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静かな夜

 タイムカードをスリットに入れると、スルスルと引きずり込まれ退社時間が打刻された。ガチャ。


「あれ、早く退社されるって言ってませんでした?」


 伝票作業の手を止めて大塚さんが僕に問いかけてきた。大塚さんは、くりくりっとした目が印象的な女性事務員。


「早く帰りたかったけど、荷物の到着が2時間も遅れたから~」


「あらあら、待ちぼうけだったんですね」


 僕のことを労うようにして、大塚さんがほほ笑んでくれる。


「こんな時に限って……まったく」


 僕も眉間にしわを寄せつつ、笑った。


「今から行くんですか、大台ヶ原」


「うん。遅くなったけど」


「何時ごろに着くんですか?」


「大台ヶ原は、明日の朝の予定。日の出を見に行くねん」


「あっ、いいですね。山の上から見るなんて。それまでは車の中で寝るんですか?」


「いや、僕の足はスーパーカブだから、テントで寝る」


「あの黄色いカブですよね。キャンプ場に行くんですか?」


「いや、その……決まっていなくて、どこかのダムかな」


「えっ!」


 大塚さんが怪訝な表情を浮かべた。


「野宿やねん」


「こ、怖くないんですか?」


「慣れてる。今からやと、暗くなってからテントを張らなあかんから、それだけが少し面倒い。でも、まあ、何とかなる」


「へ~、何とかなるんですか。でも、山の中ですよ。熊が出たりとか」


「一応、熊対策はしてる。小型のスピーカーで一晩中、音楽を流すねん。音のバリア」


 大塚さんが目を丸くする。


「それで何とかなるんですか?」


「たぶん。熊も人間が怖いはずやから、予めここは俺のテリトリーやって知らせることが大事やと思うねん」


「そうですか。気を付けて行ってくださいね」


「ありがとう。じゃ」


 事務所を出ると、そそくさと駐輪場に向かう。「何とかなる」と言ったものの、実は焦っていた。時間が惜しい。自宅に向かってスーパーカブを走らせた。


 野宿をするための荷物はそろっている。テント、寝袋、七輪、炭、コンロ、ランタン、エトセトラ。問題は、今晩の食事と明日の朝食だ。自宅に帰るなり、冷蔵庫を確認する。鶏肉を見つけた。包丁で一口サイズに切り分けて、塩コショウとニンニクで味付けをする。調理酒を振りかけてタッパーに収納した。同時進行で、スライスしたゴボウを軽く茹でて、薄い出汁に漬け込む。三重県にある福岡醤油店の「はさめず」を、携帯用の小瓶に詰めた。このお醤油がとても美味しい。冷蔵庫からスリーブに包まれたビールを六缶取り出すと、準備した食材と一緒に保冷バックに詰め込んだ。保冷材も忘れない。おっと、忘れるところだった。ウィスキーを携帯ボトルに詰め替える。ついでにチーズも用意した。


 帰宅してから、これらの準備に三十分程の時間を要する。あとは出発するだけだがその前に、風呂場に向かい汗を流した。今晩は風呂に入れない。シャワーを浴びながら、気持ちが高ぶっていることを感じた。早く出発したくて仕方がない。風呂場から出て服を着る。服を着るという時間までがもどかしい。パンツをはこうとして、足が引っ掛かった。少しよろけてしまう。


 玄関に全ての荷物を集めた。忘れ物がないかを確認する。スーパーカブのリアキャリアに、二つの鞄がくっついたサドルバックを載せる。一方は七輪やコンロといったキャンプギアが、もう一方は食材が入った保冷バックと水が収納されている。その上に、銀マット、テント、寝袋、折りたたみの椅子を載せてゴム紐で固定した。背中に背負うナップザックには、タオルのほかに念のために着替えも入れている。多分、使うことはないけれど。ヘルメットをかぶり、スーパーカブのキックペダルを踏みつけた。


 ブロロ~ン!


