表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/29

父親

 ブナが生い茂る森の中、茶色い落ち葉が堆積した山の斜面に太陽の光が突き刺さる。倒木に張り付いていた緑色の苔が木漏れ日のスポットライトに照らされた。遠目には、朽ちた木がモフモフとした緑色の洋服を着こんでいるように見える。しかし、目を近づけると違った。小さな杉の木のような形をした苔が、数えきれないほど多くの苔が、所狭しと密集してコロニーを形成している。太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。森の奥深くに、小さな宇宙が形成されていることを感じる。僕の訪れとは関係なく、ここで生死を繰り返してきたのだろう。神妙な心持になる。


 山の背に沿って、階段が伸びていた。一段一段踏みしめる。仮眠を取ったことで意識は覚醒したが、足の疲労はどうしようもない。階段を登るために両手で膝がしらを押さえ、足の動きに合わせて両腕を突った。全身を使ってゆっくりと階段を登る。登りながら、この坂道の登攀は人生で2番目の苦しさだと思った。僕の人生のなかで最も苦しかった思い出はウルトラマラソンになる。100kmを完走しきったが、ラスト20kmの道のりは人生がリセットされたと感じるほどに苦しいものだった。ただ、このような自身の肉体を酷使する苦しさは自分の意志で行うものなので、苦しいと言いつつも救いがある。目標に到達することが出来れば報われるからだ。ウルトラマラソンを完走した時、感動で咽び泣いたことが今も懐かしい。


 それに対して、報われない苦しさがある。自分の意志とは関係なく圧迫される苦しさだ。例えば、一方的な暴力であったり、痛みを伴う病気であったり、抜け出せない貧困などである。解決する方途が分からない場合、その苦しさは倍加する。またゴールが設定されていないので、いつまで苦しめばよいのか分からない。そんな苦しさを本格的に体験したのは20歳の時だった。


 切っ掛けは、父親の商売仲間の自殺になる。商売をしていた父と大変仲が良く、息子である僕のことも可愛がってくれるような面倒見の良い人だった。その人が北摂の山の中で首をくくる。当時大学生だった僕は、彼の自殺が自分の人生に大きく関わってくることになるとは思いもしなかった。


 現代では取り扱いが減少しているが、高度成長期を支えた商売の慣習に約束手形がある。約束手形とは、手形に書かれた期日に金額の支払いを約束する証券のことで、手元に現金がなかったとしてもこの証券を使うことで商売を成立させることが出来た。ただ、この約束手形を振出すためには保証人が必要になる。保証人とは、手形の振出人に支払能力がなかった場合、振出人に代わって支払うことを約束する。その成立は、保証人が手形に署名するだけで良い。


 父の友人が自殺した理由は、この約束手形だった。期日までに現金を用意することが出来なかったのだ。父親は、その約束手形に署名をしていた。つまり、連帯保証人としてその手形に示されたお金を用意しなければならない。金策に走ったが、結局のところ手詰まりになる。自宅にヤクザが取り立てに来るようになった。ヤクザから逃げるために父はビジネスホテルで生活するようになり、生活物資を僕が父親に届けることが何度もあった。そうした状況下にあって、僕は苦しいとは思わなかった。それよりも父親を護っているという自負心が、僕を強くした。


 ところが、そんな父も親族や商売仲間に保証人になってもらい約束手形を振出していたのだ。そうした手形が次々と不渡りになっていく。子供のころから僕のことを可愛がってくれた親戚の叔父さんや叔母さん、また父親の友人が家にやってきて父をなじった。この時になって初めて、問題の大きさを理解する。負債総額は2億円に膨れ上がり、父は自己破産した。


 父親は返済の義務から解放されたが、親族や父の友人からすれば堪ったものではない。社会を知らなかった僕は、それまで尊敬していた父親のことを酷い悪人のように感じ始める。家計を支える父に収入が無くなったことで、大学3回生にあがる春に僕は大学を休学した。友達の伝を頼って中央卸売場で仕事をすることになる。中央卸売市場の朝は早い。職場は塩干を商う仲卸業者で朝の3時から仕事が始まった。


 バブルが崩壊する直前の経済は異様な活気に満ちており、市場は仕入れにやってくる小売業者でごった返していた。店舗の前には、塩サバやちりめん、冷凍のカニといった加工された魚介類が並べられている。それら商品の見栄え良くするために照明があてられた。この提灯のような照明が、小さな店舗当たり7つも8つもある。碁盤の目に並んだ仲卸は水産だけでも100店舗はあり、どの店舗にもそうした照明があった。まさに光の渦。


 店舗と店舗の間の細い通路は、商品を買い付けに来た人々でごった返していた。我先に商品を買い付けたいバイヤーの怒声が飛び交い、次々と売買がまとめられていく。店の丁稚は、駐車場に停められた客のトラックまでそれら商品を運ばなければならない。

