019 心境
私は幸せだった。
ハルという主人を得て、お腹いっぱいご飯食べさせてくれて、時々ブラッシングもしてくれるし、めいっぱい撫でてくれるし。
そんな彼女が、私は好き。
でも、なんか恥ずかしい。
ハルの笑顔が、声が、仕草が、顔立ちが、髪色が、匂いが、好きになってしまった。
明るくて無邪気で、時々怒ってくるけど優しい。
そんなハルを私は守りたい。ずっとそばにいたい。そんなことを、いつしか考えるようになった。
「クロエ、どうしたの? 今日はまた一層甘えん坊だね」
「撫でて」
「フフッ。わかったよ」
読書をしているときでも、膝の上に飛び乗れば撫でてくれる。寝ているときでも、腕の中に割り込めば抱き締めてくれる。
人型のときは、隣に座れば黙って撫でてくれる。後ろから抱きつけば、優しく手を握ってくれる。正面から抱きついたら、思いっきり抱き返してくれる。
そんなハルの優しさが、暖かさが、大好きだった。猫としても、人としても。
「ハル」
「うん? どうしたの?」
「これからもずっと、ずっと、私を撫でてくれる?」
「……? うん、撫でてあげるよ。クロエが満足するまでね」
心の内の感情をどうにか絞り出しても、ハルには伝わらない。伝わらないでいいの。だって、一方通行でも構わないから。
細くて繊細な指。滑らかな手のひら。私の毛を、優しく手ぐしで解かしてくれる。柔らかな手つきで、何回も何回も撫でてくれる。時々、私の痒いところや気持ちいいところを理解しているのか、指の腹でそこを掻いたり揉んだりしてくる。それがまた、たまらない。
撫で撫でだけじゃない。ハルの良いところはたくさんある。
――だから、彼女を失いたくない。
思い出した。あの日、何が起こったか。
私が何故、逃げたのか。単に嫌気が差したからじゃなかった。怖かったからだ。
でもそのせいで、悲劇が起こった。
いつから私は変わってしまったのだろう。ボロボロの状態でハルに出会うまでに、起こった惨劇。その被害は計り知れない。
あの男がハルに喧嘩腰だったのも理解できる。全部私が悪いんだから。
被害を被ったのは自分だけじゃなかった。傷跡として残り続ける、ただの自己満だった。
彼女が血を流す様子を、誰かのために頑張る様子を、私は目の当たりにした。歯を食いしばって、死ぬかもしれないのに自分のことはお構い無し。明らかに自分よりも強い人にも立ち向かって、人を助けるためなら何だってする。
歯が欠ける音がする程に、痛かったんだろう。普段の穏やかな雰囲気が消え去るほどに、許せなかったんだろう。
――ハルは私のために動いてくれた。だから、私はハルのために動く。
《そんなことは許さない》
……恐怖が身体を支配する。鼓動がはっきりと聞こえる。まるで背中に氷を押し付けられたような冷たさ。
《許されない。お前は根本的に何も変わっていない》
……そんなことはない。私はハルと出会って、変わった。変わることが出来た。自分のために、こんな私のために身を挺してくれた人を、見限ることなんて出来ない。
それに、ハルは私の最愛の人。何をしてでも、守りきってみせる。
《詭弁をあたかも正義のように語るな。お前は逃れられない。この運命から、この枷からは、決して逃れることは出来ない》
それは違う。運命があったからこそ。私が『逃げる』という判断をしたからこそ、私はハルと出会うことが出来た。
だから私は逃げない。もうこれ以上、目を背けない。自分が犯した最大の罪を贖うために、ハルは巻き込みたくない。
《お前は救えなかった。お前がいたせいで、何人が不幸になった?》
私は救えなかった。この手から溢れた生命も、この手で潰した生命も、たくさんある。そのせいで大勢から恨まれてる。
でも、それでいい。私が全て背負うから。もう誰にも背負わせない。私は、咎を受けるつもりでいる。覚悟はもうできてる。
《許さない。私はお前を許さない》
私も許さない。許されるはずがない。だから、私も責め続ける。責めを受け、責め続け、たとえこの大罪が赦されなくとも。私はあなたを責め続ける。
「クロエ、今日のご飯は鯖にしようか。クロエの大好きな鯖の塩焼き。クロエを撫でてたら、なんか食べたくなってきちゃった」
「鯖、食べる」
「確かジャスさんが、王都に美味しい食堂があるって教えてくれてたっけ。今日の夜ご飯、そこで食べようか」
「行こ」
何も知らないハルは、私の背中を撫でてくれる。毛並みを整えるように、毛の流れに逆らわないように、一定の方向、強さ、速さで。
「く、クロエ? そんなに強張って、大丈夫?」
「……ん。大丈夫」
「もっと撫でる?」
「撫でて」
「フフッ。今日はよく撫でさせてくれるなぁ。もふもふ」
この笑顔を守りたい。
きっと出来る。きっと、やり遂げられる。罪を背負っても、罰を受けても、私の過去は変わらない。だから、私は今から未来を変える。
私ならきっと出来る。
私は《夜は黒き始期の幻影》。闇夜、深き黒の深夜を司る魔物なのだから。




