聖女様、悪役令嬢に転生する
主人公は、悪役令嬢ではなく婚約者の王子です。
悪役令嬢カトリーヌは、前世の聖女だった記憶を思い出しますが、特に言う必要がないと思ったので誰にも言いません。
「まいったな………彼女は、またやらかしたのか?」
私は、執務机に置かれた報告書を指で弾いた。
カトリーヌが、とある令嬢に茶をかけたらしい。
目に浮かぶ惨状に、ため息が溢れる。
その令嬢は先日、気まぐれで手を出した娘だ。
もう名前すら思い出せない、そういう相手。
面倒だな……と、思わず本音が漏れる。
彼女は少し狭量すぎるのではないだろうか?
婚約者であるカトリーヌは完璧な令嬢だ。
美しい容姿、隙のない教養、申し分のない家柄。
王太子妃としてこれ以上の存在はいない。
──ただ一つを除けば。
私に対する『独占欲』が強すぎるのだ。
それだけが、どうにも厄介だった。
私は王である以上、側室は持たせてもらう。
三人……いや、四人ほどいてもいい。
愛人だっていても問題ないはずだ。
王族として、それくらいは普通だろう。
だが、カトリーヌはそれを許さない。
他の女に触れれば怒り、関われば排除しようとする。
今回のように、表立って騒ぎを起こすことすらある。
正直、面倒だった。
とはいえ、見た目はかなり好みなのだ。
あの整った顔立ちも、凛とした佇まいも、完璧に計算された微笑みも。
すべてが美しく、王妃にふさわしい。
嫉妬さえしなければ、理想そのもの。
だから余計に惜しいと思う。
きっと今日か明日あたり、彼女はここへ来るだろう。
怒りを滲ませた瞳で、私を責めに来るのだ。
仕方がないか……と、また一つため息をついた。
だが、カトリーヌは来なかった。
翌日も。そのまた翌日も。
違和感が胸に引っかかる。
どうして来ないのだ?
あれほど私に執着している彼女が、何も言ってこないなんてあり得ない。
気になって側近に様子を見てくるよう命じた。
そして、報告はすぐに上がってきた。
「カトリーヌ様は、孤児院にいらっしゃいました」
「孤児院?」
思わず眉をひそめる。
詳しく話を聞けば、昨日は炊き出しを手伝っていたそうだ。さらにその前は病院を訪れていたという。
「……どういうことだ?」
カトリーヌは慈善事業に寄付はしていたが、わざわざ自ら足を運ぶことなどなかったはずだ。
それから数日すぎても、彼女は訪ねて来なかった。
一体、何を考えているのだ?
意味の分からない状況に神経が逆撫でされる。
指先で執務机を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
「……こちらから行く」
そう言って足を向けた孤児院には、今まで見たことのない表情をした彼女がいた。
子どもたちに囲まれ、柔らかく微笑んでいる。
その笑顔はどこまでも自然で温かい。
貴族の矜持を脱ぎ捨てた、無垢で無防備な笑顔。
妙に胸がざわついた。
あんな顔を私は知らない。
いつも見ていたのは、完璧に整えられた令嬢の顔だ。
焦燥に駆られて声をかけた。
「カトリーヌ!」
「………殿下?」
振り向いた彼女は、いつもと同じように美しかった。
だが、どこかが違う。
「君は、その………怒ってないのか?」
思わず、そう聞いていた。
これまでの彼女なら、怒りに満ちた目をして問い詰めてきたはずだ。
