ホテルにて
エジプトの夜は寒い。
砂漠の真ん中よりはいくらかマシではあるが、昼夜の温度差は結構はげしい。
乾燥した空気のせいで作物も育ちにくいが、それでもエジプト人の三割は農業を営んでいる。
今も昔もナイル川は人々の生活を支えているのだ。
しかし、ほとんどのエジプト人を養っているのはほかでもないピラミッドなどの世界遺産の産む外貨である。
この巨大な観光資源を目指し、近隣の国々から出稼ぎにやってくる人々は後をたたない。
観光客はもちろんのこと頻繁に発掘調査に訪れる世界各地の大学の研究者やテレビなどのマスコミは彼らの格好の餌食となる。
滞在費用はもちろん、発掘や調査の許可証の発行、手続きの費用、遺跡の入場料、観覧料と、お金のかからないものはない。
加えて、エジプトの財産を発見した場合には、その展示、発表、一切の権利はエジプト最高考古庁のものであるとされる。
それでも、得られる名声は大きく、好奇心や探究心から発掘におとずれるものも多い。
とはいえ発掘許可諸々、莫大な費用のかかるギャンブルへの出資は容易ならざるものである。
ハロルド・アシュレイ。
シャノンとアリスンの急場を救った、ジープの運転手はそう名乗った。
場所は、ピラミッドのある町ギーザからナイル川をはさんだ対岸、高層のビルやタワー、ホテルが建ち並ぶ首都カイロである。
荘厳な作りの、イギリス式ホテルのサロンは、夕食を食べるお客で賑わっていた。
「あのー。本当に、ほんっとうに、ハロルド・アシュレイ博士本人?」
豪華なコースのディナーの最中に、アリスンは三度質問を繰り返した。
円卓にアリスンと二人の男が正三角形を描く形で席に着いていた。
ハロルドと名乗った男は、食べ終わったお皿にナイフとフォークを置くと、眼鏡の位置を軽く直し、訴えた。
「あのね、君、しつこいよ。ちゃんと身分証明書みせたでしょ?」
癖のある赤毛を肩までのばし、ゴムで簡単に束ね、砂埃で汚れているが確かに白衣をジャケットのように羽織っている。
格好だけを見れば、なるほど博士や教授と見えなくもない。けれど、アリスンはなかなか納得がいかなかった。
ハロルド・アシュレイといえば、いくつもの大学院や研究施設を回り、そのどの分野でも博士号をとったという超天才と聞いている。
アメリカやイギリス、ロシアなどの有名な大学で籍の取合いや引抜きがあり、この博士専有の研究所や資金を国家規模で提供しているとかいないとか。
頭の隅には、白髪で白い髭、気難しそうな眼に丸眼鏡の老紳士というイメージが、がっちり張り付いていてなかなか現実を受け入れてはくれない。
(まさか、こんなに若い方だなんて。おっとりしてそうだし、どっちかっていうと間抜けな助手って感じよねぇ。)
「まいったなぁ。」
ハロルドは心底迷惑そうな顔をしてシャノンを見た。
シャノンのグラスにワインが注がれている。
シャノンは食事中ずっと喋らずに完璧なマナーで料理をたいらげているが、時折意味ありげな視線をアリスンに向けるので、アリスンはシャノンを無視していたのだ。
シャノンはニコニコと笑っていたが、ハロルドの視線に気が付くと慌てて口を動かした。
「そうそう。タオルと消毒薬と洗剤を、ダイナマイトがわりにするような奴は、こいつの他には知らないぜ。」
そう、あの時、黒いお嬢様から二人を助け出すために、ハロルドは即席ダイナマイトを放り投げたのだった。殺傷能力はないに等しいが、危険物には違いない。
ハロルドはため息をついて、いぶかしるアリスンに視線をもどした。
「べつに僕だって信じてくれなくてもかまわないんだけどね、君、僕の取材にきたんだろ?仕事できなきゃ困るんじゃないのかな?」
「こっ困ります!私、スクープがいるんです。すみませんでした。」
アリスンの顔から疑問の表情が消えて、真剣な表情になる。
焦っているのが伝わった。
(こんな時期に自分の所に取材に来るなんてよっぽどの物好きか、窓際に違いない。)
そう思って、ハロルドは眼鏡の向こうの堅い表情を崩した。
[オシリスの杖]
エジプト神話の冥界の王オシリスの持つ杖だ。ハロルドはそれを探しに来ていた。
