鐘音
一体、どれだけの時間、地下にいたのか。ライトに照らされた遺跡内は昼間の様に明るいのに、穴の向こうは闇に包まれている。世界が逆転したように思った。
ぽっかりと開いた穴の縁から、傷だらけのカールが顔を出した。
「教授!ご無事ですか?!」
自分達よりよっぽど痛々しい姿のカールに心配されて、アリスンは気恥ずかしい。
グロリアと呼ばれた、金髪に眼鏡の美女は、アリスンに手を差し延べた。
「大丈夫ですか?」
派手過ぎないメイク、綺麗なパンツスーツを身につけ、砂漠でもパンプスを履いている。
笑顔で話し掛けられた言葉は、美しいキングズ・イングリッシュだった。
アリスンは、今更ながら自分の出で立ちを恥ずかしく思った。真っ黒に汚れた手で、スーツの綺麗な袖を汚してしまったんじゃないかと心配にさえなるほどだ。
グロリア女史は、アリスンにタオルと水を渡し、最後に上ってきたシャノンに走り寄った。
タオルと水を手渡し、美しくくびれた腰に手を当てる。
「卿、どうなさいます?『金の牡牛』のマスターは、早々にエジプトを離れた様です。おかげでやっと私しも動けるようになったのですけど。…総領事は会いたがっておられるでしょうが。」
「…面倒だな。しかし、まぁ、この遺跡や、本物のオシリスの杖のこともあるし、会わずには帰れんだろうな。しばらくは、カーナボン伯爵嬢も大人しくしてくれるといいが。」
「本物…ですか?」
グロリアの整った眉がよじれる。濃い緑色の眼鏡の縁を、片手でつまみあげた。
「ああ、杖らしいものは持って行かれたが、多分奴らが本当に求めていたのはこっちだろう。偽物というわけではないが、ハロルドの方に早々に発表してもらわないとならない。」
そう言って、今出て来たばかりの穴を振り返った。
ハロルドは休む間もなく、カールや他の人間に遺跡を保護するための様々な指示を出している。穴の周りには砂が流入しないように、土のうがつまれ、テントがはられていた。
「もちろん、盗られたものも、盗り戻さなければならないが。」
シャノンは眼の端でアリスンを探す。それに気が付いてか、グロリアが尋ねた。
「盗られたのはそれだけですか?」
挑発的なグロリアの目線に、一瞬、瞳を見開いて、驚いてみせたが、すぐに瞳は光を失い、暗く細められた。それに気が付いたグロリアからは、挑発的な笑みは消え、するどい緊張がはしった。
シャノンはタバコに火をつけた。
「グロリア、君、そんな面白い顔もできるんだな。…ジョナスの行方は掴めたか?」
シャノンの声は静かで重い。グロリアの声は緊張で掠れた。
「…はい。ジョナサン・バッドリーは、コンウィで姿を確認した者が。スランベリスへ向かったようです。おそらくはその後カーナボンに。」
「やっぱり、イギリスに戻っていたか。」
シャノンは苦い顔で舌打ちした。悪い癖だが、なかなか治らない。タバコの煙りが揺れる。それほど離れてはいないのにアリスンとの距離は遠い。夜の砂漠の中、その周囲だけが明るかった。
「…カーナボンにはすぐに手は出せない。チェスター辺りで網を張れ。」
「彼女はどうします?彼女は、ジョナサン・バッドリーの…」
グロリアは眉を潜め、眼をそらしたまま緊張した声で尋ねた。間髪入れず、その頭上から冷たく低い声が降る。
「君は指示に従うだけでいい。アリスンには知らせるな。」
グロリアは凍りつき、喉からイエスを絞り出すのでやっとだった。
だが、凍りついた表情が、次の瞬間一気に沸騰した。
スパァンと、軽快な音。グロリアが、その腰を撫でたシャノンの手の甲を打ったのだ。
シャノンの瞳はエメラルドに輝く。満面の笑み。グロリアはすぐに冷静さを取り戻し、凍りついた空気は溶け去った。
グロリアはつけつけとシャノンに意見を始め、シャノンはニマニマと笑いながら、聞き流した。
そんないつもの様子を見てハロルドはため息をついた。
「シャノン、遊んでないで手伝えよ。」
ハロルドの手には毛布が一枚。
夜の砂漠は冷える。星も凍りそうだ。見事な発掘現場となった周辺全体をカメラに収め、三脚をしまいながら、思い出したように震えだしたアリスンに、タイミングよく毛布が掛けられた。
「シャノン!」
近づくシャノンから、弾かれたように離れる。
「アリスン、記事はどれぐらいで出せる?」
「ホテルに戻れれば、フランクに電話して、記事を差し替えて貰うわ。フィルムを届けないといけないけど、明後日の朝には間に合う。」
「そうか。じゃあホテルまで送らせよう。」
シャノンが笑った。その笑顔は何処か寂しげに見えた。
シャノンがグロリアに何かを指示し、グロリアがうなづく。
不思議な光景だった。ボロボロの薄汚れた男に、美人秘書が付き従っているような感じ。だが、シャノンには今までの飄けた感じはなく、姿勢も言葉遣いもグロリアが仕えるに足る堂々としたものに変わっている。
ハロルドが言った言葉を思い出し、アリスンは反芻して飲み込んだ。
彼の正体がなんであれ、アリスンにとっては、軽薄そうで、お調子者の破廉恥男にかわりはない。梯子を昇る時だって、お尻を押し上げられた。そんな必要は全くなかったので、思い切り蹴ってやったばかりだ。たった今もグロリアにちょっかいを出していたのが見えた。
