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後編

五、


 二浪目の生活が始まった。一浪目の比ではないプレッシャーに、僕は押しつぶされそうな思いだった。いよいよ後がなかった。一浪目にも増して、医学部に合格する以外に将来の選択肢がないという思いが強くなっていた。


 二浪目は他の医学部予備校に通うことになった。とはいえ、相変わらずものすごい量の学費を払わなければならないかったし、勉強漬けの生活に、なんら変化はなかった。もう、幸田や下村に会うこともなかった。今度の予備校では、他人との関わりも一切断って、勉強に専念しようと心に誓っていた。


 二浪目ともなってくると、一通り勉強は終わっていたので、受験勉強で真新しさを感じることも、まったくなくなっていた。同じことを淡々と暗記し続ける日々はただ退屈で、自分だけが目まぐるしく変化し続ける世間の喧騒から取り残されたような気がして、医学部に合格できるのか否かという不安とは別の、発作的に込み上げてくる焦燥感にも苦しむことになった。生活の楽しみは何もなかったし、ただ感情を押し殺して、日々が過ぎ去っていくのをひたすらに耐えている感じだった。


 五月にその年度の最初の模試があり、六月に結果が返ってきた。その結果は、目も当てられない悲惨なものだった。いや、世間一般に見ればそこまでひどいことはなかったのかもしれないが、医学部志望の浪人生としては、到底納得のいくものではなかったのである。


 「数学の偏差値が51、英語の偏差値が49?あんた、何やってるのよ、心を入れ替えて頑張るんじゃなかったの?」


 母親に模試の成績表を見せると、彼女は見るからに不機嫌な顔になった。


 「お父さんも、『今年が最後だ』って言っていたでしょう?人生がかかっているのよ!もっと頑張りなさい!」


 その日は悪夢にうなされて、まともに眠れなかった。次の年も受験に失敗して、家から追い出される悪夢だった。非常にリアルで、家から真っ暗な寒空の下に叩き出された後に感じた悪寒まで、つぶさに感じることができた。夢の中で、父親は、


 「最初から、お前に対する愛情なんか、なかったんだ。二十年続いた家族ごっこも、もう終わりだ。」


 と、にやついた顔で言った。もちろん夢の中での出来事ではあったけれども、現実の父親の本心を垣間見た気がして、恐ろしくなった。


 その次の日に、予備校で授業を受けていたときのことだった。この時に始まったことではなかったのだが、授業をする講師の声が、意味を持たない雑音の羅列のように思えて、とても授業に集中できる状況ではなかった。ホワイトボードとテキストを眺めながら、どの単元の話をしているのかは、辛うじて認識できていた。だが、講師に指されて質問をされると、当然のように答えることができなかった。僕はしばらくは考える素振りをしていたのだが、そのうちに内側から抑えきれない、なんとも形容し難い感情があふれ出てきて、気が付けば涙が頬を伝っていた。焦って涙を隠そうとしたが、涙の勢いは止まらず、しまいには僕はその場で嗚咽を漏らしながら、すすり泣いていた。


 「ええ、今日はとても授業を受けられる状態ではないので。申し上げにくいですが、かなり精神的に追い詰められているようでして。心療内科の受診も検討された方が良いかと。いえいえ、うちでは決して珍しい話ではないんですよ。」


 ただ事ではないと感じた予備校のスタッフが母親に連絡し、そのスタッフは、電話口で心療内科の受診を勧めていたようだった。


 「終わったな。何もかも。」


 僕はそんなことを考えていた。冷静に考えて、この状況はかなりまずいはずだったのだが、焦燥感と同時に、不思議な開放感も感じていた。とりあえず、当面の間は勉強をしなくても良いらしかったのである。その事実に、安心感を覚えていた自分がいた。


 「中程度のうつ病と、パニック障害を併発されているようです。お伝えしにくいことですが、少なくとも当面は、受験勉強は辞められた方がよいでしょう。とても、勉強に集中できる心身の状態ではありませんから。」


 僕の診察を一通り終えた精神科医は、診察室に同行していた母親を呼んで、重苦しい雰囲気でそのように言った。その言葉は、僕と母親にとっては死刑宣告に等しいと言っても、過言ではなかった。それまで受験勉強にかけてきた何年間もの時間や膨大なお金が、水泡に帰してしまったということだったのだから。