浮気なんて許さないと、嫉妬の炎を燃やして。
しかし、カトリーヌは優しく微笑んでいる。
「殿下のお好きなようになさって下さい」
穏やかな言葉に、胸がざらりとした。
「それは……どういう意味だ?」
「そのままの意味ですわ」
静かな声だった。
責めるでもなく縋るでもなく。
まるで遠くから聞こえてくるような温度のない声。
「な、なぜ………怒らない?」
戸惑いを隠せず問い詰めるように聞くと、彼女は少し困った顔をした。
「私は、目が覚めたのです」
「目が覚めた?」
「これまでの私は、嫉妬に囚われておりました。それはとても恥ずべきことです」
カトリーヌは、まるで懺悔でもしているみたいに粛々と言葉を続けた。
「多くの方に、酷いことをしてしまいました。深く反省しております」
顔を上げた彼女の瞳は澄んでいた。
嫉妬も、執着も、独占欲も、全部消えている。
「まるで人が変わったようだな?」
皮肉っぽく返すと、彼女はまた少し困った顔をした。
あれから、カトリーヌは本当に変わってしまった。
誰に対しても優しく、分け隔てなく笑顔を向ける。
孤児院、教会、病院……人々のために費やす日々。
私のところには、全く顔を見せなくなった。
避けられているのとは違う。
私が声をかければ来るのだ。
ただそれだけ。それだけのことが、これほど癪に障るとは思わなかった。
先日、私はカトリーヌに首飾りを贈った。
昔みたいに、平静を装いながら頬を赤らめる、あの顔が見たかったから。
「君に似合うと思ってな」
そう言って差し出すと、彼女は首を横に振った。
「お気持ちだけ頂戴いたします」
「なぜ……だ?」
「私のためではなく、国民のためにお使い下さいませ」
そう言って、彼女はまた穏やかに微笑んだ。
孤児院で見せていたのと同じ笑顔。
気付けば、彼女の評判は急上昇していた。
人々はカトリーヌを讃え、慕い、時には祈るみたいに彼女の名を口にする。
“カトリーヌ様を見守る会”
“カトリーヌ様の幸せを願う会”
そんなものまで、できているらしい。
以前の彼女はもっと、気高い美しさをまとっていて、近寄りがたい存在だったはずだ。だが今は違う。
誰もが救いを求めたくなるような……まるで、物語りに出てくる聖女様そのもの。
私のことを、好きではなかったのか?
答えは分かっている。
好きだったのだ。だから嫉妬し、怒り、縋った。
でも、今は違う。
彼女の中にあった想いは消えてしまった。
我儘なカトリーヌはもういない。
怒ってもいい、泣いてもいいから。
あの燃えるような瞳で見つめてほしい。
こんなに誰かを欲したことはなかった。
苦しくて切ないのに何度も考えてしまう。
変わる前の君に会いたい。あの頃の君がいい。
もしかしたらこれは、初恋というものだろうか?
今さら気づいた自分に反吐が出る。
好きな人に振り向いてもらえないことが、これほど苦しいなんて知らなかった。
これは罰なのか? 彼女をぞんざいに扱った罰?
カトリーヌは婚約者だ。いずれ結婚するだろう。
彼女はきっと従う。
そして、王太子妃としての義務を果たす。
世継ぎも産むだろう。
だが、そこに愛はない。
熱のない瞳で穏やかに微笑むだけ。
浮気なんてしなければ良かった。
軽い気持ちで、火遊びなどするんじゃなかった。
そうしたら何かが変わっていただろうか?
