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うたかた

 炭で焼かれた鶏肉を箸でつまむ。醤油をつけて頬張った。肉汁と醤油と大蒜が混ざり合った香りが口内に広がる。僕の血肉とするために何度も噛む。繰り返し噛みしめた。……美味い。箸を置いて、今度は缶ビールを手にする。人類の英知によって生み出された黄金の液体。三千年の歴史が詰め込まれた発酵飲料。グビグビと喉に流した。……美味い。


 耳を澄ますと、宮川に流れ込む支流のせせらぎが聞こえた。サラサラと流れ続ける水の跳ね回る音は途切れることがない。一定のリズムを維持しながら、ただ流れ続ける。もし僕がその流れの中にジャブジャブと足を踏み入れたとしても、僕の存在なんか全く意に介さないだろう。何も変わることなく、川はサラサラと流れ続ける。そんな当たり前のことが、何か凄いことのように感じた。


 見上げると星が瞬いていた。とても数えきれない。宇宙船を飛ばして一番近い恒星に向かったとして、10万年はかかるそうだ。今から10万年前にこの地球上にホモサピエンスが誕生したことを考えると、あまりにも遠い。終わりのない時間の流れと、果てのない宇宙の広がり、そのような世界と比較すると人間の一生はあまりにも短い。学校の授業で習った「方丈記」のなかで鴨長明は、次のように謳った。


 ――行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。


 水の一滴は小さいけれど、集まることで川になる。また、海になる。人間の一生は短いけれど、集まることでコミュニティーが出来る。また、国になる。10万年前に誕生したホモサピエンスの流れは、最初は小さな川だったかもしれないが次第に大きくなりながら、現代では人口80億人という大河を形成した。大小の諍いを繰り返しながらも、その濁流は留まることを知らない。


 泡沫うたかたのような僕だが、一つの宇宙を形成していると捉えることが出来る。小さな細胞が集まった僕の身体は、頭があり、腕があり、胴体がある。肉体を維持するために体中に張り巡らされた血管には、赤い血潮が巡っている。オギャーと生まれてこのかた53年間生きてきた。まだまだ若いつもりではいるけれど、やがて老いていき、そして死んでいく。そうした変化の流れの中で、いま確かに僕は生きている。


 七輪で焼くものが無くなった。真っ暗な闇夜の中、赤く熾っている炭を見つめる。手に持っていた割りばしを、炭の中に突っ込んだ。集めておいた小枝も一緒にくべていく。息を吹きかけた。炭の赤が一際白く輝いたかと思うと、割りばしに火が乗り移る。ポッと、小さな炎が生まれた。七輪を舞台にして、クルクルと火の妖精が躍りまわる。じっと見つめながら、今度はウィスキーが入ってる小瓶を取り出した。栓を開ける。甘くて強い刺激臭がほんのりと漂った。鼻を近づけてその香りを楽しむ。ゆっくりと口に含んだ。舌の上でカッと燃え上がり、喉が焼かれた。暴力的な余韻に目を細める。……美味い。時間を凝縮したこの茶色い液体のことを、美味しいと感じたのはいつだったろうか。目を瞑って思い出そうとする。時間感覚が曖昧になった。


 パチッ!


 七輪にくべていた小枝が爆ぜた。懐かしい映像がフラッシュバックする。8年前、小学6年生になった長男ダイチと二人っきりでキャンプに行ったことを思い出す。場所は大阪北部にある市営のキャンプ場。テントがあらかじめ設置されており、自炊場も併設されていた。薪はあるし、調理道具も貸してくれる。持っていく荷物と言えば、寝袋と食料くらいで良かった。


 キャンプの醍醐味と言えば、野性味あふれる食事になる。ガスコンロのない山の中で、火を熾すことから始めなければならない。自炊場にあるかまどで、ダイチに火を熾してもらうことにした。ダイチの目が輝く。まずは小さな火を熾す。その火を細い枝から太い薪へと順番に育てていく手順を、ダイチに教えた。他にも飯盒を使ってご飯を炊いたり、カレーの調理では包丁を使ってジャガイモの皮を剥かせる。危なっかしく包丁を扱うダイチの横で、指を切らないかと冷や冷やしながら見守ったことが懐かしい。どうせキャンプに行くのなら家族で行けばいいのに、ダイチと二人っきりにこだわったのには訳があった。もちろんダイチの喜ぶ顔が見たかったのだが、それとは別に6年生になったダイチと大人の話でもしてみたいと期待したのだ。


 ダイチは小学4年生の時に、子供会のソフトボールチームに母親の勧めで入った。初めは嫌がっていたダイチだが、自主的に練習に参加するようになる。お爺ちゃん監督の人柄に魅かれたのだ。監督は試合での勝敗にあまりこだわらない人だった。子供たちがのびのびと楽しめることを主眼にしていて、プレイが未熟な小さな子供であっても、バッターボックスに立つ機会を与える。当然のように試合には負けてしまうが、チームをサポートする母親たちからの信頼は篤かったようだ。