だが、オシリスの杖自体は特に珍しいものではない。
オシリスは死者達の王であり、守り神だ。その像や壁画は墓の中には必ずといっていいほど奉られている。
今更、一つ二つ出土しても記事にはならない。観光客目当ての土産物屋でも売られているぐらいだ。
そんな記事を旅費を使って持って帰れば、クビにしてくたさいと言うようなもの。
アポイントメントをもらった時から首を傾げる事柄だった。
(彼女をクビにしたい上役がいるのか、…あるいは。)
ハロルドは探るようにアリスンを見る。アリスンは緊張した顔でハロルドを見つめ返した。
(あるいは、杖の秘密を知っているか…。)
「ハロルド、あんまりいじめるな。俺のかわいいエンジェルなんだぞ。」
その場の緊張を解くように緩んだ声がのびた。
「誰があんたのなのよ!!大体気味が悪いわ、なんで私の名前とか、趣味とかしってるわけ?」
ニコニコ笑い続けるシャノンにアリスンが猛然と抗議する。
「大学のサークルのhpだよ。君、すごーく人気者だ。射撃の腕前は相当のものだったらしいじゃないか。士官候補生とは恐れ入ったね。それより、怪我はしてないかい?天国から落っこちて来たんだろ?」
「なにそれ、気持ち悪い!大学は休学して三年になるわ。HPなんかあるわけない。」
「天使のファンは根強いみたいだよ。早く帰ってきてくれと書き込むくらいだから。さっきの投げ技は空軍特務学科で仕込まれたのかい?」
「!…そんなことまで。」
「いやー、大事な博士に変な人は近づけられないからね。ネットでちょこっと。新聞記者なのに自分自身の情報管理はずさんだねぇ。」
二人のそんなやり取りに驚きながら、ハロルドは笑った。
「ずいぶん打ち解けたな。アリスンさん。」
「アリスンでいいです。ありがとうございます。ホテルの部屋まで口添えしてくださって、本当に助かりました。」
そうなのだ。アリスンがカイロに着いた時間は遅く、町の中心から離れた安宿ならともかく、きちんとしたホテルの部屋は空いていないとチェックインを断られてしまったのだ。
それが、この二人がフロントで話をした途端、ホテルマンの態度は急変し、キャンセルが出たので部屋が空いたと言って来たのだ。
おかげでアリスンは温かいシャワーで砂埃を流し、サロンでゆっくりディナーを味わえたのである。
「君のような美しい客を断るホテルがおかしいのさ。まあダメだったら俺のベッドで朝まで…」
「おいおい、シェアしてる僕はどうなるんだ?」
「気にするな。」
ハロルドは呆れて口元だけで笑うと席をたった。
「ちょっと、シャノン!誰があなたなんかと。」
アリスンは赤い顔でシャノンに嫌悪の視線を向けるとハロルドについで席を立った。
「アシュレイ博士、…私も現場に同行しても…」
アリスンが言い終わらぬ内に、ハロルドは振り返らず答えて後ろ手を振った。
「ハロルドでいーよ。アリスン。取材はオーケーです。詳しい事は明日。朝七時にここで。」
「あっありがとうございます。」
そのままロビーにきえてしまった。部屋に戻ったのだろう。アリスンは安心しながら ハロルドの後ろ姿を見送ってから、シャノンのいるテーブルに戻らなければルームキー入りのハンドバッグが手に入れられないことに気が付いて、小さくため息をついた。
アリスンの泊まる部屋は思いの他広く、高い階層だった。
一人の窓際記者が使うにしては贅沢すぎていた。慌てて確認したが、部屋代は博士達が既に支払っていた。
(取材相手にホテル代金を出させるなんて…。私も偉くなったわね。)
アリスンは大きなソファーに座るとぼぅっと外を眺めた。
綺麗な夜景だ。
ナイル川沿いに建てられたホテルからの眺めは素晴らしかった。
ふと、ロンドンを思い出した。フリート街の新聞社のオフィスからはテムズ川が見えた。
アリスンの父親は新聞社の政治部の花形記者だった。家にはほとんど帰らず、常に事件を追っていた。
そんな父がある日突然消息を絶った。当然なにかの事件を追っていたはずだった。
父を探す為、その追っていた事件を知りたくて、大学を休学してハウタイムズ社に入った。
