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シシ渕

 峡谷の奥深く、切り立った斜面に張り付くようにして登山道が伸びていた。林立する木々は紅葉が始まっていて、緑色の山の斜面の所々が黄色く染まっている。鳴り響く滝の音を目指して歩みを進めていると、目の前で大きな木が横倒しになって道を塞いでいた。雨の影響による土砂崩れと思われる。巨人に引っこ抜かれたような有様で、根っこが剥き出しになっていた。道は遮断されていたが、乗り越えることは出来る。足場を確認しながら、先を急いだ。その先には、何度掴んだか分からない鎖が垂れている。岩が剥き出しの崖を登っていった。宮川の渓流は左手にあり、上流は右に回り込んでいる。壁のような山の背に沿って登山道も右に右にと曲がっていた。歩みを進めていく。視界が広がった。


 ――あった。


 対岸に壁が屹立していた。直立するその黒い壁のてっぺんから、白い反物のような白滝が落ちていた。落差180m。昨日の雨の影響からか圧倒的な水の塊が、地面に叩きつけられていた。その爆音が峡谷に木霊している。固唾をのんで見つめ続けた。形容する言葉が見つからない。僕の力では到底太刀打ちができない圧倒的な質量が、重力の力によって引き裂かれていた。切り裂かれた白い反物は、宮川の流れに吸収されてエメラルドグリーンに変わる。そうした一連のドラマが、ただ延々と繰り返されていた。


 立ち尽くしていた場所から少し上る。屋根がある休憩所が用意されていた。紹介の看板によると、この滝は千尋滝というそうだ。椅子に座り、尚も対岸の千尋滝を見つめる。少しお腹が空いていた。時間は8時前。ラーメンを食べてから4時間が経っている。少し早いかもしれないが、ナップザックからおにぎりを取り出して食べた。これで当分は歩けるだろう。


 名残惜しい気持ちもあったが、千尋滝を後にする。宮川の流れに沿って、また登山道を歩きはじめた。太陽が昇り渓谷の中を日が差し始める。それと共に気温が上昇した。歩き始めた頃はレインウェアを防寒具の代わりに着込んでいたが、汗をかき始めたので途中でナップザックに仕舞う。フリースのタートルネック姿で歩いていたが、これでも暑くなってきた。結局、フリースも脱いでしまう。下着のシャツ一枚。少し肌寒い気もしたが、常に歩き続けていたので、この方が快適だった。苔生した登山道を歩いていく。


 目の前に大きな岩場が立ち塞がった。鎖が上へ上へと伸びている。鎖を掴み登っていった。その岩場を登りきると、眼下に岸壁と岸壁に挟まれた峡谷が現れる。大杉渓谷の中でも秘境と名高いシシ渕だ。足元を確認しながら降りていく。大きな岩がゴロゴロと転がっていて、その間を縫うようにして川が流れていた。上流に目を向けると、数十メートルはあろうかという強大な岩が門のように左右に直立していて、川を狭めている。手前にはエメラルドグリーに染まったシシ淵。岩と川がぶつかり合う峡谷の中で、そこにだけ静けさが集まっていた。なんだか静謐な気持ちにさせてくれる。門に挟まれた峡谷の先には、ニコニコ滝の瀑布が確認できた。


 岩を飛び越えて、シシ渕の手前までやってくる。大きな岩の上にゆっくりと腰を下ろした。噂に違わない、素晴らしい場所だった。一幅の風景画のように、時間が止まっている。僕しかいない。まさに独り占め。2ヵ月前、大台ヶ原から帰ってきた後に、このシシ渕の存在を知った。写真を見ただけなのに、行ってみたいと思った。いわば今回の旅行の切っ掛けを与えてくれたのが、このシシ渕だった。


 目標に到達したような達成感を感じた。ここまでやってきたんだな~という気持ちにさせてくれる。ただ、このシシ渕でも、今日のスケジュールの四分の一しか到達していない。まだまだ先は長いのだ。それに明日の復路で、もう一度このシシ渕にやってくる。のんびりしている暇はなかった。その時、人の話し声が聞こえた。右の岸壁から男女のカップルが降りてくる。川上から降りてきた登山客だった。良いタイミング。僕も腰を上げた。


 大杉谷に入り初めて出会う旅人。挨拶を交わして、彼らに独占していたシシ渕を明け渡す。川の中に点在する石の上をピョンピョンと飛んだ。元の登山道に帰ろうとする。濡れている石があった。危ないかも、と瞬間に思った。思ったのに、その石の上に足をのせた。


 ――ドボン。


 片足が川の中に落ちてしまった。脹脛を強く打ち付ける。何事もなかったように足を引き上げた。歩みを進める。大きな岩の陰に隠れた。


 ――恥ずかしい。


 あのカップルは、僕が川に落ちたことに気づいただろうか。僕の顔は、きっと真っ赤に染まっている。岩に腰を下ろして靴を脱いだ。靴の中からドボドボと水が流れだす。ゴアテックスの登山靴と言えども、川の中にはまってしまえば防ぎようがない。靴下を脱ぎ、ギューと絞る。水が滴り落ちた。靴の中にタオルを突っ込んで、出来る限り水分を拭きとる。


 ――さて、どうしたものか。


 完全に乾かすことは出来ない。諦めて靴下を履きなおした。登山靴を履き、靴ひもを強く結ぶ。足が気持ち悪い。気持ち悪いが仕方がない。歩みを進める。あのカップルが降りてきた岩は、かなり急だった。鎖を掴み登り始める。


 ――こんなトラブルも良い思い出だ。


 前回の大台ヶ原でも、渓流で靴を濡らしてしまった。あの時同様、前向きに考えることにする。死ぬまで、シシ渕のことは忘れることはないだろう。記憶に強烈に刻み込まれてしまった。


挿絵(By みてみん)

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