 ダイチが5年生になった時、そんなソフトボールチームに変化が訪れる。切っ掛けは、隣町のソフトボールチームだった。主力選手だった6年生が卒業したことにより、チームの人員が大幅に減少し存続が難しくなる。両チームの監督の話し合いの末、隣町チームの選手が吸収されることになった。やってきた選手は新しく6年生にあがった子供たち。これを機に、お爺ちゃん監督は引退して、隣町チームの監督が新しい監督として就任した。


 5年生になったダイチは、お爺ちゃん監督の元で次の戦力として育っていた。ところが、新しく6年生が増えたことで、ダイチは補欠のままになる。また、新しい監督は勝敗にこだわる人だった。チームの雰囲気がガラッと変わった。エラーに対しては、厳しい怒声が子供たちに浴びせられる。お爺ちゃん監督の元で育ってきた子供たちの多くは、そのような空気に馴染めない。二学期がはじまって間もなく、ダイチと同級生の男の子がチームを去った。彼は次のキャプテン候補だった。影響を受けたのか、ダイチも練習を休むようになる。


 町でクリスマスソングが聞こえ始めた頃、嫁さんから練習に行かないダイチについて相談を受けた。チームが合併したのは力を合わせようとした結果だし、監督の交代も仕方がなかった。チームの空気は変わってしまったが、新しい監督の熱心さは評価が出来る。環境は変化していくものだ。そうした変化に対して、対応を先延ばしにしていることが問題だと、僕は感じた。放置は良くない。ある日の夕方、ダイチに語り掛けた。


「なあ、ダイチ。お父さんから話があるねんけど」


 ダイチが、僕を見た。話の内容が、ソフトボールのことだとダイチは分かっている。僕から視線を逸らした。


「……」


 話が続かない。ただ弟たちがいる横で、この話をするわけにもいかなかった。


「散歩にでも出かけようか」


 ダイチは素直に立ち上がった。二人して表に出る。路地に立ち並ぶ建物が西日で白く染まっていた。交差点を横切る老婦人の黒い影帽子が長く長く伸びていた。町角の自動販売機の前で立ち止まる。ポケットから財布を取り出した。


「何がいい?」


 ダイチはホットココアを選んだ。公園に向かって歩みを進める。嫁さんから聞いているソフトボールの事情について、ダイチに確認してみた。嫁さんの話と概ね合っている。


「なんでソフトが嫌なん?」


 ダイチの気持ちが聞きたくて尋ねてみた。


「試合に出れないから」


 そう言って、ダイチが俯く。


「春まで我慢したら、試合に出ることができるで」


「……」


 ダイチは答えない。お互いに沈黙してしまう。行き詰っている息子に対して、どんな言葉を掛ければよいのだろうか。全く分からない。思い切って尋ねてみた。


「やめたいんか?」


 ダイチは、コクリと頷いた。頷いたままシクシクと泣き始める。想像以上に苦しんでいたことに気づかされた。このような時、世間の父親はどのような対応をするのだろう。「悔しさをバネにして、見返してやれ」と発破を掛けるのだろうか。しかし、僕は言えなかった。ダイチを追い詰めるだけだと感じたから。「辞める」という選択は、もう揺るがない。今必要なことは、けじめだと思った。


「なぁダイチ。理解して欲しいことがあるんやけど、お母さんはダイチが可愛いからソフトボールの世話役をやってきてん。ダイチがやめたとしても、子供会の役員やからお母さんは世話役を直ぐにはやめられない。そのことは理解できるやんな」


 ダイチを見る。俯いたままだ。


「そのお母さんの為にも、ダイチにはけじめをつけて欲しいんや。どういうことかというとな、監督に自分の口で、お世話になりましたって言うて欲しいねん」


 ダイチは泣いたまま。


「それが出来たら、ダイチは成長できる。大人の仲間入りや。ソフトボールのことよりも、その事の方がお父さんは大切やと思うな」


 ダイチからの返答はない。泣いているダイチの肩を抱いて、その日は家に帰った。12月の最後の練習日、ダイチは嫁さんに連れられて監督に挨拶に行く。色々と言われたようだが、けじめを付けることが出来た。


 ウィスキーを舐める。七輪の中の小枝は燃え尽きていて、白い灰になっていた。暗い森の中、川のせせらぎが聞こえる。繰り返される水の跳ねる音は、何も変わらない。サラサラとただ流れ続けるだけ。ダイチにけじめを付けさせたのは、良かったのか悪かったのか、今となっては良く分からない。ダイチの気持ちを考えずに、無理に押し付けたようにも感じる。子供に偉そうなことを言いながら、けじめを付けていないのは僕の方だ。曖昧にして逃げてばかりの人生だったと思う。過去は変えられない。ただ、いま僕は生きている。いまこの瞬間だけは、未来を選択することが出来る。川の流れに竿さして抗うことが……。

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