 「『当面』って、どのくらいなんですか?そんな簡単に言いますけど、うちの子には医者になるしか、生きる道はないんです。ここで受験勉強を辞めたら、この先の人生がどうなってしまうのか、そこまで考えて仰っているんですか?」


 当然のように、母親は事実を受け止められない様子で、精神科医に食って掛かった。それに対して精神科医はまったく動じる様子も見せず、


 「一年から二年くらいは、休養が必要です。精神科の病気では、珍しい話ではありません。お気持ちはよくわかりますが、今の状態で勉強を続けられても、病気が悪化するばかりで何も良いことはありません。スポーツ選手でも、怪我をしたら休むのが普通でしょう?精神の病気は、脳の病気なのです。脳が不調を訴えているのですから、それを酷使するような活動は控えなければなりません。」


 と丁寧な口調で答えた。僕はその時、「この人は、頼りになるかもしれない」と直感的に思った。だが、母親は別の感情を抱いていたらしく、


 「脳の病気って仰いますけど、脳の検査をしたわけでもないのに、どうしてわかるんですか?それに、一年から二年くらいっていう、その休養期間の根拠もよくわからないですし。」


 と、精神科医に向かって散々悪態をつき続けた。だが、その何年か前に父親の同僚がうつ病で自殺をしたことがあり、僕がうつ病だと診察されたことで、両親は僕もそうなるかもしれないと思ったのか、家に帰ってからは部屋にこもっている限りは、彼らの方から何かを言ってくることもなかった。


 当然、うつ病に苦しんでいる精神状態で、ゲームをしてもテレビを見てもまったく楽しくはなかったのだが、僕はほとんどの時間を布団にくるまって、過ぎ去っていく時間に、ただ身をゆだね続けていた。


六、


 それからしばらくは、月に数回のペースで、心療内科に通うようになった。予備校は辞めてしまった。心療内科に向かうときが、ほとんど唯一と言っていい、外出の時間だった。


 両親は僕がうつ病と診断されてからというもの、ひどく落胆した様子は読み取れたものの、あれこれと言ってくることもなくなった。ただ、食事などで顔を合わせるのがよっぽど嫌だったのか、食事は決まった時間に、母親が部屋の外にトレーで置いていくようになった。僕の方も、その時の心理状態できついことは言われたくなかったし、顔を合わせたくないと思っていたから、そのことに異存はなかった。


 家では部屋に閉じこもってゴロゴロしていることが多かったのだが、心療内科でもらった薬を飲みつつ休養していると、少しずつ頭が働くようになってきた。僕の主治医は最初の診察のときに、


 「精神の病気は、脳の病気なんです。」


 と言っていたが、薬を飲んで脳の働きを整えることで症状が改善したのだから、やはり心というものは脳の働きによって生み出されているのだなあ、と体感的にわかった気がした。


 僕は初対面のときから主治医のことを「頼りになりそうだ」と思っていたが、彼のコミュニケーションのスタイルは、余計なことは一切言わないし、かと言って冷淡な印象も与えず、適度な距離感を保ったもので、プロフェッショナルとしての風格を感じさせられた。きっと、精神状態が不安定な人たちと関わっていくには、こういうコミュニケーションの仕方を身につけないと文字通り生き残っていけないのだろう、と考えさせられた。


 さて、通院が始まって数か月が経ち、少しずつ元気になってきた頃だった。主治医から知能検査を受けるように勧められ、僕もとくに疑問も持たずに、それに従った。けっこう長時間のテストで、集中力が必要な作業も少なからずあったので、受検した日はグロッキーになった。その次の診察のときに、主治医ではなく心理士さんから、結果を伝えられた。


 「全検査IQは105ですね。下位項目のばらつきもほとんどなく、先生も仰っていましたが、発達障害や知的障害などの問題を抱えておられる可能性は低いと思われます。」


 ぼくは、検査の結果を示す表と折れ線グラフとを見つめつつ、


 「IQの平均って、100なんですよね?じゃあ、僕は平均よりは知能が高めだということなんですか?」


 と尋ねた。心理士は軽く頷いて、


 「仰る通りです。IQは全人口の知能の平均を100として、そこからの乖離を数値化したものです。105ということは、偏差値でいえば53とか、54くらいの結果です。」


 と言った後、検査の結果表に視線を向けて、


 「ただ、下位項目ごとに見た場合、ご覧の通り『言語理解』のスコアが97と、他よりもやや低く出ています。これは、概念を言葉として理解する能力を表した数値でして、これが低い方には、例えば学校の勉強で言えば『数学のような理系科目よりも、国語や英語のような文系科目が苦手』というようなことが起こりやすいです。」


