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宿の夜

 風呂からあがった。体の汚れと一緒に今日の疲れも洗い流す。新しい下着に着替えて、脱衣所を出た。風呂場から相部屋までは一本の廊下で繋がっており、10mほどの距離しかない。その間には洗面台が設置されており、幾つもの蛇口が横並びに口を付き出していた。子供の頃に通った小学校の手洗い場を思い出す。廊下を渡り相部屋に向かった。観音開きの扉を開けて室内に入る。左手に受付でお湯を求めた男性客が座り込んでいた。歳の頃は50代後半くらい。荷物を広げて整理をしている。彼が持つ道具から登山家だと判断できた。僕が風呂に入っている間に、もう一人客が増えていた。30前後の男性で、この人も登山客。これまで野宿の旅ばかりだったので、旅先で誰かと関わる機会が少なかった。ここでは同じ目的を持った旅人が集まっている。いつもと違う環境に少し緊張した。挨拶を交わしたあと、一番奥の自分の荷物が置いてある場所に向かう。食事までまだ少し時間があった。布団に潜ってまた横になることにした。


 ――ガチャ。


 観音開きの扉が閉まる音で目が覚める。少し寝ていたようだ。部屋の中は僕一人だけ。みんな食事に向かったのだろう。布団から抜け出して部屋を出る。階段を下りて、相部屋のすぐ下にある食堂に向かった。百人くらいは座れそうな大きな食堂で、大学の学生食堂を思い出した。料理はテーブルの上に用意されていて、一人づつ名札が置いてある。座る席は事前に決められていた。席に着く前にご飯と味噌汁を受け取る様にと、係に案内される。カウンターの前では、ご飯を受け取るために宿泊客が一列に並んでいた。その最後尾に僕も立つ。カウンターに目をやると酒類のメニューが掲げられていた。ビールは500mlと350ml、日本酒は上等なものとカップ酒が用意されている。どれにしようか……。というか、どちらも飲みたい。僕にとって登山は酒を楽しむためでもある。両腕を組んで真剣に考えた。ビールは350mlだと少ないので、ここは500mlを選ぶことにする。あとは日本酒。どうせ飲むのなら安いカップ酒よりも、上等な方が美味しいだろう。僕の番がやってきた。その時、食堂のおばさんが僕に笑顔で語り掛けてくる。


「熱燗も用意できますよ」


 山の上はとても寒い。おばさんの一言で熱燗が無性に飲みたくなった。熱燗ならカップ酒で構わない。


「じゃあ、500のビールと、カップ酒を熱燗で」


「熱燗は、ご用意が出来ましたらお呼びしますので」


「はい。お願いします」


 ビールとご飯と味噌汁が載ったお盆を持って、指定された僕の席に着く。僕の隣は、受付でお湯を求めた男性だった。まずはビールを開ける。この最初の一口が最高に美味い。僕にとってお酒を飲むという行為は、文章における句点のようなものだ。もし文章に句点がなければ、終わりが分からない。句点があるから終わりが分かる。句点は、けじめみたいなものだ。人間は一日の活動を終えると必ず寝る。寝なければ生きていくことが出来ない。疲れた身体を横たえてそのまま眠りに入ることも出来るが、僕は寝る前に必ず句点を付けたい。充実した一日であればあるほど、強い意志でもって自分を讃えたい。それが僕にとっては酒なのだ。酒を飲む前は、今日の用事を全て終わらせておきたい。更に、必ず風呂に入って身を清めておきたい。僕にとってはこれがルーティーンであり、儀式になっていた。


 おかずをアテにしながらビールを飲む。焼き魚や猪肉の鍋がとても美味い。おかずを箸でつまむたびにビールを飲んだ。あっという間に500mlの缶ビールが空になってしまう。これでは全く足らない。空になった缶ビールを寂し気にテーブルに置く。するとタイミングよく声が掛かった。


「熱燗をお待ちのお客様~」


 待ってましたとばかりに立ち上がる。すると隣の男性客も立ち上がった。僕と同じように、熱燗を注文していた。しかも、同じカップ酒の熱燗。その男性に対して親近感が湧いた。カウンターで熱燗を受け取り自分の席に戻る。カップ酒の熱燗を口にした。


 ――美味い。


 日本酒をより美味しく飲みたいのなら冷に限る。杜氏の思いが詰まった日本酒の旨味を、一つも損なわずに味わうことが出来るからだ。対して、熱燗の良さはその温もりにある。寒ければ寒いほど、熱燗は旨い。体だけでなく心も温めてくれる。心が砕かれて辛いときも、熱燗はそんな心を癒してくれる。熱燗とはそんな酒だ。母親に抱かれるような優しさがあった。そんな熱燗をペロリと飲み切ってしまう。これだけでは足らない。二杯目の熱燗を注文した。酔った勢いで隣の男性に声をかける。


