エジプトの夜は眠れない
ジープは橋を渡り、南西へ走り続ける。綺麗に舗装されたナイル川沿いの道は、高級リゾートホテルが競うように並んでいたせいで意外に明るかったが、それも大分遠ざかり、闇は深くなっていた。
思いがけず時間が出来て、アリスンは疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。
せっかく取材相手がいるのだ。ぼけっと座っているのも勿体ない。
「ねぇ、ハロルド。私、不勉強で申し訳ないんだけど、<オシリスの杖>ってオシリスが持ってる杖のことよね、博物館で見かけたんだけど、もう一人同じ杖をもった神様がいるみたいなんだけど。」
冠のない緑色の顔の神。ハロルドが、ああ、とうなずいた。
「プタハという神だね。」
「エジプトに第一王朝ができる以前から、古王国時代に信仰されていた創造神で、オシリスよりも古い神だ。プタハ神は、太陽神ラーを頂点とする太陽神話には属さず、独自の神話体系を持ち、地下・冥界の神として崇められていた。鍛冶や職人の守護神とも言われ、王権の守護も担う。一方のオシリスは死者の書で有名な冥界の王で、その再生神話は太陽信仰と共に王権理念と結びついた。その辺りから同じような位置付けにある神だから同じ杖を持たされたんだろう。まあ杖自体にも意味が含まれているし、神様自体も混同されたり、吸収されたりして何通りも姿が描かれているからね。多神教にはよくあることだよ。」
確かにエジプトの神様は多い、その上同じ名前だったり、分身だったり。
アリスンは、ハロルドの口からするするとでてくる知識に半ば困惑しながら必死で頭を働かせた。
「オシリスより古い神様の杖…ということは、元々はプタハの杖ということ?」
「そういうことになるね。」
「ハロルドが探しているのはどっち?」
ハロルドがわらった。
「さあ、どっちだろうね。実際に神様が使ってたわけでもないだろうから。エジプトでは沢山の神様が祭られていた。祭儀は王や神官が取り仕切って行われていたらしい。」
「じゃあハロルドは王や神官が使っていた杖、そのものを探しているの?」
アリスンの問い掛けには答えず、ハロルドは眼鏡の位置を直した。そのまま膝上に乗せた鞄に視線を落とす。
「…アリスン、君はさっき自分のクビを免れるためにスクープがほしい訳じゃないといったよね。何故、杖に興味があるんだい?」
シャノンはバックミラーでアリスンの表情を伺っている。アリスンからは、シャノンの表情は見えなかった。
「…他人の口から聞くと、すっごく格好つけに聞こえるのね。」
ごまかしたい気持ちもあったが、二人ともアリスンを待っている。エンジンの音が、タイヤが石を蹴る音が、寒さとともにしみてくる。アリスンはゆっくり自分の中で整理しながら話始めた。
「私は、ジャーナリストじゃないわ。仕事に好きも嫌いもないのだけれど、少なくとも人生を賭けてるわけじゃない。他の本物の記者達には申し訳ないくらいだわ。だからいつ首をきられてもおかしくないってわかってた。エジプトにも古代文明にも興味はなかったし。」
「ただ最低限、恥ずかしい仕事はしたくないの。目の前にあることはきちんとしたい。私に今、出来ることはそれだけだし、そのことがいつかきっと本当に知りたいことに繋がってるような気がするのよね。」
真面目に話しすぎて、気恥ずかしくなり髪の毛を指で梳いた。二人は静かに聴いているみたいだ。
「もちろん、スクープが欲しくないわけじゃないわよ。あなた達についていけばスクープの方からやって来そうだし。」
寒い筈なのに、頬から耳の方がだんだん熱くなってきた。そんな自分に気がついて余計に恥ずかしい。
この三年間、自分のことを情けなく思う事が少なくなかった 。なのに、彼女自身は存外前向きで、根性が据わっているようだ。
沈黙を破ったのは二人の笑い声だった。緊張感が一気に解けたような声音でハロルドが言う。
「僕の負けだ。スクープの方からやって来るってさ、シャノン、どうする?」
「言っただろ?天使だって。」
肩を震わせながら笑う男達を見つめて、怪訝そうに眉をしかめるアリスンに、運転手が言った。
「アリスン。君は完璧だ。」
アリスンが更に眉を寄せる。振り返ったシャノンの瞳は、遠く離れたカイロの街の明かりを反射してキラキラと輝いていた。
あまりの美しさに、からかわれているとわかっていながら、反す言葉もなく、見とれてしまった。
初めて見た時にも綺麗だと思った。輝くエメラルド。
