正木ヶ原
今回の旅で一番の目的は、大台ヶ原で日の出を見ることだった。目的が達成できたうえに、幸運にも雲海まで見下ろすことが出来た。そうした大自然の威容に対峙した時、人はどうして首を垂れたくなるのだろう。古代の日本では、原始宗教の始まりに山岳信仰や巨木を神木として祀る風習があった。しかし、現代社会においては、科学によってそうした神秘性が次々と剝がされていってしまう。目に見えないものに対して、また数値化できないものに対して、現代社会はとても不寛容だと思う。太陽を神と崇める信仰は、物理学からするとナンセンスなのかもしれない。しかし、日の出を目にした僕は、言い知れない感動に震えた。そうした畏敬の念は、人間が根源的に秘めている心の作用なのではないだろうか。僕は人格神を信じていないが、「神」を感じた古代の人々の生き方には関心がある。ハラリは「サピエンス全史」において、それを「認知革命」と表現した。ここでは詳細を語らないが、僕にとって認知革命は今後も考えていきたいテーマである。
日の出を堪能した僕と小山は、日出ヶ岳を後にした。尾根に沿って南下していく道の先には正木峠が見える。木の階段を下りていると、前方から登山客が登ってきた。階段の途中で立ち止まり、肩で息をしている。僕はその人に笑顔で語りかけた。
「おはようございます」
お洒落な登山服に身を包んだその男性が、顔を上げる。
「ええ、おはようございます」
僕はその人にガッツポーズを見せた。
「あと、もう少しですよ。頑張ってください」
「そうですね。ありがとうございます」
清々しい朝に、こうして挨拶を交わせるのは気持ちが良い。ここ大台ヶ原は、秘境でありながらドライブウェイが整備されているので平日でも登山客が絶えないようだ。そう言えば、ビジターセンターにある駐車場はかなり広かった。休日になればもっと多くの登山客で賑わうのだろう。
下っていた道が、今度は上り坂に転じる。正木峠を越える道のりは、幅の広い階段が整備されていた。階段の両横から丈の低い木が覆いかぶさっているので、まるでトンネルのようになっている。階段は木で出来ており、端っこの人が歩かない部分は緑色の苔の様なものが張り付いていた。木の根元には相変わらずミヤコザサが繁茂しており、地表は見えない。傾斜はゆるく、とても登りやすかった。
正木峠を登りきると、今度は一気に視界が広がった。正木ヶ原だ。山の南側一面がミヤコザサで覆われている。そのミヤコザサをかき分けるようにして木の階段が整備されていた。ミヤコザサの強い繁殖力を感じる。木の階段ではなくただの山道であれば、きっとミヤコザサに侵食されて山道そのものが無くなっていただろう。そうしたミヤコザサの草原に、立ち枯れた木が何本も立っていた。まるで白い骨が大地に突き刺さっているような光景だ。伊勢湾台風によって木々がなぎ倒されてしまった成れの果てなのだろう。大台ヶ原を象徴する景色だった。ミヤコザサの旺盛な緑色と、立ち枯れた木々の白色とのコントラストから、生と死を感じた。そんな草原が見渡す限り大パノラマとなって広がっている。見惚れてしまった。
足元を見ると、木の階段の隙間から小さな葉っぱが顔をのぞかせている。カエデだ。ミヤコザサの侵食に抵抗するかのようにひっそりと伸びていた。伊勢湾台風から65年も経過している。ミヤコザサの一大勢力になってしまったこの地域で、このカエデが育っていけるのか分からない。でも、そんなカエデから逞しさを感じた。スマホを取り出し、写真を撮る。
「何してるん?」
小山が不思議そうに問いかけてきた。
「ああ、この葉っぱ、可愛いやろう」
「ふ~ん」
小山もスマホを取り出した。正木ヶ原に点在している立ち枯れた木々に向けてシャッターを切る。この辺りは、写真に収めたくなるような景色で満ちていた。二人して、写真を撮りながら歩いていく。正木ヶ原を抜けて、林の中に入った。カエデや松の仲間であるトウヒが林立している。足場は踏み固められた山道に変わっていた。その山道を侵食するかの如くミヤコザサが覆いかぶさっている。そのミヤコザサを押し分けて歩かなければ前に進めない。足を止めた。
「どうしたんや?」
僕は振り返り、ズボンをたくしあげた。
「……びしょ濡れや」
小山も自分の足元を見る。
「ほんまや。朝露やな」
ミヤコザサが朝露で濡れている。一本や二本なら大したことなくても、尋常じゃないくらいの大量のミヤコザサだ。押し分けて歩いていると、どうしてもびしょ濡れになってしまう。眉間に皺を寄せつつ呟いてしまった。
「かなんな~。これ、どうしても濡れてしまうで」
小山が僕に問いかける。
「雨具はないんか?」
「いや、持ってない」
「登山に雨対策は必要やで。ほら、俺は登山靴も履いている」
準備の良い奴だった。僕と違って朝露の影響をあまり受けていない。
「流石やな」
僕の言葉に、小山が気を良くした。そんな小山が僕の靴に視線を送る。
「山登りに、スニーカーで来たんか?」
「ああ、……なんで?」
「靴底が柔らかいと、歩き難いやろう?」
変なことを言うやつだと思った。こんなにも歩きやすいのに、登山靴はいらんやろう。
「これ、ランニングシューズやねん。普段からこれで走っているから、俺は十分やけど」
「ふ~ん。登山靴はええで。靴底が柔らかいと足場が悪い道は歩き難いねん。それにハイカットは足首を守ってくれるし……俺もな、もう少しええ登山靴が欲しいねんけどな」
小山の持ち物は、どれも質が高い。HONDA愛が強いので、車やバイクはHONDAオンリー。ライダースーツやブーツは安物は買わない。今日の服装も登山ルック。様になっている。そんな小山とは対照的に、僕はいつものポロシャツ姿。登山だからといって、特に意識はしていなかった。何となく、準備の良い小山に対して対抗心を燃やしてしまう。
「俺はランニングシューズでええねん。この靴が走りやすいんや」
「ふ~ん」
小山の反応が薄い。そんな小山に更に畳みかける。
「俺、ずっとマラソンで走ってきたんや」
「マラソンって、フルマラソンか?」
「そうや。40代の頃は、毎年、フルマラソンに参加していたから、ランニングシューズが好きやねん」
「そうなんや」
「100kmマラソンも完走したんやで」
「それは凄いな」
わざわざ話さなくてもいいのに、小山に対する対抗心から、マラソンに挑戦していたころの話を小山に語って聞かせた。今から振り返ると、そうした子供じみた行為を恥ずかしく思う。ミヤコザサとの格闘は完敗だった。膝から下は、水に浸かったように濡れてしまう。朝露の脅威なんて、考えてみもなかった。