ところが三年経った今でも政治部にすら入れず、今回でとうとう首をきられることになりそうなのだ。
なんとかして手掛かりを得ようとしたが、父に関係する所は最初からなかったかのように、きれいさっぱり片付けられ、やんわり、じわじわとアリスンを閉めだそうとしているのを感じていたのだった。
立ち上がって頭を振りテラスへのガラス戸を開けた。
冷たい夜風が頬を撫でていく。
「考えても仕方ないわね。もうそろそろ潮時なのかも…。」
記者なんかやめて、パブでウエイトレスでもしながら復学したほうがいいのかもしれない。
父のことは忘れて。
髪をまとめたリボンをほどくと、栗色の髪がフワリと風に揺れる。その風に煙草の香りがまじった。
隣りの宿泊客が吸っているのかと思って視線を巡らせると、あろうことか、この部屋のテラスの長椅子にシャノンがくつろいでいた。
アリスンは思わず小さな悲鳴を上げた。
「あっあなたシャノンっ!?どうやってここに?あり得ないっ。」
シャノンは、驚いて悲鳴に近い声をあげるアリスンに、煙草をくわえたまま微笑んでトレーを差し出す。
銀色のトレーにはブドウやメロン、干したナツメヤシの実などがのっていた。
アリスンは目を白黒させながら、あまりの事に声もでない。
シャノンはニヤニヤと笑って隣りの部屋のテラスを示した。
隣りとの境を越えて来たのだ。
隣とはいえホテルの36階の高さ、足を滑らせたり突風が吹いたら一溜まりもないだろう。
「信じられない。あなたおかしいんじゃないの?」
たった今まで感傷に浸っていたアリスンだったが、どうやらそんな場合ではなくなってしまった。
(どうしよう?護身用の銃はフロントに預けてしまった。)
険しい顔で警戒するアリスンに、シャノンはからかうように言う。
「そうなんだ。なんだか君の声が聞きたくなってね、確かにおかしいなぁ。隣りにいると思ったらじっとしてられなくてさ。」
冗談にも程がある。吐き気がしそうだ。十分気持ち悪い。すでに犯罪だ。
嫌悪感が背中を駆け上がる。
しかし、意外なくらいに恐怖は感じない。
「自分でも驚くほど大胆になれるもんだね。運命の恋ってさ。」
シャノンが煙草を消して、立ち上がる。
静かなまなざしがまたもアリスンの瞳を捕らえた。
(…!)
目を逸らすことができずに、アリスンはあとずさった。
冗談地味た言葉とは裏腹に、驚くほど静かで澄んだエメラルドグリーン。
嫌悪感が引き潮のように退いていく。
恐怖ではない、しかし、アリスンの胸の中では危険を知らせるアラームが鳴っている。
瞳のその奥になにかが見えそうな気がした。
「‥白々しい。じゃあさっきサロンでキスしてた、金髪美女はなんなのよ。あなたの運命の恋人は一体何人いるのかしらね。」
食事の後、ポーチを取りに戻った時、赤いドレスをきた美女が、親しげにシャノンに近付いてきたのだ。
アリスンは、そそくさとその場を去ったので、サラサラの金髪がシャノンに被さるのを見ただけだったのだが。
「やだなぁ、キスなんてしてないさ。彼女は仕事の関係者で…。もしかして妬いてる?」
「馬鹿じゃないの?あり得ないわよ。旅先で会ってすぐの女を口説くような軽薄な男は趣味じゃないの。」
きっぱりとした態度で拒否するアリスンに、かまわずシャノンはずいずいと近付いてくる。
「俺は軽薄じゃないって。出会いって大事だぜ。アリスンに出会えたこの日を、熱く燃え上がる夜で飾りたいなぁ。」
シャノンの顔が近付いてきた。
この男は空気が読めないのか、読めないふりをしているのか、こちらの意図などまるで考えてないようだ。
「そんなことより、さっき言った仕事って?あなたは本当に博士の助手なの?あんな態度おかしくない?確かに博士より歳は上みたいだけど、彼はあなたの上司でしょ?それに、失礼かも知れないけど、あなた考古学とは縁があるように見えないわ。」
なんとか話題を逸らさねばならない。
相手のペースに乗っては駄目だ。
身を守る獲物を探して、ちらちらと周りを伺いながらとりあえず部屋に戻る。
机は無理、ゴミ箱は役に立たない、ランプは?イスもいいかも。
シャノンはそんなアリスンを見ても微笑みを崩さない。むしろ楽しんでいる風だ。
