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日の出

 大台ヶ原の登山口にあるビジターセンターに到着した。登山口に一番近い駐車場にスーパーカブを停める。太陽はまだ登っていないが、夜の帳は上がってしまった。早朝の柔らかい光が辺りに満ちている。見回すと大きな駐車場に数台の車が駐車されていた。今すぐにでも登山口から登り始めたかったが、ひとまずは目の前に建つビジターセンターに向かうことにする。山登りのルールを知らない僕は、小山から登山届を提出するようにとアドバイスされていたからだ。ビジターセンターは早朝ということもあり誰も居ない。しかし、入り口には登山届の用紙とポストが設置されていた。名前と住所それに登山の予定を記入して、ポストに投函する。


 登山口から目的地の日出ヶ岳までは、ネットの情報によると徒歩で40分もかかるそうだ。今からでは、山頂から日の出の瞬間を見ることは、もう叶わない。自分の計画の甘さに歯噛みする。もう少し冷静に計画を立てることは出来たはずだ。昨晩の野宿にしたって、安易に決めずに大台ヶ原に向かってもう少し走ればよかった。またここ大台ヶ原まで、スーパーカブのギアを1速にまで落とさないと登れないことは分かっていたはずだ。それなのに余裕をもって出発しなかった。全ては後の祭り。とにかく、今は急ぐしかない。


 日出ヶ岳までの道のりは、よく整備された歩きやすい道だった。山道に石畳が敷かれている。上り坂では木で作った階段が用意されていた。そうした道を僕は走った。少しでも早く日の出を見たくて走った。走りながら気になったのは、笹の葉の多さだった。木は生えているけれど森というほど密集はしていない。山道の両側にまばらに生えているだけで、視界は良好。そうした木の根元に、笹の葉がまるで絨毯のように敷き詰められていた。地表は見えない。実は大台ヶ原の南東部は、ミヤコザサの群生地だったのだ。


 大台ヶ原は、太平洋側からの海洋プレートがユーラシアプレートの下に潜り込むことによって隆起した非火山性の平原になる。標高が1300mから1600mあり、南東から吹き上げられる湿った風によって雲が形成され、年がら年中雨が降っていた。その雨の多さは、屋久島に並ぶとされる。昭和34年のこと、大台ヶ原を伊勢湾台風が襲った。その猛威は凄まじく、大台ヶ原の南東部の木々が次々となぎ倒されてしまう。それまでの大台ヶ原は、潤沢な雨により森の根元には苔が繁殖していた。そうした苔が太陽に照らされることによって乾いてしまい急速に減少していく。代わりにミヤコザサが繁茂し始めたのだ。


 日出ヶ岳や正木ヶ原といった大台ヶ原の東側の景色の特徴は、平原に広がるこのミヤコザサに尽きる。まるで旺盛な生命力で平原を侵食していく緑色のスライムのようだった。そうしたミヤコザサの増殖によって、餌を求めて鹿も増加しているそうだ。本来、森林というのは、様々な生態系が複雑に絡み合って共存し合っている。ところが、ミヤコザサだけが繁茂しているこの状況を環境省は問題にしていた。森林再生に向けて措置が取られていたが……なかなか難しそう。


 足を速めていたが、日出ヶ岳の標高は1695m。ビジターセンターからだと100mほど登る必要がある。目の前に山頂が見えてきたが、その手前に長い階段が立ち塞がった。流石に足が止まってしまう。階段を登りながら右側に視線を向けた。晴れていれば青い伊勢湾が見えるはずだが、今は見えない。一面に白い雲海が広がっていた。本来であれば太陽が登っているはずだが、その太陽ですら雲海に隠れている。それどころか、遠方では山脈のように雲が隆起していてその稜線が赤く染まっていた。もうすぐその稜線から太陽が顔を見せる。まだ間に合う。足を速めた。


「おおーい」


 前方から声が聞こえた。顔を上げると、山頂に設置された展望台の上に人が立っているのが見えた。僕に向かって手を振っている。僕と同じように日の出を見に来たのだろう。僕も大きく手を振った。


「おはようございます」


 何だか嬉しい。ここに来るまで誰にも会っていなかった。何なら昨日の昼に会社を出てから誰とも話していない。人から好意を向けられるというのは嬉しいものだ。階段の登りで疲れていたはずなのに元気が湧いてくる。山頂に辿り着くと、今度は前方にある木製の展望台の階段を登り始めた。展望台にいた人も僕に会いに来る。汗を拭いつつ、その人に声をかけた。


「早いですね。日の出を見に来たんですか?」


 その人を見て、足が止まる。


「どうしたん?」


 ニコニコと笑っているその人に向かって、僕は眉間に皺を寄せた。


「なんや小山か」


「なんやはないやろう。俺も行くって言ったやないか」


「駐車場に白いビートが停まっていたけど、あれお前のか?」


「そうや。車中泊したんや。真っ暗な中、ここまで来るのは少し怖かったで」


「そうか」


「ヘッドライトで前を照らしながら……」


 小山という男は、喋り出したら止まらない。ビートでここまで走ってきた経緯や、大台ヶ原の説明を延々としてくれる。伊勢湾台風で木々がなぎ倒された話は、特に熱がこもっていた。適当に相槌を打ちながら、展望台の手すりにもたれかかる。前方にある雲海からは、今まさに太陽が昇り始めていた。流石の小山もそれを見て黙ってしまう。二人して、赫赫と登りゆく太陽を眺めた。


「凄いな」


 僕が感嘆の声を漏らすと、また小山がしゃべり始めた。大台ヶ原の素晴らしさを、まるで自分のことのように自慢してくれる。小山との付き合いは長いので、そんな小山のことは良く分かっているが、少し黙っていて欲しい。僕はゆっくりと感動を味わいたいのだ。そんなことを思っていると、小山が大きな声を張り上げる。


「なあなあ、あれを見てみ」


 小山が北の方角を指さした。釣られて視線を向けてしまう。目の前の深い谷底に雲が浮かんでいた。その雲の一群が吹き上げる風によって、山の背をゆっくりと登っている。目を凝らさないと分からないくらいの、ゆっくりとした動きがとても良かった。僕は、台風の後の雲の流れを見るのが好きだったりする。空に浮かぶ巨大な雲がゆっくりと流れている様子から、大自然の雄大さを感じるからだ。いま眼下にある巨大な雲が、雲海と繋がったタコの触手のように見える。巨大な触手で山の稜線を撫でていた。声を失う。


「凄いな」


 しばらく眺めた後、僕はスマホを取り出す。そのゆっくりとしたその雲の動きを、動画で撮ってみようと思ったからだ。手すりにスマホを固定して、動画のボタンを押す。じっと息をひそめた。ところが、小山のお喋りが止まらない。動画に小山の声も録音される。


「山の上を雲が登っていくの、ええやろ。俺的には、雲海がない伊勢湾が見たかったけど、これはこれでええで。雲がなかったら、富士山も見えるんやで。ほらほら、あっちの方に富士山があるねん……」


 振り返り、僕は小山を睨みつけた。


「ちょっと動画を撮ってるから、黙っててくれへん」


「ああそうか。ほんなら俺も撮ってみようかな。ほらほら、あっちの景色もええんちゃう……」


 理解してくれたのか、小山のマシンガントークが途切れた。それ以降、大台ヶ原での登山は小山と一緒に行動する。僕と歩きながら、ずっと喋っていた。そんな小山に僕は嫌味を言ってしまう。


「お前が居てくれるから、クマ除けの鈴がいらんわ」


挿絵(By みてみん)

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