その一瞬の隙に、運転席のシートが動いた。
「!」
滑るような速さで、シャノンに唇を奪われた。冷たいのに柔らかい感覚。ピリッとした刺激が拡がる。煙草の味。
稲妻に撃たれた様な激情が脚を震わせ、一気に頭まで走り貫けた。
パァンと乾いた音が、車内に響く。
これ程、思いきり、半ば反射的に人の顔を殴ったことがあっただろうか?それとも、今までそんな相手に出会わなかったのが幸運だったのか。
ヒュウと口笛を鳴らしてハロルドはハンドルを支えた。
シャノンは殴られたことに落ち込む様子もなく、殴られた頬に手を当ててウインクして見せる。
「今できることはきちんとやっておかないと。だよな。」
言葉に成らない喚きで、アリスンが抗議したのは言うまでもない。
「それで、結局、ハロルドはどうして『オシリスの杖』を探しているわけ?」
ハロルドは運転席のシャノンをチラリと見てから話し始めた。
「そういう依頼があったからということもあるし、僕の開発した年代測定機を実用化する目的でもある。」
「展覧会で偽物を見破ったやつね。」
「そう。当時よりも大分コンパクトになったよ。持ち運びも操作も簡単。」
ハロルドはそういって鞄の中から懐中電灯のような物を取り出した。電球があるはずの場所には円錐形の針が付いている。シリンダーを挟んで目盛りが刻んであった。
「へー、これが?」
アリスンは手に取って見てみたが、価値も使い方もよくわからないといった扱い。
ハロルドは慌てて、アリスンの手からもぎ取って鞄に戻した。
「あの展覧会の展示品の中には本物だってあったんだ。まぁ詐欺騒動でケチが付いてうっちゃられてたんだけど。その中に『スタンホープ家のパレット』があった。これはその写し。」
アリスンはハロルドの手帳を覗き込んだ。
色彩豊かな壁画のような内容かと思ったが、象形文字と落書きのような線画だけの、あんまり魅力的でない物だった。
端の方にプタハ神と思われる人物が描かれ杖を手にしている。杖の真ん中にピラミッドの様な三角形が描かれ、そこから幾つもの線が放射状に引かれていた。
「非常に象徴的だがシンプルに書かれている。これは古代宗教儀式の儀礼書のようなものだ。内容は、『獅子の王がサソリの王を打ち、偉大なるプタハの息子が立った。王は人をむさぼらず、その背骨をもって、あまねく夜を照らす。」
ハロルドがアリスンを確認するように振り返る。アリスンはうなづいた。
「サッパリだわ。」 ハロルドは眠たそうにあくびをしてから続けた。
「獅子の王、サソリの王は古代エジプトの王様だと言う説がある。もしくは暦だ。獅子もサソリも星座のことで、ある特定の場所から観察できる星座の位置によって、どのぐらい前の時代なのか推定できる。それでいくと、エジプトが上下で統一されるより前だ。僕の作った測定機も、紀元前3000年前後の数値がでていて、一致している。書き方からみてプタハの息子というのも神ではなく人の王のことだろう。実際にそういう名前だった、もしくはプタハを崇拝していた王だ。そして背骨。この背骨こそが杖だと思うんだ。」
「ふぅん。」
「そしてこの内容がもしも本当なら、神話や伝説は歴史的事実になってくる。つまり杖も存在するわけだ。それが確かめられたらすごいことにならないかい?」
神話が遠い過去の現実だと証明されれば神話の解釈によって新たな事実、歴史的発見が飛躍的に増えるだろう。
多くの人間を引き付けてやまない謎の多くが解明されるかも知れないのだ。
エジプトに来るまで興味がなかったアリスンも、だんだん興奮してきた。
もしかしたら、一面が取れるかも知れない。
ハロルドが咳ばらいをした。
はっと我に帰るアリスンにシャノンが尋ねた。
「アリスン。それで、君の本当に知りたいことってなんだい?」
さっき殴った掌がピリピリする気がする。すっと冷えた空気を吸い込んで呼吸を整えた。
「全然関係ないんだけど、実は、記者だった父を捜しているの。もう三年も行方がわからないのよ。エジプトに来たのもタヌ…フランクがアシュレイ博士に会えっていうから…、ハロルド、会ったことないかしら?」
アリスンは、自分の手帳から写真を引っ張り出して見せた。
「名前は、『ジョナサン・バッドリー』。あの、両親は大分前に離婚して…私は母の姓を名乗ってて。」
写真を受け取りながら、ハロルドはシャノンの眉が跳ね上がるのを見た。
動揺を押し殺して、写真を確認すると、それをシャノンに渡した。