「熱燗、美味しいですね」


 僕の言葉に男性が笑顔を見せた。身体を僕の方に向ける。


「寒いですからね。熱燗が身に沁みます」


 視線を交わして、お互いにニンマリと笑った。登山家であろう彼に語りかけた。


「今日は日出ヶ岳に登られたのですか?」 


「いえ、今日は八経ヶ岳に登ってきました。日出ヶ岳は明日の朝に登ります」


 八経ヶ岳は大峰山脈の一座になる。大峰山脈とは、北は吉野から南は熊野までを繋ぐ100kmにも及ぶ山脈で、高峰が紀伊半島の背骨のように連座していた。その山脈の中央に位置する八経ヶ岳は標高が1915mあり、近畿では最も標高が高い山になる。飛鳥時代に修験道を創始した役小角が山頂に法華経八巻を埋納したと伝えられており、その伝承から八経ヶ岳と呼ばれていた。


「へ~、八経ヶ岳は僕も登りたいと思っていました。どうでした?」


「結構な急登で、なかなか登りがいがありました」


「僕は登山初心者になるんですが、僕でも登れそうですか?」


「そりゃ、もちろん。是非、登ってみてください」


「あの山には渓谷を歩く破線ルートがあるそうで、凄く気になっているんです」


 僕の言葉に、男性が少し眉をひそめた。


「破線っていうことは、一般の登山道ではないということですね」


「そ、そうですね。僕も良くは知らないのですが……」


「きっと登る方は少ないでしょうね」


「そうかもしれません」


「そこに一人で登るつもりですか?」


「まぁ、そのつもりです」


「ソロだったら、僕は登らないかな」


「えっ、そうなんですか?」


「遭難したら、誰も助けてくれないですから」


「ああ、……そうですね」


 遭難……考えてみれば、登山は命の危険に及ぶ行為であるということを、頭では分かっていても深刻に受け止めていなかった。しかし、彼はその事が分かっている。彼の迷いのない返答に経験者としての重みを感じた。口を噤んでしまう。すると今度は彼が問いかけてきた。


「日出ヶ岳に登られたのですか?」


「ええ、大杉谷から峡谷を歩いて登ってきました」


「大杉谷から……ということは、明日はバスに乗って帰られるんですか?」


「いえ、実は大杉谷にスーパーカブを置いてまして、だから、明日は日出ヶ岳で朝日を拝んだ後、登ってきた道を戻ります」


「そうですか。大杉谷はどうでしたか?」


「良かったです。本当に良かったです。幾つも滝がありました。峡谷は滝の音がずっと鳴り響いていて、圧倒されました」


「峡谷はいいですね。僕も歩いてみたい」


「ただ、とにかく遠かったです。それに坂道もきつかった。本当にクタクタになってしまって……。ランニングをしていたので、もっと歩けると思っていたんですが、登山は別物でした」


「ランニングっていうことは、マラソンに出たりとかも?」


「今は大会に出てはいませんが、40代の頃は毎年」


「タイムはどうでした?」


「4時間1分です。3時間台にあと1分足りませんでした。それが残念で残念で……あなたは?」


「僕は3時間半です」


「それは凄い。速いですね」


「いえいえ、そんなことないです」


「ところで山に詳しそうですが、今までに良かった山はどんなところがありますか?」


「良かった山ですか……そうですね~、白馬岳は良かったです」


 ――白馬岳!


 浩ちゃんが最後に登った山だ。あの時、浩ちゃんは白馬岳から五竜岳への縦走を試みて、下山の途中で滑落する。この男性は、あの北アルプスに登っていた。尊敬のまなざしで見つめてしまう。


「きつい登りだったんじゃないですか?」


 男性が、思案気に目を細める。


「そうですね、確かにきつい。ただ、僕は……坂はきつい方が好きかな。急登は足を置くだけで標高が稼げますから」


「標高が稼げる……そんな風に考えるんですか?」


「ええ、僕は高度計を持っているので、常に確認しています」


「へー、高度計を……僕なんかどこまでも続く階段を見上げてゲンナリしていたのに……」


 男性がほほ笑んだ。


「なだらかな山道を延々と歩いている方が、僕は飽きてしまうな」


「へー、そうなんだ」


「多分、あなたは登るスピードが速いのだと思います。ゆっくりと登れば良いんですよ」


「ゆっくりですか、そうですね」


 お互いにお酒が入っていたこともあるが、その男性との話に花が咲いた。食堂に人が居なくなり係の人に追い出された後も、玄関のロビーに移動して、また話を続ける。登山の話だけでなく歴史や宗教それに人生論と話題は多岐にわたった。僕も彼も50代で、お互いにそれなりの人生経験がある。いつ終わるとも知れなかった。

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