闇の貴公子
部屋の奥の水槽から洩れる明かりが、少し赤味を帯びてきた気がした。
外はもう夕暮れ時なのかも知れなかった。
ウタハは水泡のソファに横になっていた。
もうそろそろ、だれかに自分の声が届いただろうか・・・
目を閉じて、願いを遠くに飛ばす。
――だれか、助けにきて。わたしはここにいる――
念じていると、右手の壁が音もなく開いた。
起き上がってそのほうを見ると、褐色の衣服の衛兵が食べ物を持ってきた。夕食なのだろう。果物と何かの肉らしい塊。飲み水の入った瓶状のもの。衛兵は入口にそれらを置くと、ドアを閉めた・・・かに見えた。が、すぐにまた開いた。
ウタハは一瞬、体をこわばらせた。
ドアが大きく開いて、すっと黒いマントの男が入ってきた。同時に部屋の天井の明かりが消えたと思うと、奇妙な音――ウィーン、ウィーンという異常を知らせるような音が建物全体に鳴り響いた。微妙に空気が揺れている感覚があった。
黒マントと黒いつば広の帽子を被った男は、「こちらへ、早く」
そう言って手をウタハの方へ伸ばした。
「今のうちに逃げるのだ」
ウタハは、覚悟を決めて男の手をとった。
入口を出たところに、先ほどの衛兵が倒れていた。
ウタハは声を上げかけたが、黒マントの男はさっとマントを広げ、彼女を包み込んで走った。辺り一帯に音はまだ鳴り響ている。通路の奥が、押しつぶされて行き止まりになっていた。その手前に奇妙な形、まるでのっぺりした大きな鳥の羽――に似た翼がついた奇妙なものが見えた。
男はウタハをマントで包み込んだまま、片手を上げた。と、竜巻の激しさで空気が動いた。
ウタハは何が起きたのかわからなかった。
気がつくと小さな部屋にいて、男のそばに立っていた。
さっき見た奇妙なものの中らしかった。
男は大きな窓の前にある椅子に座ると、素早くウタハを引き寄せて自分の前に座らせる。
「少し、じっとしていておくれ」
囁いて、窓の前にある明るい細い板を触った。瞬間、がくっと揺れ、また衝撃があった。
その奇妙なもの――乗り物は、勢いよく天井を破り上空に飛び上がっていった。
さらにそれは沼の上に飛び出して、空高く上がり始める。その寸前、沼の水が激しい勢いで大きく渦巻き始めたのが、ちらりと見えた気がした。
*
ウタハは、不思議そうにあたりを見回した。
乗り物から降ろされて案内された部屋は、鏡の沼の王の部屋よりも変わっていた。ウタハにはそう見えた。直径四、五十メートルほどの円形の部屋は、入口とその横の一部の壁を残して、天井からつづく、大きな窓になっていたのだ。窓には透明な壁が入っていた。そこからは、瞬き始めた星が見えた。
窓に沿って奇妙な素材の軟らかなソファ様のものが並び、部屋の真ん中には、馬蹄型のテーブルがあった。そのまわりには丸い椅子がいくつか置いてある。ここも客間なのかもしれない。
黒マントの男は、ウタハを入口の壁のところへ連れてゆき、手をかざして扉を開けると、白いチュニックを渡して、着替えるように言った。
「今着ている衣服は、きみの力を弱めるものだ。着替えたら出ておいで。食事にしよう」
ウタハは、ありがたくその言葉に従った。どうにも気持ち悪い着心地の黄緑色の服は、早く脱いでしまいたかったのだ。
扉の奥は物置なのか、大きな箱がいくつも積んであった。その陰で着替える。チュニックの間には下着が挟んであった。少し恥ずかしかったが、そんなことは言っていられない。着替えが他にないのだから。
黄緑色の衣服を脱ぐと体がすうっと軽くなるのを感じた。
黒マントの男の言ったことは、本当かもしれない。でも彼が何者で、自分をどうしようとしているのかわからず、まだ信用することはできなかった。
白いチュニックは、上質の柔らかな光沢のある布地だった。ウタハには、何の糸からできているのか見当がつかなかったが、ウエストに紐がついていて調節できるのはうれしかった。ウタハの細い体にも合わせられる。
スカート部分を上部に引っ張り上げて、紐でおさえた。それでも裾は足首まであったが、さほどお洒落に興味のないウタハは、それで十分だった。
広間の方へ戻ると、黒マントの男はウタハをちらりと見て、着替えたのを確認すると、テーブルの前に座るよう言った。
テーブルの上には、チーズとハムを挟んだパンとスープ、水の入ったワイングラスが置いてあった。
