001 鼓動
無機質な白亜の天井。格子状に広がる黒い模様。それだけが、彼の視界に映っていた。もう何時間も、何日も、何ヶ月も。
早く死にたい。彼はそう思っていた。だが、死ねなかった。人間のエゴと現代の力が、彼がこの世を離れることを許してくれない。
ただ淡々と、等間隔に響く電子音。最早それも耳には届かず、無音の中で彼は生きていた。
手足の感覚はない。神経はもともと繋がっていなかったかのように、手足の動作は意識の管理下に無かった。
「シュー……コー……」
機械を通したかのような呼吸音が、電子音と共に鳴る。
痩せた腕から、ゴム製のチューブが伸びる。その先には、コポコポと泡を発する透明な液体が入ったビニール袋。
ここは、日本某所に存在する病院の一室。ベッドに横たわるのは、痩せ衰えた黒髪の少年。若草色の入院着に、人工呼吸器が口に接続されている。
機械に繋がれて、意識も絶え絶えの中それでも尚生にしがみつき、足掻き続ける。それが耐え難い苦痛であり屈辱であることは、彼が一番痛感していた。
もう何ヶ月も、この病に蝕まれている。数ヶ月前までは何とか身体を動かせていたが、今となっては意識があるだけで、指先一ミリさえも動かせない。
「先生、本当に何とか出来ないんですか?」
「現代医療ではここまでが限界、完治は不可能だ。万一回復しても、彼には一生機械と薬に頼った生活を強いることになる」
女性と男性の話し声が聞こえてくる。女性は嗚咽の混じった、悲壮感の漂う声色。先生と呼ばれた男性は、遺憾でも残っているかのように低い声。
彼にはそれが聞こえなかった。だが、何となく気配を察し、二人がこの病室へと入ってくるのを感じ取った。
「医療に従事する者として、勿論目の前の命は救わなければならない。だが、君は機械と薬が無いと生きていけられなくても、それでも生きたいと思うか?」
「……思いません」
「そういうことだ。俺は機械人間にまでなって生きることが、彼にとって正しい選択肢だとは思えない。今もこうして、延命措置を施し続けていることもな」
「で、でも、彼はまだ十五歳ですよ。青春真っ盛りの、まだまだ未来も希望もある、中学生ですよ……? まさか、見捨てろって言うんですか……?」
「……残念だ」
部屋に入って来たのは、看護師と白衣を着た医者。先ほどから口論にも似た話を続け、遂には看護師は泣き崩れる。
彼は、その看護師のことを知っていた。――否、とても仲が良かった。
小さな頃から病弱で、ろくに友達もできず、共働きの両親とはいつも会えず、ずっと独りぼっち。そんな時に――数年前に、この看護師に出会った。彼女は彼に優しく接し、時折話も聞いてくれた。動けなくなってからも精力的に看病に努め、今や見舞いにすら来ない親よりも彼のことを知っている、唯一の友達だった。
「春くん。聞こえるかい」
彼――春の視界に、医者の顔が映り込む。覗き込むようにして、その医者は音も聞こえなくなった春に語り始めた。
「君の余命は、もう残り少ない。あと一ヶ月――いや、一週間持つか怪しいところだ。君にはやりたいことが沢山あるだろう。食べたいもの、見たい景色、行ってみたい場所。それら全てを叶えてやれないが、せめて、最期の願いを考えていてくれ」
春は、僅かに微笑んだ。医者の口の動き方を読み取り、何を言っているのか分かるようになっていた。
医者はその虚無な反応を見て、頷く。ベッド横にある心電図に視線を移し、何やら手元のバインダーに挟まれた紙にサラサラと書き込んで、後を看護師に託し病室を出ていった。
「春くん、君との別れは寂しいな。私が初めて担当した患者が、君だったんだから。きっと、君の最期まで一緒にいるよ」
でもその声は、春には届かない。
春にとって死の宣告とは、この苦しみから解放されることを意味する。それは希望であり、楽しみでもあった。
でも、未練が無いわけではない。子供の頃からできなかった、サッカーや野球をやってみたい。噂でしか聞くことのなかった、こってりとした二郎系ラーメンを食べてみたい。カレンダーやネットでしか見られなかった絶景を、この目で見てみたい。
――病室の外の、広い世界を見てみたい。
彼の疲弊した心の奥底には、そんな願いがあった。
だがそれも叶わぬ未来。機械に繋がれ、自由を縛られ、叶うとは思えない。諦めの境地に達し、今更願いを言おうとそれが叶わないと知っている。だから、彼は何も言わない。
「可哀想……」
喉の奥から絞り出したような声で、ポツリと呟く看護師。
「ゆっくりお休み。せめて、最期まで楽でいられるように」
そんな声が聞こえたのか定かではないが、導かれるように、吸い込まれるように、彼の意識は深い微睡みの中へと沈んでいった。
――強いて願うならば……来世は、健康で元気な生活がしたい。
それが、僕の最期の願い。きっと、叶うと良いな。
そしてその夜――心電図の緑の線は一直線になり、無機質な電子音が鳴り続けた。