彼が手を挙げると軍用トラックが動き出し、アリスンとグロリアをのせると走り出した。
アリスンは片手を上げて見送るシャノンと、忙しそうなハロルドに、別れの挨拶も、お礼の言葉も言い忘れたことに気が付いて、慌ててドアを開けた。冷たい夜風が吹き込んで、運転手とグロリアは眼を見張る。アリスンは疾走するトラックから身を乗り出して叫んだ。
「ハロルド、シャノン!ロンドンで!」
二人とも笑っているように見えた。片手をあげたカールを見つけて、しまったと思ったが、人影はすぐに闇に溶け、見えなくなった。
ロンドンに帰るとアリスンは多忙を極めた。原稿はある程度移動中に仕上げたが、写真が決まらなかった。
フランクリン編集長は、コンスタンシア・カーナボン嬢とエジプト軍の不可解な行動については全面削除したが、ハロルド・アシュレイ博士の発見については大々的に報じる方針で、写真もオシリスの背骨を抱くハロルドが使われることになった。
真実を全て書けないことに納得したわけではないが、今後のエジプトとの関係や、発掘を続けるカールの事を思えば、伏せておいた方がいい事実があるのもまた真実だった。
三日間ほとんど眠らず、飛ぶように過ぎた。原稿は印刷され、もうすぐイギリス中に行き渡るだろう。
ハウタイムズ社の屋上から、朝焼けの映るテムズ川を眺める。疲労はピークで、瞼は重い。
父が生きているなら、どこかで私の記事が眼にとまるだろうか。
後ろの方からコーヒーのいい香りがした。
「アリスン、お疲れさん。いい記事だ。下でサンドイッチでもどうだね。」
ハイシャム・フランクリンが、太った腹を揺らしながら、意味ありげに笑顔を浮かべている。
「残念ながら、君のクビをきりそこねたな。」
「編集長…、ありがとうございます。」
コーヒーは有り難く受け取ったが、アリスンは疲れきっていて、ぼんやりとまた川の方を眺めた。フランクリンも眼を細めた。
「君の親父さんも、そこからよく朝日を眺めてたよ。」
インクの匂いがする無骨な手でアリスンの肩を叩くと、そのまま屋上をでていった。
朝日と共にロンドンが目覚める。車の音、人の声、路地を鳴らす靴の音。川を行く船の汽笛。教会の鐘。
エジプトの朝はコーランと鐘の音だった。
違う国、異なる習慣。でも何処でも人は生きている。
静かな朝の時間は一瞬に過ぎ、賑やかな雑踏、クラクションに紛れてしまった。
入稿を終えてすぐに連絡を取ったが、ハロルドは、カール共々忙しいらしくホテルには帰っていない為、連絡はとれず。
カーナボン・コンスタンシア嬢もエジプトから行方をくらまし、今は何処にいるのか、奪われた杖はどうなったのか。
シャノンに至っては、グロベナー伯爵家も、グロリアにすら、取り次いでもらえなかった。
情報保安部は実在していたが第五課は解散されていて、シャノンの名前も見つからない。
アリスンは大きく期待していたわけではなかったので、それほど凹まずにすんだ。どこかでそうなるような気がしていたのかもしれない。
まるで何もなかったような徹底した情報統制に、むしろ闘志が沸いて来るようだった。
ふりだしに戻ったような気もするが、ただで戻ったわけじゃない。父はきっと生きている。
アリスンは栗色の髪を纏めあげた。同じ色の瞳には迷いはもうない。
鐘の音が聞こえる。寝不足で疲労困憊の頭に鳴り響く。やることは沢山ある。けれど、とにかく今は眠りたい。アリスンは、冷めかけのコーヒーを一気に流し込んだ。
地下鉄の売店で、自分の記事が載った新聞を皆が買っていく。それを横目で見ながら、あくびががまんできなかった。通勤客が波のように押し寄せる階段を、慣れた調子ですり抜けて降りる。
車内も混雑しているだろうが、久々の自分のベッドは、きっと最高の眠りを約束してくれるだろう。
<了>
伯爵の冒険と題名にあるのに、伯爵の冒険じゃなかった!そう思われた方、すみませんでした。次はちゃんと伯爵に冒険させますから! シリーズ物のサブタイトルってことで、お許し下さいね。
十五年前、このタイトルで形になったのは全部で四本。後、書きかけのが一本。設定を変えての試作が二本。そして、ここに掲載させてもらった物が新たに一つ加わりました。
またしっかり練り直して書き続けたいと思っています。
そこで、あなた様の感想をきかせてください。辛口、甘口、どんなものでも結構です。これからの参考に、執筆への力になります。よろしくお願いします。
>参考文献
新詳世界史図説 /浜島書店
ナポレオン エジプト誌/タッシェン・ジャパン
古代オリエント集/筑摩書房
古代エジプト人の世界/村治笙子
古代エジプト憧憬/横山宗一郎
古代エジプトの物語/矢島文夫
ファラオと死者の書/吉村作治
古代エジプトうんちく図鑑/柴崎みゆき
エジプト遺跡ウォーキングガイド/古代遺跡な旅デスク
世界七不思議の旅/森本哲郎
神々の指紋/グラハム・ハンコック
図説金枝篇/サー・ジェームズ・ジョージ・フレーザー
秘密結社の暗号FILE/世界の秘教研究会
イギリス・ロンドン マップル/昭文社
エジプト学/今人社
その他/Wikipedia
(以上、敬称と副題等省略させていただきます。)




