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最後の晩餐

 イエス・キリストが処刑される前夜、十二人の使徒と一緒に摂った夕食のことを最後の晩餐という。僕の人生は明日も続くかもしれないし、続かないかもしれない。でも、奈良の山の中での今夜の食事は、僕の人生における最後の晩餐に間違いない。祈りの後、イエスはパンと葡萄酒を使徒に与え、パンが自分の体、葡萄酒が自分の血と言ったそうだ。星々を見つめていた目を閉じて、大きく息を吸う。そして、吐き出した。目を開けると、墨を流したような闇夜の中で、僕の周りだけが弱いランタンの光で照らされている。僕の晩餐は、鶏の炭火焼とビールになる。さあ、準備を始めよう。


 野宿での食事は、いつも七輪を使う。ホームセンターで購入した鉄でできた四角い七輪。とても可愛い。その七輪の前に三本足の椅子を置いて座り込む。この椅子の位置はとても重要だ。七輪は、肉を焼く調理道具であり、温もりを与えてくれる暖炉であり、火の踊りを見せてくれる余興であり、僕を癒してくれる友達でもある。酔っぱらって就寝するまで、僕はずっとこの七輪と向き合う。この位置からほとんど動かない。右の手が届くところには保冷バックが置いてあり肉やビールが収められていて、左手のスーパーカブのハンドルにはゴミを入れるためのビニール袋がぶら下げられている。目の前には漆黒のダム湖が佇んでいて、見上げると満天の星が瞬いていた。ここは劇場の特等席。


 まずは炭を熾さないといけない。ライターでちまちまと火をつけるのは時間がかかるので、ガスコンロの火力で豪快に燃やしてしまう。チロチロと赤く染まった炭を七輪に収めて網をセットする。これで準備オッケー。仕込んだ鶏肉とゴボウをタッパーから取り出して網の上にのせる。焼きあがるまで時間がかかるので、ここで2缶目のビールを取り出した。プルトップを引き上げる。喉に冷えたビールを流し込みながら、長い夜が始まったことを感じた。


 普段の生活と違って、野宿は夕食の時間が早い。太陽が沈めば、食事の合図。辺りは真っ暗で、テレビがなければパソコンもない。辛うじてスマホがあるのでスピーカーとリンクさせる。音楽アプリを立ち上げて、映しだされるジャケットをスライドさせた。上原ひろみとエドマール・カスタネーダのライブアルバム「Live In Montreal」を見つける。8曲目の「The Elements: Fire」を再生した。


 低音のピアノの連打音が鳴り響く。まるで包丁の微塵切り。暴れまわるリズムに合わせて、太鼓のようなハープの打音。これがハープの音なのか。一打一打、空気が震える。躍動するリズムが加速して、細切れになった音がスピーカーから溢れ出す。辺り一面を焼き尽くすその暴れかたは、まさに火の妖精。高ぶった感情を更に燃やして、踊り狂う姿が見えるようだ。


 激しかった炎が鎮火する。静寂が訪れたあと、バラードが流れ始めた。クンクンと鼻を嗅ぐ。メイラード反応による香しい風味が僕の鼻孔をくすぐる。腹を減らした犬みたいに涎が溢れ出した。箸を手に取って、肉の焼き加減を確かめてみる。まだ早いかもしれない。仕方がないのでゴボウをつまんだ。軽く茹でているので、食べることができるだろう。紙皿の醤油にチョンチョンと付けて、ゴボウを口にする。


 ――美味い。


 表面はカリっと焼けていて、噛みしめると出汁が口内に広がった。目をつぶり、ゆっくりと咀嚼しながら、ゴボウの土臭さを味わう。懐かしい気持ちにさせられた。ビールを飲む。


 次は、鶏肉を食べたい。もっと焼いた方がいいのかもしれないが、箸をのばす。醤油をつけて嚙みしめる。ニンニクの匂いと一緒に肉汁が溢れ出した。少し焦げた皮が、驚くほどに美味い。噛みしめる。何度も噛みしめる。また、ビールを飲む。


 ――美味い。


 食事は、口の中だけで味わうのではなく身体全体で感じるものだ。居酒屋で飲む酒が美味いのは、店主の腕はもちろんのこと、その空間が醸し出す影響も大きい。店の設えであったり、料理が盛られている皿であったり、そうした演出が料理の美味さを更に引き上げる。食事を共にする相方も重要だ。好きな人と一緒に飲む酒、信頼できる仲間たちとの宴会、子供たちとの団らん。同じ食事でも、心を許せる相手は最上の調味料かもしれない。古来から、食事によって仲間との信頼を築いてきた歴史がある。


 ただ、今夜の僕は一人を楽しむ。暗い山の中で、誰も居ない山の中で、自然を相手にして酒を飲む。普段の生活では、なかなか自然を感じることができない。この世界に包まれて生きている現実を感じれないのが現代社会だと、僕は思う。人間がこの世界を管理しているかのような思い違いが至る所でみられるが、それは傲慢以外の何物でもない。人間もこの世界を形づくる構成因子の一つ。今晩は、そのことを感じたい。この世界の住人であることを感じたい。缶ビールを傾ける。


 夜が更けていく。鶏肉もゴボウも食べつくした。缶ビールも飲みつくした。足元に転がっている小枝を拾う。網を外して、七輪にくべていく。息を吹きかけると、小枝に火が移った。小さな火柱が立ち上がる。チロチロと踊っている火を見つめながら、今度はウィスキーを舐める。口の中が、カッと燃え上がった。


 酔うほどに、僕の意識が曖昧になる。この世界と僕との境界も曖昧になる。そのまま溶けていって、僕も闇の一部になる。森の奥から、鹿の鳴き声が聞こえた。ケーンケーンと、まるで女が泣いているような鳴き声だ。泣かないでくれ。泣かないでくれ。僕も悲しくなるから。項垂れながら、またウィスキーを舐める。時間だけが過ぎていった。

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