1.私、婚約者ではないですが?
ある者はグラスを口に運び、
ある者はパートナーとダンスを踊る。
ある者は子供同士を仲良くさせ、
ある者は仲のいい者と会話を弾ませる。
そんな者たちが集うこの晩餐会で主役である男が、このだだっ広い部屋の中心で高らかに宣言する。
「グラシア公爵家が長男。ラン・フォン・グラシアは、ナル・レ・フォルンとの婚約破棄をここに宣言する!」
その声で、天井にぶら下がっているシャンデリアが揺れる。
グラシア家の長男であるランが口にしたことは、周りにザワつきを起こしていた。
突然の婚約破棄……それは即ち、互いの親同士の許可なく、後戻りのできない宣言である。
「婚約破棄……?」
私は呆れた声で小さく呟く。
ただ、今の私は公爵家よりも下の位、伯爵家の一人娘だ。それも辺境の。
その身分差があるせいだろうか。
周りからはクスクスといった鼻で笑っている音が聞こえてくる。
それに、私は無愛想で表情が何一つ変わらない。
貴族の間では“笑わない操り人形”とまで言われていた。
そんな私を、ラン様は愛せなかったのでしょう。
……別に愛される必要も無いし、愛す理由もないのだけれど。
突然の婚約破棄……これまでグラシア公爵家でお世話になった分、後先のことを考えると可哀想だけれど、この状況はさすがの私でも覆せない。
そのまま一生後悔してもらいましょう。
心まで冷徹無慈悲なナルは、3年間お世話になったグラシア公爵家を捨てるように、この大広間を後にする。
ドアを潜りキィィと完全に閉まる直前、私はその細く赤い目を後ろに向ける。そこに映し出されたのは、私が見たことのない女性とダンスを踊るラン様の姿だった。
「本当に可哀想な人ね」
その声はランに届くことなく、やがて空気へと変わる。
あと1ヶ月経てば、全てはお互いにとって円滑に進んだのに、運のない人。
ただ、今は何も言わなくていい。
「今の私は、辺境伯の一人娘であり、笑わない操り人形、ナル・レ・フォルンなのだから──」
◇◇◇
「ははっ、やっと婚約破棄できたぜ。長年増えていった重荷が一気に無くなったような気分だ」
あんな見た目だけが麗しい女は、俺の好みではない。
それなのに、父さんは3年前に彼女を連れ、あろうことか我がグラシア公爵家の本家に住まわせると言った。
それが気に食わなかった。
あってはならないのだ。ただの辺境伯の娘が、この偉大なる公爵家に住むことなど。
「全く、あの操り人形だってあんな態度をとっていたけど、結局はラン様に惚れていたのでしょうね」
そう悪い笑みを浮かべている彼女は、私が心から愛しているレイスト公爵家の次女であるハル・ラ・レイスト。
彼女は操り人形とは違って、見た目だけではなく、中身まで透き通った水晶のように美しい。
彼女こそ、私の妻に相応しい人間だ。
「これでやっと、ハル嬢と婚約することが出来る」
「まぁ、嬉しいことを言ってくれるのね、ラン様」
これまでは父上に「今すぐに婚約破棄してくれ」と何度も頼み込んだが、全て理由も告げられずに却下されてしまっていた。
だからこそ私は父上のいないこの晩餐会で宣言してやった。お互いの合意なく宣言してしまったから後戻りはできないが……あんな女を捨てただけで、後悔することはないだろう。
この先ずっと──な。
◇◇◇
あの様子、きっとラン様は彼のお父様から何も聞いていなかったのね……いや、それとも私のお父様が口止めをしていたのかしら……?
どちらにせよ、ラン様はきっと私の正体を知らない。
私がこの国、レイフェル王国の隣国であるフォルティア王国の第1王女であるということを。
きっとこれから彼の地位はことごとく落ちていくでしょうね……まぁ、もう私には関係の無い話ですが。
もう哀れんでも仕方がない、それに先に婚約破棄を切り出したのは私ではなく、ラン様からでしたし。
後はこのままフォルティア王国に戻り、お父様に今日のことを伝えなくては。
いや、なんか大事なことを忘れているような……?
「あ、そういえばお父様に5年経つまでは戻って来るなと言われていますし……これからどうしましょう?」
その5年間ずっとグラシア家に滞在する予定でしたので何も他の宛を考えていなかった……私としたことが、この生活を軽視してしまっていたようだ。
どうしましょう……あと2年間も宿泊するための費用は残っていない。
野宿をする訳にも行かないし……。
──ヒヒーン
そんなことを考えていた時、私の右耳に馬の声が聞こえる。
声の聞こえる方向に視線を向けると、そこにはグラシア家に配属している馬車よりも豪華な馬車が、通りの真ん中をゆっくりと進んでいた。
ただ、その馬車は私の目の前でとまる。
馬の様子を見る限り、おそらくこの馬車に乗っている人からの指示だろう。
「一体、私になんの用かしら……?」
怠惰な気持ちを込めた言葉を吐き捨てながら、私はゆっくりと振り返る。
その時、馬車の中から顔を出す1人の男が居た。
見たことがある……あれは確か、公爵家の中でも最大の権力を持つセントリア公爵家の長男、カイル・セントリアだったかしら?
セントリア公爵家は外交的ではなく、滅多に公の場には出てこない。外出する時は必ず馬車を使い周りに自身の姿を見せないよう立ち回る。
そんなセントリア公爵家の中でも、1番人に関心を持たないのがカイル・セントリアだ。
「そんな人が、私に何か用があって……?
……いや、私とは限らないものね」
そう勝手に自己完結したナルは、再び通りを歩き始める。ただ、そんなナルを呼び止める1つの声があった。それは……
「少し待ってくれ、ナル嬢」
グラシア家にいた頃はラン様のお父様以外からは使われることのなかった敬称を使ってくれた、カイル・セントリアだった──
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