熊とコーラ
ほとんど起伏がないのに300mほどの道のりが遠く感じた。大きく右に迂回していくと、目的の粟谷小屋が視界に入る。茶色を基調とした二階建ての可愛らしい山小屋だった。僕の存在に気が付いたのか、建物の中から30代くらいの長身の男性が姿を現わす。僕に歩み寄ってきた。
「ご予約の方でしょうか?」
僕は首を横に振った。
「いえ違います。実は、飲み物を頂きたくて……」
「飲み物ですか? コーラとか……」
男性の言葉を遮るようにして即答する。
「コーラをください」
「あっ、はい。ただ、冷えていなくて」
「全然、構いません。兎に角、甘いものが欲しくて」
「分かりました。どうぞこちらへ」
玄関に通される。建物の奥に消えた男性を待っている間、熊のことを考えていた。出発前は、熊の危険性について心配していた。ところが、これまでの道のりで熊の気配は全く感じられない。はたして熊はいるのだろうか? 建物の奥から男性が戻ってくる。500ml入りのペットボトルのコーラを手渡された。
「ありがとうございます……あの、」
「何でしょうか?」
「表の椅子で、休憩させてもらっても宜しいでしょうか?」
「ええ、どうぞ。トイレを利用されるのなら、こちらに」
「はい、ありがとうございます」
「僕は今から水源地の見回りに行くので、ここを離れますが、ゆっくりとしていってください」
「はい、ありがとうございます」
「では」
立ち去ろうと僕に会釈をする男性を引き留める。
「あの……」
「はい、何でしょうか?」
「お聞きしたいことがあって、この辺りに熊は出るのでしょうか?」
男性が首を傾げた。
「熊ですか……ここで仕事をするようになって5年になりますが、僕は見たことがありません。この辺りは、熊の生息地としては適していないんじゃないかな……」
「ああ、なるほど。標高が高すぎるんですかね?」
「ん~、良くは分かりませんが、そんなもんでしょう」
僕は男性に頭を下げる。
「時間を取らせました」
男性が笑顔を見せた。
「じゃ、ゆっくりとしていってください」
「ありがとうございます」
立ち去っていく男性を見送りながら、熊の脅威がないことにホッとした。ズボンのサイドポケットに入っている自作の熊スプレーは余計な荷物だったことになる。ただ、熊が居ないわけではない。注意は必要だ。もう少し熊の情報が欲しいと思った。背中のナップザックを肩から外す。そのまま崩れるようにして椅子に座り込んだ。手にしているペットボトルの栓を回す。かぶりつた。
……ああ、甘い。
コーラを口にするなんて、いつ以来だろう。コーラが冷えていないとか関係なかった。刺激的なその甘さにウットリする。ただ水分摂取のコントロールは出来ていたので、喉が渇いていたわけではない。500ml全てを飲み切るのは少し多かったが、この甘さがこれからの活動エネルギーに転換されると自分に言い聞かせて一気に飲み干した。炭酸の膨張によって、お腹が膨れあがる。喉の奥から込み上げてきた。
「ゲップ!」
コーラを飲み干してしまうと、何だか体から力が抜けた。大きなため息をつく。目の前のテーブルに手を置いて、頭を下げた。そのまま崩れ落ちる。意識が無くなった。
目が覚めた。少し肌寒い。仮眠を取ったことで意識がはっきりした。スマホを取り出して時刻を見る。13時半。10分ほど寝ただけだった。短時間であっても睡眠の効果は絶大。コーラを補給したことと相まって、体の中から力が漲ってくるようだった。当初の見積もりでは、14時に日出ヶ岳に登頂できるつもりだったが、それはもう叶わない。残り3.5km。もっと休憩しても良かったのだが、先を急ぎたい。立ち上がった。
……ビキ。
太腿の筋肉が固まっていた。肉を引き剝がすような抵抗を感じる。ただ、歩けないわけではなかった。フルマラソンで30kmの壁にぶち当たった後の、残り10kmの方がもっと大変だったことを思い出す。あの時は、足を引き摺りながらゴールした。砂利道の林道を引き返し、登山道にもどる。階段の一段目に足をのせた。