今さら何をしても、あの熱は戻らない。
気付くのが遅すぎたのだ。
遠ざかっていく背中をただ黙って眺めているだけ。
どうすることもできない。
結婚式は盛大に執り行われた。
国中が祝福ムードに包まれている。
誰もが「理想の王太子妃様」だと称賛した。
慈愛に満ち、高潔で美しい。
民を想い、誰にでも平等に微笑むそのお姿は、まるで天から遣わされた聖女様のようだと。
その隣に立つ自分もまた称賛された。
心の中で何度も否定する。違う。全部違うのだ。
だが誰もそれに気づかない。
隣に立つカトリーヌは完璧だった。
式の最中も、誓いの言葉も、口づけでさえも。
何一つ間違えない。
だけど彼女の瞳には、喜びも情熱も何もない。
まるで空っぽの人形。
初夜。豪奢な寝台で彼女の名を呼ぶ。
「…………カトリーヌ」
彼女は私の隣に座り、優しく微笑んでいる。
どこまでも穏やかで他人行儀な笑顔。
その顔が見えないように、細い肩を抱き寄せた。
彼女は拒むことなくされるがままだ。
以前は私に少し触れられるだけで、ひどく恥ずかしがっていたのに。
「……殿下?」
彼女が、不思議そうに首を傾げた。
その反応に胸が抉られる。
「なぜ……そんな顔をするのだ?」
「どのような顔でございましょう?」
「私に触れられても、何とも思わないのか?」
問いは、ほとんど懇願だった。
カトリーヌは一瞬、考えるような顔をした。
「殿下は、夫でいらっしゃいますから」
穏やかな声で、そう答えた。
愛も羞恥も喜びもない。ただの役割。
「私は………そんなものが欲しいのではないっ!」
強く抱き締めるとその体は簡単に腕の中に収まった。
腕の中にいるのに遠くに感じる。恐ろしいほどに。
「そんな目で……私を見るな……」
「申し訳ございません。では、どのような目で見ればよろしいのでしょうか?」
分からない、と言いたげな声音だった。
私が欲しかったのは君じゃない。
もっと欲深くて愚かな君に会いたいのだ。
「殿下? ……ちゃんと役目は果たしますので…」
その一言で、私の中の何かが壊れた気がする。
酒を呷り、丁寧に整えられた夜着に手を伸ばす。
胸元のリボンを外すと、ハラリと白い胸がこぼれた。
滑らかで柔らかい肌に指を滑らせる。
彼女が愛用していた薔薇の香油は、いつのまにか石鹸の香りに変わっていた。
私のものだと言い聞かせるように、小さな肩に歯を立てる。跡が残るほど強く。強く。
かつての彼女なら、顔をしかめて睨んだだろう。
あるいは、愛おしげに私の名を呼んだかもしれない。
だが、今のカトリーヌは違う。
ビクリと体を震わせて、不思議そうな顔をするだけ。
まるで、道化にでもなった気分だ。
味も素っ気もない反応に打ちのめされる。
窓に朝日が差し込む頃、少しだけ夢を見た。
まだ幼かった二人の懐かしい記憶。
王城の庭園には、満開の薔薇が咲いていた。
カトリーヌは今よりずっとあどけない顔をしていて、それでもすでに美しくて気品があった。
「これを君に」
そう言って、薔薇を一輪差し出す。
すると彼女は目を丸くして、少しだけ頬を染めた。
「どうして、私に?」
「ほら、甘い香りがするだろう?………僕は、この香りが好きなんだ。だから君にあげるよ」
そう言うと、カトリーヌは嬉しそうに笑った。
風が吹いて薔薇の香りがふわりと広がる。
──ああ、この香りだ。
彼女はあれからずっと、この香りをまとっていた。
はっと、目が覚める。
薄暗い寝室。隣にはカトリーヌが眠っている。
規則正しい寝息。乱れのない横顔。
そっと、彼女に顔を寄せた。
かすかに香る匂いを確かめるように。
ほんのり感じたのは、甘い薔薇ではなかった。
ただ清潔なだけの……つまらない香り。
なんて無機質で穢れのない香りなのだろう。
そこには、甘さも未練もなにも残ってはいない。
やがて待望の世継ぎが生まれた。
民は歓喜し、国中に祝祭の空気が流れる。
カトリーヌは模範のような母となった。
今日も、曇りのない献身で我が子を愛している。
「………カトリーヌ」
名を呼ぶと、彼女は振り向いて返事をする。
穏やかな微笑みを浮かべた聖母のような顔で。
その瞳が映しているものは、愛しい夫の顔ではなく、民の平穏と国家の安寧。
私はこの国で最も完璧な王太子妃を手に入れた。
国は栄え、民は笑い、世継ぎは健やかに育っている。
これ以上の幸福など、この世のどこにもない。
そうだ。私は幸せな王になる……そうでないと困る。
君もそう思うだろう? ──私のカトリーヌ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ブックマーク・いいね・評価、励みになっております。
博愛主義に目覚めたカトリーヌは、殿下の苦しみに気付くことはありません。国や民を愛するのと同じように、夫のことも等しく愛するのです。