 と、言語理解のスコアのところを指さしながら、ゆっくりと話した。正直、それまでにもIQと言う言葉を聞いたことがあったのだが、眉唾物だと思っていた。人間の頭の良さを、そんなに簡単に数値化できるものか、と思っていたし、たまにテレビで「IQ140」とか紹介されているような人が、クイズ番組くらいでしか活躍していないイメージがあったからだ。


 だが実際に、僕は模試などで数学の方が英語よりも点数が高いことが常だったので、意外と正確に結果が出ているんじゃないか、という気持ちになった。僕の全体のスコアが「偏差値でいえば53とか、54くらい」というのも、妙にリアルな気がした。模試の偏差値も、50くらいのことが多かったからだ。


 心理士から検査の結果について説明を受けた後、診察室で主治医と話す時間があった。主治医は椅子の上で脚を組み直しながら、


 「結果を見て、どう思われましたか?」


 と尋ねてきた。僕は、


 「とりあえず、障害とかがあるわけじゃないといことで、安心しました。」


 と前置いた後、


 「言語理解のスコアが低かったみたいで、受験勉強でも僕は英語が苦手だったんですけど、それも関係しているのかな、と思いました。」


 と、思ったことを率直に話した。それを聞いて主治医は、髭がきれいに剃られた艶の良い顎にそっと手を添えて、


 「それは、大いに関係しているでしょう。実を言うと、今回のあなたのスコアは、ほぼ僕の予想通りのものでした。」


 と、思いがけないことを言った。「えっ」と言わんばかりに見開かれた僕の目を見て、主治医は、


 「いきなり変なことを言って、すみません。でも、学業成績とIQとの間には、かなり強い相関関係があるんです。あなたの成育歴や、予備校での様子を聞いていて、どのくらいのIQをお持ちかは、ある程度予想が付いたんです。」


 と、宥めるように言った。それを聞いて、僕は思い切って、気になっていたことを聞いてみた。


 「僕くらいのIQの人が、医学部の受験に合格することは、可能なんですか?」


 この僕からの問いに、精神科医は一瞬視線を外して、ため息をついた。だが、その後は迷う様子もなく、


 「正直なことを言いますと、ゼロとは言いませんが、かなり難しいと思います。」


 と断言した。なんとなく予想はできた答えだったが、実際に言われてみると、自分の中で何かが崩れていくような思いだった。それまで僕は、両親にも、学校や予備校の講師にも、「どんなに苦しくても、頑張れば必ず結果はついてくる」と言われてきた。その言葉は僕にとっての希望であったのと同時に、多大な苦しみの源でもあった。あれほど言われてきたあの言葉は、僕をポジティブな意味でもネガティブな意味でも突き動かしてきたあの言葉は、嘘だったということなのだろうか―


 僕の脳裏を一連の思考が駆け巡っている間、主治医は、僕の目をじっと見つめていた。その視線はまるで、僕の心中を察していたかのようだった。しばらくの沈黙の後、再び彼は重い口を開いた。


 「スポーツでも、生まれつき運動神経が良い人もいれば、悪い人もいるでしょう。そして、確かに運動神経が悪い人でも、良い指導者に本人の努力が伴えば、劇的にパフォーマンスが改善することはあります。しかし多くの場合、生まれつきの素質に努力や環境が伴った人たちには、どんなに頑張っても勝てません。勉強でも同じようなことが言えて、生まれつきの向き不向きは、どうしてもあるのです。受験で言えば、医学部受験ともなるとトップレベルの戦いになりますから、努力だけではなく、生まれつきの素質もある程度は伴っていないと、かなり厳しいのです。」


