美魔女の旦那
金曜日の夜、駅前の立ち飲み屋。サラリーマンたちがビールを片手に一週間の疲れを洗い流している。僕は同期との飲み会の二次会を断って、一人でハイボールを飲んでいた。
店員が「ご注文は?」と声をかけてきた時も、僕はスマホから目を離さなかった。「ハイボール」とだけ答えて、また画面に視線を落とす。別に失礼なつもりはない。ただ、必要以上のやりとりが面倒なだけだ。
「そういうのがダメなんだよ」
隣に座った五十代くらいのおじさんが、僕のスマホを指差して言った。
「最近の若い子って、ちょっとしたことですぐ『それって不謹慎じゃないですか』とか言うくせに、人が話しかけてもスマホばっかり見てるよね。でもさ、その批判の仕方の方がよっぽど殺傷能力高いと思わない?」
面倒くさそうな人に絡まれた、と思いながらも、いきなりすぎて逆に気になってしまう。
「君たちはもっとメンタル強くしないとダメだよ。俺たちの時代はさ、エロ本買うのにもメンタルが要ったんだ。コンビニのおばさんレジに、ニヤニヤされながら持っていくわけだよ」
「ネットで買えばよくないですか」
「ネットなんてなかったんだよ!」おじさんは即座に返した。「iモードが出てきた時はみんな騒いだけど、最初はニュースとか天気とかそんなもんだ。パソコンだってみんなが持ってたわけじゃないし、ちょっと変なとこ開いたらすぐフリーズして、訳の分からない請求が来たりな」
「それは災難ですね」
「そうだよ!だから俺たちは本屋とかコンビニで現物を買うしかなかった。デジタルで気軽に済ませられるお前らとは、スタート地点が違うんだよ。でもそれだけじゃない。買った後も大変でさ、親に見つからない場所に隠すんだけど、使いたい時すぐ取り出せないと意味がない。本気で考えたよ、そういうことを」
「…隠す場所まで」
思わず口から出た。
「そう!そこが大事なんだよ」おじさんは身を乗り出した。「隠すってのはリスク管理でもあるんだ。見つかった時のダメージを最小限にしながら、必要な時にすぐに取り出せる。これだって大事なスキルだろ」
「今はスマホで全部済むんでしょ。でもそのスマホ、誰かに触らせる?」
「触らせないですけど、それはプライバシーの問題じゃ」
「そうだろ。みんなそうだから、お互い踏み込まない暗黙の了解ができてる。便利になった分、人と人の間に壁ができてるんだよ。信頼関係ってのはさ、そういう踏み込むところから生まれるんだ」
プライバシーと壁は違う気がする。でも何となく反論できなかった。
「コンビニで買えないヤツはな、深夜に自販機まで行くことになる。割高な上に、ラインナップがマニアックでさ。表紙を吟味して選ぶんだけど、今と違ってエロ本のモデルってのは、綺麗じゃない子もいっぱいいたんだよ。自己責任で選んで、開けてみて頭を抱える。今風に言えばガチャだな」
おじさんは遠い目をした。やけにリアルだ。
「…おじさん、メンタル弱かったってことですか?」
「その日によって違うんだよ!」
思わず笑った。
「でもそれでも買いに行くわけだ。恥ずかしくても、外れを引いても、それでも行動する。メンタルってのはそういうところで鍛えられる。生きていく上で絶対必要なものなんだよ」
話の筋が合ってるのか、ただの酔っ払いの屁理屈なのか、正直よく分からない。でもなんとなく聞いてしまっている。鋭いところを突かれている気もするし、バカにされている気もする。おじさんは楽しそうだ。そして笑ってしまう自分がいた。
「その話、使わせてもらっていいですか。他の人にも聞かせたくなってきちゃって」
「おっ、分かるか!そうだろそうだろ」
おじさんは嬉しそうに身を乗り出した、その時だった。
店の入り口から上品な女性が入ってきた。四十代後半くらい、落ち着いた美しさのある、いわゆる美魔女という感じの人だった。
「もしかして、絡まれてました?ごめんなさいね、めんどくさい人だったでしょ」
女性は僕に向かって頭を下げてから、おじさんに視線を移した。
「あんまりみっともない酔い方しないで。私が恥ずかしいんだから」
おじさんはさっきまでの威勢はどこへやら、急に猫背になっておとなしく立ち上がった。
「じゃあ、お先に」
二人は店を出て行った。僕は呆然とその後ろ姿を見送った。
え、今の、あのエロ本おじさんの奥さん?あんな綺麗な人が、あの変なおじさんでいいの?何者だよ、あのおじさん…。
だけど変な話だったけど、悪くなかった。というか、久しぶりに誰かと話して笑った気がする。一人の時間が充実してると思ってたけど、それだけだと人生ちょっと損してるんじゃないか、そんな気がしてきた。
ハイボールを飲み干して、僕は店を出た。
※おじさんのモデルは私ではありません。
あなたのお父さんです。




