祖父と孫
「グランパ。紹介したい人がいるんだ」
孫のマイクは高い声が良く通る。リチャードはロッキングチェアーに深く腰を掛けながら、長年腕でこすられてすり減ったひじ掛けをゆっくりなでる。
「エドにはもう紹介してあるのか?」
父親、エドワードの名前を聞き、マイクはうつむいて何も言葉を発することができない。結婚相手を紹介するならまずはエドだろう。そう思ったがリチャードは言葉にしなかった。マイクが敢えて一番に自分のところに来たのは、何か理由があってのことだと思ったからだ。
「フィアンセか」
「……うん」
すぐに返事をしないのは、後ろめたい何かがあるのだろう。エドよりも先に私に紹介しようと思ったのもそのためだろうか。リチャードはロッキングチェアーを揺らしながら思った。
「連れて来い。いるんだろう? 玄関の外に」
「……うん」
マイクはゆっくり後ずさりすると、玄関の外に消えていった。玄関の戸が開いて一瞬、外の光が目をくらませ、リチャードは長く伸びた眉毛で瞳を閉ざすように眩さを防いだ。近所に住んでいるとはいえ、早起きが苦手なマイクが午前中に訪ねて来ることは珍しい。リチャードは陽がほとんど入り込まない部屋の、分厚い暗がりにぼんやりと視線を合わせていた。そうこうしていると再び戸が開き、光がすっと差し込み、光の帯は段々と太くなっていった。部屋にこもっていた埃が舞い、それが照らされ細かい粒となって漂った。
「グランパ。ミス・ヤマダだ」
「はじめまして。キョウコ・ヤマダです」
リチャードは皺の深く刻まれた瞼をほとんど横一線に閉じ、突然飛び込んできた外界の明かりに視野を奪われてしまったが、「ヤマダ」というファミリーネームと、訛りの強い英語はしっかりと聞き取ることができた。
「グランパ。彼女は日本人だ。だからグランパに最初に紹介したかったんだ」
緊張している時、マイクは高い声が一層高くなる。リチャードはまだぼんやりとしか見えない視界に二人の人影を捉え、眼球を包み込むように三回強く瞬きをした。
「グランパが戦争で日本人と殺し合ったことは知ってる。でももう昔とは違うんだ。彼女には何の罪もない」
やっと焦点が定まったリチャードの瞳に、細身で髪の長い東洋人の女が映った。自分の居場所を探せずにいるのか、いつになく饒舌なマイクとは対照的に、彼女はうつむいてじっと黙っている。
「彼女は、ロマリンダ大学の同級生なんだ。グランパの後輩だよ」
そこまで聞いて、リチャードはおもむろに立ち上がった。口を開こうとしないリチャードが日本人のフィアンセに怒っているものと思い、マイクは慌てて次から次に様々な言葉をかけた。けれど祖父は黙ったままで、二人の姿が見えないのかまっすぐに家の外に向かった。ミス・ヤマダは高齢の割に大柄なリチャードを、後ずさりして大げさによけた。
「グランパ。聞いてくれよ」
マイクを右の掌で制し、リチャードは言った。
「マイク。ミス・ヤマダ。時間はあるか? ちょっと行きたいところがある」
「え?」
「時間がかかるぞ。いいか?」
「うん……夏休みだから時間はあるよ」
マイクは短く返事をし、ミス・ヤマダも遠慮がちに頭を縦に振った。
リチャードは同じように口を開けたまま彼を見つめる二人を尻目に、九十を過ぎても衰えない足取りで海岸に向けて歩く。真夏の西海岸は雲が多いが、切れ目からは薄く気持ちの良い青が覗いて好天を告げていた。
「グランパ。どこに行くんだい?」
「後で話す。とりあえず船に乗れ」
「え。クルーザーで行くのかい?」
「船に乗られるんですか?」
ミス・ヤマダの問いかけにリチャードは答えない。代わりにマイクが答えてくれることが良く分かっているからだ。
「グランパは若い頃からずっと船に乗っているんだ。世界一周もしたことがあるんだよ」
「すごい」
「今じゃ年寄りの道楽だ。食料と飲み物を積もう」
最初からそう決まっていたかのように、三人は分担して準備を進め、まだ太陽がてっぺんまで昇る前に西海岸を発った。
海は濃く、緑と青を凝縮していた。徐々に離れていく西海岸の街並みは、山肌のように密集した建物の所々に高いビルが突き出て見えた。
「どこに行くの? ハワイ?」
「焦るな。長い船旅になる」
操縦席でハンドルを繰るリチャードの斜め後ろにマイクが立ち、すぐ後ろの席にミス・ヤマダが腰をかけた。リチャードの操縦は的確で、六十年培った経験は皺の一本一本にまで染み込んでいる。
街が見えなくなってから、リチャードはゆっくりと口を開いた。彼の操縦に安心したのか、マイクもミス・ヤマダの隣に座っていた。
「マイク。わしが戦争に行った時の話をしたことはなかったな?」
「……うん」
てっぺんまで昇った太陽は強烈な日差しを海面に注ぎ、照り返しが操縦席の窓から時折入りこんだ。リチャードはサングラスのつるを握って位置を直した。
「あら。随分古い聖書」
ミス・ヤマダが彼女の側に置いてあった聖書を見つけて手に取った。背の部分が崩れそうに古い物で、表紙にはくすんだ染みができていた。
「それはグランパがいつも大切にしている聖書だよ。美人のシスターにでももらったんじゃないの?」
そう言って笑うマイクの声など少しも気にせず、リチャードは船の進行方向を見据えたまま二人に言った。
「ちょっと長くなるが、退屈しのぎに聞いてくれるか? 勿論、ミス・ヤマダも」
二人は「うん」「はい」と同時に返事をした。それを聞いてリチャードは乾いた唇を舌の先で湿らし、数秒の間を置いて話し始めた。