「ふぅん。記者ってのは伊達じゃないねぇ。確かに、俺が今1番興味があるのは考古学じゃなくて君のことだし。実際、助手って言ったのは君を安心させる為だし。あいつ、ハロルドとは友達みたいなもんだよ、道端に落っこちてたあいつを、偶然拾ったのが俺だった、みたいな。」
「なによそれ?全然答えになってない。」
「それに俺達、歳は同じだし。な?」
シャノンが言い終わらない内に、後ろのテラスにもう一人飛び移ってきたのが見えた。重そうな鞄を大事そうに抱えながら、アリスンに向かって軽く手を挙げる。
「でも、肉体の年齢と精神年齢はちがうだろ?人を捨て犬みたいに言わないでくれ。失礼、お邪魔するよ。」
「アシュレイ博士っ?」
「ハロルド。アリスン、ハロルドでかまわないよ。シャノン、そのくらいにしとかないと銃で撃たれるぞ。」
シャノンがいかにも残念そうに振り返り、ハロルドを見た。
「持ってたら撃ってるわよ。」
アリスンは非常識な侵入者達を睨んだ。
シャノンは笑って両手をあげる。
「彼女の銃は?」
「預けてあるものは手配したよ。アリスン、お寛ぎのところ申し訳ないんだけど、宿をかえることになったから、支度をしてくれないかな。」
「えっ?で、でも‥なんで?」
ハロルドが言い終わらないうちにシャノンがアリスンのリュックを肩にかけ、ハンガーからジャケットをとってアリスンの肩に引っ掛けた。
そのまま肩をだくようにして、部屋からでるように促す。
「わ、わかったわよ。けど、ちょっと離れてシャノン、ハロルド?」
ハロルドもシャノンもドアの外を伺っている。
少し開けただけで聞き覚えのある、高笑いが聞こえて来た。
どうやら隣部屋の鍵を支配人に開けさせようとしているらしい。
「これって…昼間の…?」
「ご名答。まぁあのインパクトじゃあ、忘れようもないか。彼女、相当のお金持ちでね、このホテル買い上げちゃったらしい。」
「うそ?そんなことってあるの?!」
「たとえ、オーナーでも貸してる部屋に強制侵入するなんてのは、ありえないと思うが。」
シャノンが眉をひそめる。アリスンが疑問の表情でハロルドを見た。
ハロルドは苦笑する。
「僕らはあのお嬢様には相当嫌われてるんだ。」
やがて扉が開き、急遽オーナーとなった少女と男どもがハロルド達の部屋に入っていった。
それと同時に三人は部屋を走り出た。
ハロルドの声は少し憮然として聞こえる。
シャノンが目配せする。
「四年くらい前にね、ロンドンで彼女のお父君が展覧会を開いたんだ。『古代文明の至宝』展。知ってる?」
いいえ、とアリスンは首をふった。三年前はまだアメリカの大学に居た。イギリス国内での展覧会などしるよしもない。
「僕は、当時年代鑑定がより正確に出来る機械をMITで開発してた縁で、ゲストとして呼ばれたんだ。なのに…。」
いかにも迷惑そうに眉をひそめるハロルドが言葉を詰まらせた。それをシャノンが繋げる。
「なのに、年代鑑定は当初の結果とは違う答えを出した。至宝と謳われたその殆どが、精巧に作られた偽物だったんだ。」
「それは大変ね。」
アリスンの頭には、新聞社のゴシップ関連の記者達の喜ぶ顔が浮かんだ。
「おかげで彼女のお父君は大恥をかいて失脚、ペテン師、詐欺師としばらく叩かれ、その後、事故死。」
アリスンは俯いた。
「…お気の毒。お父君だって騙されてたのかもしれないし。」
あの高慢な少女が、一気に可哀相に思えてきた。そんなアリスンの様子をみてシャノンが複雑な顔をしながら続けた。
「どうやらそうらしいが、当人が死んでしまっては疑惑も晴らしようがない。世間の人々は面白い方を信じる。」
ハロルドは苦々しい口調が崩れない。
「彼女の境遇には同情しなくもないが、こう何度も行く先々で邪魔をされるのは正直不快だし、僕を怨むのはお門違いだろ。公爵だか子爵だか知らないが、結局親の教育がなってないんだ。お金にものを言わせてホテルを買い上げるなんて、良家の婦女がすることじゃないだろ。」
ハロルドの言い分は間違ってないのだろうが、それほど熱くならなくてもと、シャノンがなだめる。
