西大台
大台ヶ原の登山口にある駐車場に帰ってきた。シオカラ谷からこの駐車場まで高低差が200mもある。石で出来た階段が整備されていたので、歩くことに不自由はしなかったが、延々と登り続けるのはかなり辛かった。途中、足を止めて何度も肩で息をしてしまう。東大台のクライマックスとしては、なかなかの階段だった。
ところで、自宅に帰ってから知ったことだが、シオカラ谷で吊り橋を渡らずに渓流を下っていくルートがあるそうだ。足場が悪く藪をかき分けて進まなければならないうえに、傾斜がきついので転落の恐れもある。推奨されるルートではないのだが、その先に、東ノ滝、中ノ滝、西ノ滝を見上げることが出来るそうだ。瀑布の音が遠く離れた大蛇嵓まで聞こえてきたので、その威容はさぞかし素晴らしいものだろう。いつかは見てみたいと思う。でも、上級者の登山家にとっては、そうした滝よりも千石嵓の方が有名だそうだ。ここでロッククライミングが出来るらしい。ヘルメットを被り、安全のためにロープやカラビナなどの確保用具を使用しながら岩を掴んで登る、アレ。
そういえば、大蛇嵓の北側にも蒸篭嵓の岸壁が見えたのだが、小山の話によればその岸壁でロッククライミングを楽しんでいる人を見たことがあると言っていた。僕の頭の中で、好奇心アラームが鳴り響く。かなり関心がある……。でも、深追いはきっと沼に違いない。時間もお金も必要だろう。第一、年齢を考えてみろ。冷静な僕が、ウキウキしている僕に対して「抑えろ、抑えろ」と言っている。僕の頭の中は、そんなせめぎ合いでグッチャグチャ。一旦は冷静になろう。
五十代になってからの僕は、若い頃よりも気持ちが若い。このように文章を書き続けていることもそうだが、知りたいことや体験したいことがいっぱいある。若い頃は、気持ちはあっても行動が中途半端だった。僕を取り巻く環境を言い訳にしてやり切ることをしなかった。そんな若い頃に比べると、オッサンになった今のほうがはるかに自由だったりする。出来ない言い訳を並べるよりも、やってみようと思えるからだ。それでも、あまりにも守備範囲を広げすぎたら、結局のところ全てが中途半端になってしまう。取捨選択は必要だ。
東大台を歩き切った僕は、駐車場にあるトイレで用を足した。入り口の横に貼り付けられている看板を読む。「キャンプ・自炊 禁止」と書いてあった。現在の時刻は、朝の9時。3時に目を覚まして出発してから現在まで、お茶を飲んだだけで何も食べていない。腹が減っていた。スーパーカブのサイドバックにはインスタントラーメンがあるのだが、ここでは調理できない。トイレから駐車場を挟んだ100mほど先に山小屋風の可愛らしい建物がある。上北山村物産店だ。営業は9時からなので、もう買いものができるはず。腹ごしらえをすることにした。
僕が最初の客かと思っていたが、一組のカップルが店内にいた。歳の頃は僕と同世代くらい。お洒落な登山服に身を包んでいる。たぶん夫婦だろう。椅子に座り書類にサインをしている。ネットで調べた情報の通りだ。大台ヶ原には、東大台と西大台の二つのコースがあるのだが、西大台に向かう場合は自然公園法に基づく入山申請の手続きを済ませなければならない。その手続きを行っているのだろう。
西大台はブナの大原生林が広がっており、その自然を守るために一日の入山者数を制限していた。利用者は、事前にネットか電話で予約をする必要があり、利用料として千円を支払う。定員に達した場合は入山が出来ないのだが、余裕があれば当日申請が可能だ。今回は平日だったので予約が少ない。申請すれば入山は可能になる。
受付を横目で見ながら、先ずは腹ごしらえをすることにした。入って右側は食堂になっている。温かい軽食を食べることが出来るようだ。左側は土産物屋になっていて、大台ヶ原グッズが販売されている。そうした土産ものと一緒にパンやアイスクリームまで販売していた。何を食べるか考える。このまま帰るのなら、温かい丼でも食べようか……。時刻は、まだ朝の九時。西大台の登山を終えてきたところで身体は疲れている。最後の登りの階段のダメージで足はガクガクだ。でも、帰るには早すぎるような気がする。また受付を横目で見た。先ほどのカップルが、受付を済ませて店を出ていく。
――やっぱり、僕も行きたい。
土産物屋で、クリームパンとアイス最中を購入する。いま必要なのは糖分だ。手っ取り早くエネルギーが欲しい。疲れた身体にクリームパンはご馳走だった。それ以上に5年ぶりくらいに食べたアイス最中は甘露の味だった。実に美味い。
食事を終えた僕は、入山申請の手続きを済ませる。千円を支払った。でも、これだけでは入山が出来ない。ビジターセンターにおいて、西大台の利用に関するレクチャーを受ける必要があった。西大台の利用調整区域は、天候が急変することがあるので、雨具や防寒具、登山靴のほか、非常食、応急処置のための医療品を準備するようにとある。
――ん?
どれも持っていない。登山初心者の僕は、あまりにも山を舐めていた。でも、このまま帰るわけにはいかない。レクチャーでは、西大台の自然環境の紹介とそうした自然を守るためのマナーについて解説された。
①立入認定書を身に着けること。
②トイレは事前にすませること。
③マットで靴底の泥を落として、外来種の種子を持ち込まないこと。
④歩道の踏み外しに注意。苔が傷む。
⑤休憩・お弁当の時も自然を大切に。ゴミは持ち帰る。
⑥野生動物はそっと見守ろう。エサはやらない。
どれも当たり前のマナーだが、守らない人は多い。美しい山の中に、空き缶やおにぎりのフィルムが落ちていることはままあった。見るたびにゲンナリする。西大台の自然を守ることを心に誓った。レクチャーを受けた僕はビジターセンターを後にする。さあ、いよいよ出発だ。西大台のコースは、道のりが9kmほどある。時間にして5時間ほどかかるそうだ。現在の時刻は、9時45分。僕は歩くのが早いので15時までには帰ってこれるだろう。西大台の登山口に向かった