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大蛇嵓

 大台ヶ原での登山は、東大台と西大台に分かれている。観光地として整備されているのは東大台で、見どころが多く人気のコースだ。日出ヶ岳では天気が良ければ伊勢湾を見下ろすことが出来るし、正木ヶ原はまさに天空の草原。尾鷲辻から駐車場があるビジターセンターに戻れば、距離にして5kmほどしかない。道が整備されているうえに起伏も比較的緩やかなので、子供を連れた若い家族でも安心して楽しむことが出来る。ただ、大台ヶ原に来たのならこの尾鷲辻を右に曲がらずに真っすぐに進んでほしい。大蛇嵓だいじゃぐらがあるからだ。


 尾鷲辻を通り過ぎると牛石ヶ原に至る。正木ヶ原に比べると木が林立しているが森というほどではない。大台ヶ原にしては珍しく、この日は天気が良かった。眼下に雲海はあっても、見上げる大空は雲一つない。林の中が光で満ちていた。ミヤコザサの朝露がキラキラと輝いている。相変わらず、膝から下はずぶ濡れだったけど……。しばらく歩くと、大きな銅像に出くわした。台座を合わせると3mはありそうだ。大きな弓を地面に立てながら、右手を翳して遠方を眺めている。神武天皇の銅像だった。


 ――なぜ、ここに?


 古事記や日本書紀では、神武東征の活躍が有名だ。難波から大和に入ろうとした磐余彦尊いわれびこのみこと長髄彦ながすねひこの抵抗にあい、兄の彦五瀬命ひこいつせのみことが戦死してしまう。撤退した磐余彦尊の軍は海路を使って南に進み、紀伊半島をぐるりと回った。熊野に差し掛かった時に、嵐に巻き込まれてしまい上陸することになる。この熊野から山を越えて大和に至り、宿敵であった長髄彦を撃退し、磐余彦尊は神武天皇を名乗り初代天皇に即位するのだった。


 そういえば、今年の正月に紀伊半島を一周した時に、那智勝浦町で那智の滝を見てきた。この那智に神武天皇が訪れたという伝承が現地に残されていたことに驚いた覚えがある。


 ――嘘だろう~。


 と、口には出さないものの叫んでしまった。この大台ヶ原にある神武天皇の銅像に対しても同じように感じてしまう。そんな銅像を見上げながら、小山が呟いた。


「ヘリコプターで運んだんかな?」


 小山の疑問はもっともだ。これだけ大きな銅像をこんな山奥に運ぶのは難しかったはず。少し調べてみた。銅像が建立されたのは昭和3年のことで、発起人は大台ヶ原のビジターセンター近くにある神道系の福寿大台教会を設立した古川嵩になる。本体重量は45トン。6分割された銅像を、三重県の尾鷲から人力で運び上げたそうだ。運搬の作業だけで80日を要し、当時の道路事情を鑑みると困難を極めただろうことが容易に想像できる。ただ、ここ大台ヶ原に神武天皇はやってこなかっただろう……と思ってしまうのだが。


 銅像を後にした僕たちは道なりに歩みを進めた。この先に、東大台のクライマックスである大蛇嵓がある。整備された道から、岩場に変わった。場所によっては手で岩を掴みながら歩かないと危ない。目の前に立ち塞がる大きな岩を迂回すると視界が開けた。思わず足を止めてしまう。


「おー!」


 感嘆の声しか出なかった。ぐらは辞書によると、①山稜の下にある岩、岩壁、②神様がお座りになる台座、という意味になる。これまで山の背を歩いてきたわけだが、大蛇嵓はその終点だった。山の岸壁から大きな岩が飛び出している。蛇のように丸い頭をしているところから大蛇嵓と呼ばれるようになったそうだ。先端は人が落ちないようにチェーンが張られているが、かなり簡素な造り。凭れるときっと折れてしまう。それでも、先まで行ってみたい。


「気をつけろよ!」


 後ろから、小山が僕に注意した。


「ああ、大丈夫。無理はせん」


「前来たときは、風が強かったから先には行けんかったんや」


「たしかに、これで風が吹いたら怖すぎる……」


 腰を屈めながら、ゆっくりと進んだ。チェーンが張られている手前で腰を下ろす。これ以上はもう進めない。眼下には深い谷がある。深さは800mほどあるそうだ。ここ日本において、800mの落差はなかなか拝めるものではない。谷の底に東ノ川が流れているはずなのに、木に覆いつくされていて見えない。目眩がするような高さだった。下半身の膀胱がキューッと締め付けられる。小山もゆっくりと降りてきて、僕の隣に座った。僕に語り掛ける。


「凄い景色やろ」


 小山が自慢げに呟いた。僕は素直に頷く。


「たしかに、凄すぎるわ。こっちは雲海がないんやな。カラッと晴れていて空気がきれいや」


「前はもっとガスが立ち込めていて見えんかった。こんなん俺も初めてや」


「奥の方に見える山脈、めちゃ高そうやな」


「ああ、あれは八経ヶ岳ちゃうかな。2000mを切ったくらいの高さやったと思う」


「2000か……日出ヶ岳が1700を切ったくらいやから更に300mも高いんや」


「そうやな。奈良の山は案外と高いんやで」


「そうなんや……」


 大蛇嵓に座りながら、奈良の山々を眺めた。深い谷を挟んで、人間の侵入を許さない険しい急斜面が見える。まるで屏風。1,300mもの高さの緑の屏風。壮大な景観に心を奪われた。目を凝らすと、右手奥に滝が見える。結構な落差の滝だ。あまりにも遠すぎるので白い糸のようにみえるが、瀑布の音がここまで聞こえてくる。静謐な景観でありながら、躍動する大自然の営みを感じた。


 どれくらい座っていただろう。一時間近く座っていたと思う。その間、小山と取り留めのない話で盛り上がった。普段はそれほど話をする間柄ではない。小山は喋り出すと止まらないから、それが嫌で僕が避けていた。でも、こんな特別な場所だと関係が変わってくる。同じものに感動して気持ちを共有し合えることが、とても心地よかった。お互いに沈黙が訪れたタイミングで、時間を確認する。朝の8時だった。僕は腰を上げる。


「もうそろそろ行くわ」


 小山も立ち上がる。


「この後、どうするんや?」


「谷に降りていく」


「シオカラ谷か」


「そうやな。せっかく来たから。大台ヶ原を全部満喫するつもりや」


「俺は、このまま帰るわ」


「じゃ、お別れやな」


「シオカラは道が悪い。ゴロタの道やし、段差もひどい。足場に気をつけろよ」


「分かった。ありがとう」


 小山のアドバイスに頭を下げる。大蛇嵓はとても良かった。今度、息子と一緒に来てみたい……そう思った。でも、小学生の頃ならいざ知らず、ちょっと難しいかもしれない。大学生の長男は父親である僕を避けているし、中学生になる末っ子も僕と遊ぶよりは友達を選ぶだろう。家族の関係性は時間と共に変化する。子供たちが、親の元からはなれていくのは自然なことだ。自然ではあるけれど、やはり寂しい。じゃ、嫁さんを連れて行くか……これまた難しい。飲みに行くのなら喜ぶけれど、山登りって言ったら、きっと嫌がるに違いない。大台ヶ原の大自然を見たら、きっと驚くと思うんだけどな~。


挿絵(By みてみん)

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