「きみがどんなものを食べたいのか、私にはわからないのでね、これでよかっただろうか?」
ウタハは、これで十分ですと答えた。
「ありがとうございます。あの、助けてもらった上に、着替えや食事まで・・・あ、あの、チュニックは、今度洗ってお返しします」
男はちょっと笑ったように見えた。
「気にせずともよい。私もきみと話してみたかったのでね。おや、チュニックは少し大きかったようだね。でも嫌でなければ、そのチュニックはもらっておくれ。ああ、そちらの着替えた服は私が処分しておこう」
男はウタハの手から黄緑色の服を取り上げると、手のひらの上で、ぼっと燃やしてしまった。
ウタハは目を丸くして見ていた。こういう魔法を見るのは初めてだったから。
「きみは、光の魔法はできるのに、こういうのを見るのは初めてなのか」
ウタハはうなずく。
「ふむ、やはりまだ、すべての魔力は開花していないようだ」
「あの、あなたは・・・? 鏡沼の王は、自分のことを長き時の谷を渡る者のひとりだと――。あなたは違うの?」
「そんなことを言っていたのか、あれは・・・ふむ・・・まあ少し違うな」
男は顎に指をあて、しばらく考えてからつづける。
「――ならば、私は『有って無い時』の中に生きる者だ。私の名はルシクリオン。きみとは正反対の性質をもつ者だよ、ウタハ」
「知っているんですか?」
彼の話は、ほとんど理解できなかったが、自分の名を言われて驚く。それに鏡沼の王のことも知っているらしい。
「ゾエゲスのことは知っている。ただやつが何をしようとしているのかわからなかった。あんなに沼を広げる意味を調べていたのだよ。一度やつを見つけて追いかけたが、逃げられてしまってね。だが、きみの放った光がすべて教えてくれた。光の伝言を聴いたのだよ。しかし、あれほどの魔力を使えるのに、まだほとんど未開だとは・・・驚くべきことだ」
「ああ、では、光の声を聴いて助けに来てくださったんですね」
ウタハはめったに使わない丁寧な言葉遣いを思い出しながら言った。なぜかこの男にはくだけた言葉で話せない不思議な威圧感があったのだ。
そういえば、アミラが年上の人には、ちゃんと敬語で話しなさいと言ってたっけ。ウタハは思い出した。ウタハはこれまで村で敬語を使って話すことは、ほとんどなかった。村長に会ったときくらいだった。それ以上の高位の者には会ったこともないのだから。
ルシクリオンは、少し考える顔をした。
「きみは、魔法とこの世界のことを、もっと学ぶ必要がありそうだね。まあ、いい。今は食事だ。食べたら村まで送って行こう」
「あの、もうひとつ聞いても?」
男がうなずくのを見てから言った。
「鏡の沼の王のところに、わたし以外に連れてこられた女の子たちがいたのです。彼女たちを助けることはできませんか?」
ウタハにとっては、最上級の丁寧語で話した。
「安心してよい。もう助けられているはずだ。私がきみを助け出したとき、きみの仲間と魔法師たちが鏡の沼を攻撃し始めていたからな。おそらく、あのゾエゲスは逃げただろうが。まあ、きみがいないので、大騒ぎしているかもしれないな。奴に連れ去られたかと」
ルシクリオンは、ふっと笑い、ウタハの隣に腰を下ろすと帽子をとった。
黒い長い髪がふわりと背に流れ落ちた。
彼の周りで、闇の底知れぬ気配が一瞬飛び散って消える。
それまで目深く被っていた帽子がなくなって、整った美しい顔が現れた。本当の歳はわからないが二十歳くらいに見えた。ウタハは、思わず見とれていた。
その様子に気づいたのか、彼は夜空の濃い紺青の瞳で、ウタハのスミレ色の瞳をしばらく見つめ、微笑んだ。
「なんだか、帰したくなくなってきたな」
ウタハがぎょっとした顔をすると、彼は「言ってみただけだ」と薄く笑った。
「きみは自分の価値をわかっていない。だから気をつけるのだ。ゾエゲスのような奴らは、またきみを狙うだろう、己の野心のために。この私でさえ、次に会うときは、どうなるか自信がない」
ウタハが食事を終えると、ルシクリオンは立ち上がった。
ウタハを呼んでマントで覆うと目を閉じるよう言った。
一瞬、空気が渦を巻く衝撃あったが、それがおさまったときには、二人はトイサ村の入口に立っていた。
「さあ、行きなさい」
ウタハが礼をして、顔を上げたときにはもう彼は夜の闇に消えていた。




