学専門学校(現・昭和大学医学部)卒業の私の大叔父は22歳で陸軍中尉でしたが、辰口は33歳にして死ぬまで三階級も下の曹長に過ぎませんでした。

 辰口の最期には二つの説があります。一つは、霧の中を他の日本兵数人とともに移動中に射殺されたという説。もう一つが、野戦病院を出てきたところを射殺されたという説です。この作品は後者の説に基づいています。野戦病院から出た辰口は、上着に手を入れ、拳銃を出すと勘違いされて撃たれました。しかし辰口が上着から出そうとしたのは聖書で、彼を撃ち殺した米兵は、正しい者を殺してしまったと嘆いたそうです。辰口が肌身離さず持っていた聖書には日記が書かれており、英訳され『霧の日記』として現代に伝わります。最期のページには、妻や子供たちの名前が書き殴られており、絶海の孤島で死ななければならなかった33歳の青年の悲愁が胸を打ちます。33歳は数えなので、現代の満年齢に換算すれば31歳です。

 アッツ島の戦闘では、辰口と机を並べて学んだロマリンダ大学出身の米軍軍医が二名参戦していました。あるいは、彼らは戦場で会いまみえていたかもしれません。戦争がなかったなら、彼らは老いてなお友人として盃を交わしていたかもしれません。


 この作品を、アッツ島で散っていった日米3,000名の魂に捧げます。

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