 この言葉を聞いて、僕はすかさず、


 「じゃあ具体的に、医学部に合格するためには、どのくらいのIQが必要なんですか?」


 と切り返した。主治医は淡々とした様子で、


 「一般には、医師の平均IQは115~120くらいと言われています。つまり、この水準を下回っている人は何倍も努力が必要ということになりますし、この水準より10も20も低いとなると、医師になることはかなり困難だと言わざるを得ないでしょう。そもそも医学部の受験に合格できませんし、百歩譲って合格できたとしても、その後の大学の勉強で躓く可能性がかなり高くなると思います。」


 と答えた。それを聞きながら、僕は、ヘナヘナっと全身が脱力していくのを感じていた。


 「僕はずっと、勝ち目のないレースを走らされていたのか・・・」 


七、


主治医の話を聞いて、僕の中で、「自分は無駄なことばかりをやらされて、人生を棒に振ってきたんじゃないか」という思いが強くなっていった。うつ病になるまで頑張ったのは、一体何のためだったのだろうか・・・


 主治医は、僕の打ちひしがれた様子を見て何かを感じたのか、このようなことも言った。


 「あなたは、非常に真面目な人です。そもそも真面目な人しか、うつ病にはならないものなのです。今までは、努力の方向性を間違えていたから力を発揮できて来ませんでしたが、その真面目さが人の役に立つ場は、社会の中に必ずあるはずです。もっと自分をいたわってあげてください。今までずっと、限界を超えるまで頑張ってきたのですから。」


 ああそうか、自分は悪くなかったんだ。そのように考えることで、幾分か救われたような気がした。そして、人生が終わってしまったような、将来に対する漠然とした不安も、少し和らいだことを感じた。だが、よくよく考えてみると、現実的な問題は何も解決していないようにも思えた。将来の道筋が見えているわけでもないし、結局明らかになったのは、少なくとも知能という点においては、僕にはずば抜けた能力があるわけではない、ということだけだったのだから。


 だから、僕はその場で、


 「仰ることはわかります。しかしでは、この先僕は、どのようにして生きていけばよいのでしょうか?」


 と尋ねざるを得なかった。それは、偽りのない本心からの問いかけだった。この問いに対しても主治医は一片の迷いも見せずに、


 「まだあなたは若いです。安心してください。医者になることは難しいにしても、その他の選択肢も無数にあります。時間をかけて、自分に合う道を見つけていかれることが、良いかと思います。」


 と言って一息ついてから、


 「デイケアに来てみませんか?デイケアは、精神の病気をお持ちの方が社会復帰に向けたリハビリを行う場で、様々な背景をお持ちの方が集まっています。色々な方とお話されることで、ご自身の人生の参考になる気づきも得られるかもしれません。」


 と、言葉を続けた。他にやることがあるわけでもなかったので、僕はすんなりとこの誘いを受け入れた。


 デイケアは、学校や予備校など、それまでの人生で経験してきた空間と比べると、はるかに緩い場だった。他の患者さんと交流しながら、朝九時から午後三時までの時間、絵を描いたり、簡単な工作をしたり、料理をしたり、といったプログラムをこなしていく。一応プログラムという名目にはなっていたが、疲れたら休んでもよかったし、ノルマなどがあって急かされるわけでもなかった。あくまでマイペースで取り組めばよかったのである。


 昼休みもあり、一日の時間がゆっくりと過ぎていった。予備校を辞めてからの数か月間は、ほとんど引きこもりみたいな生活を送っていたので、最初は朝起きなければならないことに若干の苦痛を覚えたが、一週間もすれば慣れた。生活のリズムが整って、デイケアに通うことで、さらに体調が回復していくことを感じた。


 プログラムの合間や、昼休みの時間に他の患者さんと話すための時間はいくらでもあったのだが、精神の病気の患者さんは大人しい人が多いらしく、部屋は静かなことが多かった。ただ、女性の患者さん同士がヒソヒソと雑談をしておられたのは、よく目にした。


 さて、デイケアに通うようになってから数週間が経ったある日、昼休みに、いつものように一人で食事をとっていると、たまたま空いていたテーブルの隣の席に、小柄な中年男性が「いいですか?」と言って、腰をかけた。当然、その中年男性もちょくちょくデイケアに顔を見せていたから、顔を見たことはあったし、名前くらいは知っていたのだが、それ以上のことはわからなかった。