シャノンも、片手をハンドルに置いたまま、写真を見た。
(ちゃんと見てくれている。)
アリスンには意外だった。
写真を見る前から知らないと言われるのが常だったし、写真にしても、見たか見ないかぐらいで投げて返す人も多かった。
そういうことに慣れていく内に、あまり期待をしなくなり、知らないことを前提に、半ば儀式の様に見せることが多くなっていたのだ。
だからジープが道の端に寄せられ停車しても、何だろう、何かあったんだろうかと窓から外を見回していた。
シャノンの顔からおどけた雰囲気は消え、ハロルドと顔を見合わせ頷いている。
ハロルドは鞄から新聞の切り抜きを引っ張り出してアリスンに渡した。 新聞はハウタイムズ社のもので、日付は四年前の冬、見出しは『ファラオの呪いか?展覧会の主催者『カーナボン伯』焼死体で発見』という死亡記事だった。
写真には燃えている屋敷が写っていた。
そして、記事をかいたのはハイシャム・フランクリン。
写真を撮ったのはジョナサン・バッドリー……。
「…まさか。」
アリスンは喘ぐ様に口を動かして二人と紙面を交互に見つめた。
「残念だけど、今は何処にいるか知らない。だけど彼にはあったことがある。」
ハロルドがすまなさそうに言った。シャノンの顔にも一瞬苦いものが走った。
アリスンの顔には明らかに落胆の色が浮かんでいたが、それでも瞳を輝かせた。
手掛かりには違いないのだ。三年間捜し求めた、手掛かり。
アリスンの何度も記事に添えられた名前を確認していた。頭にはすぐに次の疑問が浮かぶ。
(なんで?パパは政治部担当のはずなのに、社会部の記事なんて?)
(でも、だから見つけられなかったんだわ。社会面はチェックしなかったもの。)
(なんでフランクは教えてくれなかったのかしら?…いいえ、だから社会部に置いてくれてたのかもしれない。密かに教えようとしてくれていたのかも…なのに私はすぐに短気を起こして…。)
この跳ねっ返りめ!と狸の声が聞こえた気がした。
その狸がハロルドに会わせてくれたのだ。
手掛かりはそこにあると。
だけど、ハロルドは、父の居所を知っているわけではなかった。
「力になれなくて、ごめんね。」
ハロルドが申し訳なさそうに言うと、シャノンが呟いた。その顔には決意の表情。
「そうとも言えないさ。」
今までになく真剣な顔、アリスンはちょっと警戒気味の顔をした。
油断は禁物だ。
二度はゆるさないと心に誓う。
しかし、シャノンはこの時ばかりは真面目に言葉を続けた。ハロルドも驚いているようだった。
「心当たりが全くないわけじゃないからな。カーナボン卿邸の火事はただの事故じゃないってことだ。偽物を作った呪いだなんて話じゃない。カーナボン卿の裏で手を引いてた奴らがいたんだ。そいつらの指示で展覧会で金を集めるつもりだったのに、ここにいる天才博士のせいで計画は失敗。偽物の出所や奴らとの繋がりを調べられちゃ困る、だから…」
「カーナボン伯爵は殺されたのね。あっ!…そうだわ、パパはその黒幕を調べていたのかも。その黒幕を探せばパパも見つかる…。」
「よしたほうがいい。」
頬を紅潮させているアリスンをハロルドがたしなめた。
「危険だよ。もし本当に黒幕がいたとして、家に火をつける殺人犯だよ。君のお父さんだって…」
「ハロルド!」
シャノンが声を上げた。ハロルドも気がついて謝った。
「僕の悪い癖だ。悪気はないんだけど、申し訳ない。」
アリスンは冷静なハロルドを憎らしく思って睨む。
シャノンは再び車を走らせ始めた。
「バッドリーは生きてる。と思う。奴らも欲しい情報があるだろうからな。」
アリスンはふと気がついた。
(この男は何を言っているの?)
ハロルド博士の友人?でもだからって、そんなこと知るはずない。まるで見てきたかのように。
「シャノン、あなたは何者なの?奴らって誰?」
「なに、君に恋してる一人の男だよ。」
ハロルドが息をついてそっぽを向いた。
「僕はフェアじゃないのは嫌いだ。」
アリスンは烈しい視線をシャノンに向けている。
観念したように、アクセルを踏みながらシャノンは言った。
「俺の名前はオッター・フォン・シャルディ・エンブルク・グロベナー伯爵。ハロルド・アシュレイの友人兼、身元引受人。イギリス情報局保安部第五課。特務諜報員。国家転覆を謀る秘密結社から秘宝を守るように密命を請けている。」
声もないアリスンを見て、シャノンはニヤリと笑った。
「改めてよろしく。アリスン・レイノルズ。」