「このパレットの荷物、寝屋川店な」

「積み遅れるぞ、急げ」

「商品が間違っている。伝票をよく見ろ!」

「なにタラタラしとんや!」

 矢継ぎ早に指示が出される。僕たち丁稚は目まぐるしく走りまわった。社会経験がなかった僕は、その忙しさに翻弄されたる。


 買付を終えたトラックがそれぞれの店舗に帰っていった。喧騒に包まれていた市場から人が居なくなり照明が落とされる。太陽が昇っていない朝方は、人々の喧騒で賑わい光が満ち溢れていたのに、太陽が昇ると市場は死んだように静まり返った。コンクリートで出来た建物の壁はヒンヤリとしており、水産物を扱う場内は暗くジメジメとしている。まるで薄暗い地下ダンジョンのようだ。そんな中、一部の店舗だけ照明が灯っている。


 目まぐるしい朝の戦いが終わると、僕の職場では翌日に向けての仕込みを始める。魚の加工だ。冷凍されたカラスカレイや赤魚を切り身にして商品化する。この加工作業の時間がとても長かった。早くて昼過ぎ、遅いと夕方の4時ごろまで行われた。


 包丁を扱う職人が、カラスカレイや赤魚を次々と切り身にしていく。その横で僕は、山のような量のカラスカレイや赤魚の鱗を取っていった。延々と同じことを繰り返す。そのことが若い僕には耐えられない。まるで奴隷になったような気分だった。一生この暗い市場の中で仕事をさせられるのかもしれない……そんな妄想に駆られた。仕事を始めてから二週間ぐらいが経ったころ、体調不良を理由に仕事を休んだ。苦しくてまた休んだ。3回目に休んだ次の日、職場の先輩が僕を捕まえる。


「ちょっと、裏にこい」


 その先輩は、暴走族のリーダーを務めておりガチガチの武闘派だった。殴られはしなかったが、胸ぐらを掴まれる。眉間に皺を寄せて凄まれた。


「仕事をなめるなよ」


 その一言で、僕は仕事を休まなくなった。それどころかその先輩から信用を得るためにすすんで仕事をするようになる。その先輩から、次第に可愛がられるようになった。そのような環境の変化の中、僕の心を大きく揺るがす出来事がやってきた。給料日である。社長から手渡された分厚い給料袋には30万円も入っていた。苦労して自分が稼いできたお金である。力を手にいれたような優越感が僕の心に広がった。仕事に対してやりがいを感じ始める。


 その頃になると、自宅にいるよりも職場で仕事をしている方が楽しかった。仕事が終わると、途端に憂鬱になる。もちろん原因は父親だった。ただでさえ父親を侮蔑していたのに、給料を持ち帰ったことでその気持ちに拍車がかかった。そうした気持ちは、母親に対しても向けられる。ある時、生活費になる給料袋を母親に差し出して、ワザと言ってしまった。


「恵んでやる」


 どうしてそこまで意地悪になれたのか、僕にも分からない。ただ、心の中に鬱積しているヘドロを吐き出したいだけだった。言ってしまった後で酷く後悔する。自分の劣悪さにも反吐がでそうだった。抑えきれない僕の心はドンドンとエスカレートしていき、些細な事から父親と喧嘩になる。体格は僕の方が大きくなっていた。父親の顔面を殴ってしまう。決定的だった。残暑が厳しい8月25日、僕は現実から逃げ出した。自転車に乗って大阪を後にする。そのまま北に向かい長い放浪の旅に出た。


 足を止めて見上げる。階段状の山道がまだまだ続いていた。息が切れて、足が痛い。階段を踏みしめながら、懐かしい思い出に浸っていた。33年も前の出来事を、こんな風に思い出したのは久しぶりになる。若い頃の自分のことが可愛いと思った。もし出来るのなら、過去に戻って自分を励ましてやりたい。あの辛い時期があったから今の僕があるんだと、言ってやりたい。


 階段はまだ続いていた。肉体的な疲れはピークに達していたが、不思議と苦しいとは感じない。休みながらの歩みは遅いけれど、頂上はもう直ぐそこなのだ。落ち葉が堆積する森林から、ミヤコザサの群生地へと景色が変わった。大台ヶ原の特徴的な景色。二か月前に訪れたばかりなのに懐かしい気持ちにさせられた。生えている木が疎らになる。山肌はミヤコザサで一面緑色。太陽が傾き、ミヤコザサの絨毯の上を木の影が黒く長く伸びていた。足を止める。見上げると、日出ヶ岳の展望台が見えた。


「やったー」


 とうとう山頂までやってきた。長い長い戦いだった。思わず涙が出そうになる。報われた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