 エンジンが始動した。相棒も旅に出たくて疼いている。ギアを入れた。アクセルを回す。スーパーカブが走り出した。僕が住む大阪北部に位置する摂津市から大台ヶ原に向かう場合、三つのルートが考えられる。一つ目は、東に向かって生駒山脈を越えるルート。そのまま東に走ると奈良県北部にある平城京に到着する。そこから国道24号線を使って南下すると明日香村に行くことが出来る。大通りを多用するので車の交通量が多い。走りやすいが、走ることに楽しみは見いだせない。


 二つ目は、大和川をさかのぼって生駒山脈を越えるルート。初めて明日香村に訪れた時は、このルートを使った。斜交いに走るので距離的には若干短くなる。ただ、下道を多用するので信号は多いしスピードを出すことが出来ない。結果的に一番遅い。


 三つめは、中央環状線を使って真っすぐに南下して富田林市から国道309号線を使うルート。国道309号線は、大阪市と三重県熊野市を繋ぐ国道で、紀伊半島を斜めに切り分けるようにして伸びている。今回はこのルートを選択した。富田林市までは中央環状線を使うので車が多いが、時間的には短縮できる。富田林市から千早赤阪村に入ると、目の前に標高958mの葛城山が立ち塞がった。国道309号線はその葛城山を突き抜ける水越トンネルへと続いている。


 水越トンネルは、2,370mもある長い長いトンネルだった。スーパーカブの遅さにイラついた車が、僕を追い越していく。その度に車体が風によって揺らされた。少し怖い。怖いといえば、このトンネルもどこか不気味だ。走っても走っても出口が見えてこない。見えない圧迫感を感じる。トンネルを抜けると視界が広がった。山の背を埋め尽くす段々畑が広がっている。トンネルに入るまでも段々畑はあったが、大阪とは少し景色が違った。同じような畑なのに、奈良からはゆとりを感じる。なぜだろう。


 国道309号線は御所市を抜けた後、吉野川流域にある大淀町に至る。この大淀町でガソリンを給油した。これ以降、国道169号線を走ると大台ヶ原に行くことが出来る。この道程にはスタンドがほぼ無い。スーパーカブの燃料タンクは4リットル。相棒の燃費は少し悪くなっていてリッター40kmを超えたくらい。このスタンドと大台ヶ原の往復は約120kmあるので、計算上はガス欠の心配はない。心配はないはずだけど、過去に山の中でガス欠を経験していた。山の中に入るけれど、真っ暗な大海原に掘り出される様な不安感に包まれた。


 真っ暗と言えば、西日が葛城山に隠れてしまった。もう間もなく夜の帳が降りてしまう。今日の野宿の場所はまだ決まっていない。幾つかの候補は決めているので、そこに向かうことにする。僕の旅は、ほとんどが野宿になる。野宿の場所は適当に決めるのではなく、グーグルアースを使っていた。条件としては、まず地域住民の迷惑にならない場所を考える。また、スーパーカブで行ける場所でないと便利が悪い。ダムの周辺は、そうした条件を満たしやすい場所が多い。公園や展望台があるからだ。


 野宿の候補地に到着した。もう辺りは真っ暗。狭い場所だが、ダム湖を見下ろすことが出来る。スーパーカブのスタンドを立てて荷物を開梱した。最初の仕事はテントの設置になる。ランタンの弱い光を頼りにしてテントを広げた。伸ばしたポールをテントの穴に通していく。自立型のドームテントの利点は、風さえなければペグがなくても使用が出来ることにある。野宿の場合、芝生の上にテントが設置できることはまずない。踏み絡められた地面やアスファルトの上だったりするからだ。今回も例にもれず、ペグを打つことが出来ない。代わりに、テント内部の四隅に荷物を振り分けて重しにした。


 テントを設置すると、やっと一息つくことが出来る。保冷バックから缶ビールを取り出した。腰に手を当てて、一気に飲んでしまう。冷えたビールが心地よい。見上げると、無限に広がる夜空に星が輝いていた。大阪と違って、見える星の数が桁違い。まるで落ちてきそうだ。足元からは、リーンリーンと秋の虫が鳴いている。明日の天気は良さそうだ。

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