048 反転
超克スキル『位相反転』。概念や事象の特性を反転させるスキル。それを持つ者は――魔王デイブレイクのみ。
まるで夢の中の虚ろ、微睡みに揺蕩う感覚だった。頭上も足元も、前後左右も、無限に思えるように視界に広がるパステル調の雲の景色。
メルヘンチックな雰囲気で、ここにいたら神経質になっていた心も和んでくる。
ハルは立ちすくんでいた。理解が出来ない。理解が追いついていない。
自分の額に生えてきた漆黒の双角。唐突にフラッシュバックしてきた、身に覚えの無い記憶。そして無意識のままに呟いたかと思えば、このような訳の分からない場所に居た。
「固有領域、かな……」
今まで戦っていた夜の空間のように、ここもある種外界と隔絶された限定的な空間なんだろう。と、自身を納得させた。
ハルの目線の先にいるのは、座り込んでいるミッドナイト。変わらず出血は続いていて、何処かぐったりとしている様子である。
ハルは歩み始めた。何もない透明な地面を、一歩ずつ丁寧に。
「魔王、ミッドナイト。いや――」
その名を呼ぶと、ミッドナイトは顔を上げた。真っ直ぐハルを見つめる眼差し。殺意は含まれていなかった。
ハルは一度言葉を切ると、黙って数歩、ミッドナイトに近づいていく。
「――クロエ・リーズヴェイル」
ミッドナイトは目を見開いた。胸の辺りを強く握りしめ、鋭い視線をハルに向ける。彼女はその反応を見て、やっぱりと確信を持った。決定的な感触で、自分の仮説がより真実へと近づいていく感覚を覚える。
「なんで、それを……」
「まずは、治療しなくちゃね」
ミッドナイト――否、クロエのすぐ前へと近づいたハル。しゃがみ込んで両手をかざす。仄かに温かみのある光がクロエを包んで、傷口の出血が途端に止まる。瞬く間に傷口が塞がって、怪我は全て完治した。
「クロエ、なんで君が魔王になったのか、なんで君という存在が二ヶ所で同時に存在するのか、僕には全くわかんない。でも、ある程度は理解してたつもりだったんだけどね」
言い聞かせるように、優しくそう話すハル。
「何故、君がこっちの方のクロエに執着してたのか。クロエが逃げ出したのも、恐らく君が同一人物であるからだよね。聖騎士や剣聖がクロエの事を魔王と呼ぶのも、クロエの二つ名に『夜』が入ってるのも」
わかっていながらその結論に辿り着かなかったのは、『同一人物が同時に存在するわけがない』という考えが根幹にあるからだ。
「コルヌとリゼは旧友って言ってたね。だったら彼女たちも――」
「そう、魔王」
やっぱり。ハルは確信した。
「私を殺そうとしたのも、全部全部、未来を変えるため」
それを聞いて、ハルの頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。未来を変えるため、とは言ったが果たしてどう変えるつもりなのだろうか。そして何故、変えたいのだろうか。
疑問を呟こうと思ったその時、クロエは全て話し始める。
「私は別世界――所謂パラレルワールドのクロエ。向こうでハルが死ぬ間際、『位相反転』でこっちに飛ばされてきたの。だから、私はこっちで未来を変える。魔王になって、いつか勇者としてハルを待ち構えて。……でも、こっちの私が余計なことをした」
曰く。こちら側のクロエがハルと絡んでいると、ハルは死んでしまう。だから、クロエを密かに抹殺しようとしていたのだとか。だがそれに気づいたクロエが脱走したことで、このような事態になった。
元より幹部の有無は関係なかった。とにかく、こちらのクロエの存在が厄介だったのだ。
「……ハル、迷惑かけてごめん」
涙を流すクロエ。ハルはクロエに抱き着いて、背中を優しくさすった。
「大丈夫。大丈夫だから」
「うぅっ……。うあああああああん……!」
声の限り、ハルの胸に全てを預けて泣いた。世界線を跨ぐ苦痛はどれほどだったのか、ハルにはそれを量る事は出来ない。出来ないからこそ、寄り添うことしか出来ない。彼女が満足するまで、ずっと抱き締めていようと。
「ごめん、ごめんなさい……。救ってあげられない……」
「大丈夫。大丈夫。クロエのお陰で、僕は充分救われてるよ」
もとはあって無かったような命。それに生きる意味をくれたのは、クロエだと。
そして、生きる手段をくれたのは――魔王デイブレイクのお陰だと。
『無限再生』じゃない。『位相反転』で、傷を負った状態を負わなかった状態に改竄する。それが、今までハルがしてきた事だと。やっと、理解した。理解していた。
本名も顔も知らない魔王。その存在のお陰で、今の自分がある。守ってくれたクロエのお陰で、今の平和な生活がある。
「……帰ろう。みんな待ってる。きっと、赦してくれるから」
そう簡単に赦されることではない。それは分かっている。だが、ハルは一縷の希望を願った。彼女を赦すという選択を取ったのだ。
「……うん」
ハルはクロエの手を取り、立ち上がった。外の世界で皆と合流すること。この先どうなるかは分からないけれど、そんな目標を胸に歩き出した。