アリスンは天才と言われる博士にちょっと親しみを感じた。
「こんなことならさっさとキャンプに合流すればよかったんだ。シャノンが面倒ばかり背負い込むから僕が苦労する…」
「まあまあ、多少冷えるが夜の砂漠もなかなか悪くないぜ。男二人よりはやっぱり美女がいるほうがいいだろ?」
シャノンは睨む天才に片目をつぶってみせた。
慌ただしくエレベーターからホテルロビーに出ると、そこは更に騒然としていた。正確に言うとホテルの外だ。
北に向かって渋滞する車を縫ってパトカーがサイレンを鳴らし何台も走っていく。
ホテルのスタッフ達も心配そうに外を伺っている。
シャノンがクロークから荷物を受け取るとアリスンに渡した。
「考古学博物館で何かあったらしい。」
「へぇ、かなり厳重な警備のところなのに。中に入るまでに二回も持ち物チェックされたわ。」
荷物を受け取りながら、昼間のことを思い出した。
アリスンはエジプトを訪れたのは初めてだった。考古学についても今までそれほど興味があったわけでもない。
一応、仕事であるからには勉強も少しはしておこうと、博物館に立ち寄ったのだった。
観光客で賑わうのもそのはずで、展示されていた数々の遺物、宝物は見るものを圧倒し、感嘆のため息をつかせた。有名なツタンカーメン王のマスクもここにある。
そしてオシリス神の像も、その杖も。
アリスンの見たそれは石の彫像だった。上端は十字架の上の部分が輪になっているもの[アンク]があり、十字の下には四つの円盤を重ねた[ジェド]と呼ばれる柱の文様、長い柄の下端は二股に分かれた蛇避けの杖[ウアス]でできている。
説明書きによれば、もともと三つのシンボルを合わせたものだとあった。
生命・安定・支配。三重杖ともいう。そして同じ杖を持つ神がもう一柱いた。
フロントで話をきいてきたハロルドが、荷物を背負い直して足早に外へ促す。
「とにかく車に。このまま、メンフィスへ。そこからセスナでアビドゥスへ行こう。」
「アビドゥス?」
カイロからアビドゥスまでだと陸路なら二日近くかかるだろう。空を飛んでもかなり遠い。
「そうだよ。アビドゥスはオシリス信仰の中心地だったんだ、オシリスの墓と言われる葬祭所跡がいくつもある。僕らはそこでキャンプを張っている。杖を探すためにね。」
助手席から後部座席を振り返りながら、ハロルドが言った。
その隣であくびを噛みながらシャノンがハンドルをまわす。
「メンフィスも今からだと着くのは明け方だなぁ。ところで、記者さんは博物館の方に行かなくていいのかな?スクープになるかも知れないぜ?」
「そうね。なんでかしら?」
アリスンは首を傾げた。車を降りる気になれない。これが大きな事件だったら、アリスンの首がつながる記事をもって帰れるかもしれない。編集長はハロルド・アシュレイに会え、オシリスの杖のことを聞けと言っていたが、それだけだった。
無事にハロルドには会えたが、エジプトの発掘品の記事が、果してそんなに価値のあるものだろうか。
アリスンは今更ながら、編集長の意図を計りかねていた。
ただクビにするだけなら、こんな回りくどいことをする必要はないのに。
ハウタイムズ社社会部編集長、ハイシャム・フランクリンは、アリスンの父、ジョナサン・バッドリーとは同期で仲がよかった。
家族ぐるみの付き合いとまではいかなかったが、アリスン自身も幼い頃に何度か会い、面識を持っていたし、事実、彼を頼ってハウタイムズ社に入社したのだった。
夜の風は本当に冷たい。アリスンはシャツの前をかきあわせて身じろぎした。
ジープの窓は締め切っている筈なのに、息が白い。騒ぎから遠ざかるように南へ車は走っている。
(狸の言ったことだから、必ず何か意味があるんだわ。まだ何かはわからないけど、今はまだ投げ出せない。)
「私、多分、自分の首には興味がないの。」
窓の外を遠い目で見つめながら答えた。
その返答をバックミラー越しに受けとって、ハロルドはシャノンを意味ありげに見やった。
「ふぅん。」
シャノンはハロルドの視線を感じながらも前を見たままニヤリ笑って呟いた。
「ますます気に入ったねぇ。」