 最初の何分間かは僕もその男性も言葉を交わさずに、黙々と食事を口に運んでいたのだが、不意に、その男性は「内山さんですね?」と僕の名前を確認した上で、


 「あなたは、どういう経緯でここに来られたんですか?」


 と尋ねてきた。その男性はジャージを着ていることが多かったのだが、全体的に清潔感があったし、安心感を与えるような静かな口調だったので、とくに隠す理由もないと思い、もともと医者をめざして受験勉強に励んでいたことや、うつ病と診断されたことなどを、手短かに話した。


 男性は僕の話を頷きながら一通り聞くと、今度は頼まれたわけでもないのに、自分の身の上を話し始めた。その男性は42歳で、30歳頃までは社労士として働いていたのだが、統合失調症を発症し、その後は仕事ができなくなり、実家で年老いた両親と住みながら、週に何回か通う作業所の工賃と障害年金をやり繰りして暮らしている、という話だった。彼は、


 「病気になる前は結婚もしていたんだけど、妻には逃げられてしまった。」


 と苦笑いした。こう言っては失礼かもしれないが、意外と普通の人生を送ってこられたんだな、と率直に思った。今のジャージ姿の彼からは、スーツを着こなしてバリバリ仕事をしていた過去を、とても想像できなかった。


 お互いに自己紹介を済まして、お互いの病気の症状について少し語り合った後、男性は不意に、


 「あなたは、映画や小説には興味がありますか?」


 と言ってきた。僕が「いや、それほどは」と答えると、


 「私は、結構詳しいんですよ。時間を潰すことがすっかり得意になってしまってね。」


 とほほ笑んだ後、


 「そろそろ次のプログラムの時間だ。また話しましょう。」


 と言って、食事のトレーを持って、そそくさと席を離れた。


 それからは昼休みにちょくちょくその男性と話をするようになり、そのたびに男性は、映画や小説を勧めてくるようになった。「ショーシャンクの空に」や、「トゥルーマン・ショー」、「シャッター・アイランド」などの映画の他に、村上春樹の「ノルウェイの森」や「IQ84」といった小説を勧められたのだが、それらの作品を鑑賞してみると、確かにどれも面白かった(ちたみに、「トゥルーマン・ショー」と「シャッター・アイランド」については、男性は「自分の病気の症状が強いときに感じていた世界観にそっくりだ」と言っていた)。


 僕がそれらの作品を鑑賞して感想を伝えるたびに、男性は「そうでしょう。よかったでしょう。」と上機嫌になった。そんなことがしばらく続いた後、男性は、「この作品は少し重たいかもしれないが」と前置いて、「プライベート・ライアン」という映画を勧めてきた。そのときも僕はとくに疑問を持たずに、その日のデイケアの帰りに、早速ツタヤでその映画のDVDを借りた。


八、


 デイケアで男性に勧められて見ることになった「プライベート・ライアン」は、第二次世界大戦の時代を描いた戦争映画だった。迫力のある戦闘シーンが描かれ、登場人物がバタバタと死んでいくことに、強いショックを覚えた。


 最後の場面はもちろん感動的ではあったのだが、「もし、この時代に自分が生きていたら」と考えざるを得なかった。戦場に出て、マシンガンの嵐に晒されることは、どのような体験なのだろう?仮に生き延びても、手りゅう弾で手足を吹っ飛ばされたとしたら?また、そういう事態にいつ巻き込まれるかわからないような、先の見えない日々を過ごすことは、どのような気持ちだったのだろう?


 そういうことを考えていくと、もちろん今の時代を生きることにも色々な苦労はあるにせよ、第二次世界大戦の時代を生きることを思えば、そんなことはなんでもないように思えてきた。映画を見終わった後、不思議と全身に活力が漲っていることを感じた。


 僕は男性と次にデイケアで出会ったときに、その感想を、ありのままに伝えた。僕の感想を聞いた男性は、


 「それは変わった感想ですね。いや別に、私としては、あなたに感じて欲しいことがあったからあの映画を勧めたわけではなくてですね。有名な作品だし、絶対に見ても損はない感動的なものだから、勧めただけで。」


 と、目をぱちくりさせながら言った。


 その週の日曜日、母親が部屋に昼食を持ってきたときに、僕は勇気を出して、


 「今日の夕食、久しぶりにお父さんも一緒に食べれないかな?」


 と、部屋の中から声をかけてみた。母親はしばらく何も答えなかったが、間を置いてから、


 「・・いいわよ。」


 とだけ答えた。


 久しぶりの家族での夕食だった。最初の十分くらいは僕たちはお互いに目も合わさずに、無言のまま食事を口に運んだ。僕が味噌汁を飲み干すために視線を上げたときに、不意に父親と目が合った。彼はばつの悪そうな表情になって、すぐに目をそらそうとしたが、僕は思い切って、


 「そろそろ元気になってきたから、次のことを考えようと思ってる。」


 と、会話を切り出した。父親は短く息を吐いて、


 「また予備校に通うのか?」


 と尋ねた。僕は首を振って、


 「いや、自分に合う道をゆっくり探っていこうと思っている。」


 と言った。そして、知能検査を受けた際に主治医に言われたことや、うつ病になったのは、僕の心身が限界を迎えていたからだったことなどを、できるだけ要点だけをかいつまんで話した。父親はブスっとした顔で腕組みをしながら話を聞いていたが、一通り話を聞いてから、


 「つまり、もう医学部受験は諦めるということか?これまでお前にかけてきた教育費は、一体何だったんだ?」


 とため息交じりに答えた。そこまで黙って会話の推移を見守っていた母親も、


 「あなたの言っていることはわかるわ。無理をしすぎていたのね。でも、『もともとの能力がないから諦める』って、そんなの甘えじゃない?」


 と、父親に同調するようなことを言った。


 「やっぱり、この人たちにはわからないか・・・」


 僕はひどく落胆したが、その場では、もう何も言わないことに決めた。その後は再び食卓を沈黙が支配したが、僕の頭の中ではすでに、どうやったら親の元を離れられるかという計算が、働き始めていた。


 あれから二年が経つ。今の僕は一人暮らしをしながら、郊外のコンビニで週五回、9時から17時まで、アルバイトをしている。仕事は耐えられないほどつらいわけではないが、決して楽ではないし、経済的にはかなり苦しい。家賃三万円のボロアパートの住み心地も良いとは言えないし、仕事が終わった後に家でゴキブリやムカデに遭遇すると、「もう嫌だ」と思うこともある。


 だが、今の僕には自分の力で生きているという実感があるし、コンビニの仕事を通じて、少なからず社会に貢献できている自負も持っている。


 あの家族との夕食の一週間後くらいに、僕は働き口やアパートをこっそり見つけ出して、デイケアに行くふりをして面接に向かった。面接先のコンビニの店長は人情味に溢れる気さくな人で、履歴書を見ながら僕の身の上を聞いて、


 「なに、人生やり直せるさ。まだ若いんだから。」


 と言って、その場で採用の旨を告げた。もちろん仕事ができるのか、不安もあったが、八方ふさがりの人生に新しい活路が開けたような気がして、とにかく嬉しかった。


 僕は今でも、父親に、


 「もうバイト先も決まったから、家を出ていきたいと思っている。お父さんも、『来年も泣きついてくるなら、もう俺は知らない。うちから出て行ってもらう』と言っていたよね?もう医者にはなれないから、約束通り、出ていきます。最後のお願いだけど、アパートへの引っ越し代だけ、貸してもらえないかな?」


 と言ったときに、彼が見せた表情が忘れられない。あの、軽蔑と、落胆と、混乱とが混じり合ったような、きょとんとした表情をだ。


 いつまでコンビニの仕事を続けるかは、わからない。また、今の自分を恥じる気持ちがないわけでもない。将来的には、大学に通って福祉や医療系の資格を取ることも考えているが、今の懐事情を鑑みると、それも簡単な話でないことも、わかっている。


 今の精神状態は、うつ病になって追い詰められていたときに比べれば随分マシではあるが、未来への希望など、とても持てない状況であることに違いはない。だが最近は、


 「風雨を凌げる家があり、三食を食べれて、極度のストレスにさらされることもなく生きていけているのだから、これはこれで幸せなのではないか?」


 と思うようにもなってきた。結局、幸福とは他人が決めるものではなく、自分が自然に感じるものなのだと思う。他人の価値観に縛られて心身をすり減らし、不幸のどん底を垣間見た僕からすると、今の状況は、それほど悪くないように思える。


(了)

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