雨の中のツーリング
タイムカードをつまみ上げる僕に、事務員の大塚さんが話しかけてきた。
「もう行くんですか?」
唇を尖らせて少し怒ったような表情で僕を見ていた。手が止まる。
「暇になってきたから、少し早いけど、出発しようと思って……」
僕は、中央卸売市場にある仲卸で果実の販売に携わっていた。忙しい時間は朝早くに集中していて、商品の買い付けや小売業者に対する販売が僕の仕事になる。売買が終わると、次の日の出荷の段取りや買い付けた商品の片づけをするのだが、そうした仕事も午前中には終わってしまう。ただ、そうした仕事の合間に、小売業者ではなく一般の消費者が果物を買いに来るので、僕が窓口になって対応していた。暇になってきたというのは、そうした一般消費者の流れが無くなってきたという意味になる。
「私は暇じゃないんですけどね」
事務員の仕事は多岐にわたるが、僕たち営業が売買した商品の明細をパソコンに打ち込んでいく作業がメインになる。つまり、商売が終わってから事務の仕事が始まるのだ。旅行に出かけるのでいつもより早くに退社する旨は会社に伝えていたのだが、僕は大塚さんに頭を下げる。
「ごめんね」
大塚さんが、怒った表情を崩した。椅子に座ったまま両手をあげて伸びをする。
「あ~あ、寂しくなるな~」
事務椅子を左右にゆすりながら上目遣いに僕を見上げてきた。蠱惑な雰囲気を漂わせている。大塚さんは、からかい上手な人だ。僕は困った顔を見せる。
「ん~、そんなこと言われると、タイムカードが押せない」
僕たち営業は朝早くに出勤するので、事務員より早くに退社する。そんな僕に、ときどき絡んでくるのだ。僕の足が止まったのを見て、大塚さんがほほ笑む。
「許してあげます。退社して良し」
「ありがとうございます」
ワザとらしく深々と頭を下げた。タイムカードを押し込む。ガチャ。
「また、大台ヶ原に行くんですよね」
不思議そうな顔をする大塚さんの問い掛けに、僕は笑顔を見せた。
「そうやねん」
「どうして同じところに?」
「ん~、ちゃんと山に登ってみたいから」
「ちゃんとって、どういうことですか?」
「前回は山の上までスーパーカブで登ったから、今度は自分の足で登ってみようかなっと……」
「自分の足で……」
「三重県の大杉谷から登るねんけど、往復で33km、標高差が1,400mもあるねん。それが楽しみで」
「それが楽しみなんですか~、聞いただけで疲れそう」
「でも、ええとこらしいで。滝が何本もあって、吊り橋を幾つも渡っていくような渓谷らしいねん」
「やっぱり野宿なんですか?」
「一日目はね。二日目は山の上で宿泊する」
「そうなんですか。それより、雨が降っていますよ」
「そうやねん。ただ、この雨も今晩にはあがるそうやから……」
「みたいですね。連休は良い天気みたいですよ」
「絶好の登山日和……じゃ、行ってきます」
「土産話を楽しみにしています。気を付けてくださいね」
「ありがとう」
事務所を出た僕は、相棒のスーパーカブが停まっている駐輪場に向かった。天気予報通り、外は雨が降っている。しかも、これから更に雨脚が強まっていくそうだ。目的地である大杉谷は、摂津市から140km先にある。下道を走って5時間くらいはかかるだろう。これまでに雨の中のツーリングは何度か経験してきたが、一日中雨ということはなかった。事前に天気予報は確認しているので、雨が酷いようであれば走らないからだ。ただ、今回は、二泊三日という旅程の一日目だけが雨なので、メインの山登りは雨の影響を受けない。今日だけ我慢すれば良いのだ。
自宅に帰ってきた僕は、家の前にスーパーカブを停める。旅行に向けてのパッキングは済ませていたので、先に風呂場に行き汗を流した。着替えの下着は、山登りに適した化繊のものを用意している。肌ざわりは木綿の方が柔らかくて好きなのだが、汗をかくと乾かないという欠点があった。ウェアもフリースのタートルネックや、化繊のカーゴパンツといった乾きやすいものを選ぶ。登山に化繊の衣類を選ぶことの重要性は、ネットで調べた。
いよいよ出発だが、最後にやっておくべきことがある。それは雨対策だ。旅行に向けての荷物は幾つかに分けている。着替えや軽い食料品はナップザックに収めている。このナップザックにレインカバーを被せた。七輪やガスバーナーといった重量物と、ビールや水といった液体類は、スーパーカブの後輪にセットする二つのサイドバッグに振り分けている。このサイドバックは大きなゴミ袋で覆った。テントや寝袋も、同じようにゴミ袋で包んでしまう。最後に、現金、キャッシュカード、健康保険証は濡れないように小袋に入れてからウエストポーチに収めた。今回は財布をもっていかない。スマホもこのウエストポーチに収めた。いつもなら財布やスマホはズボンのポケットにつっ込んでいるが、それでは落としてしまいそうで怖かったのだ。
登山用のレインウェアを用意したが、今は着ない。山登り用としてナップザックの中に仕舞いこんでいる。雨の中のツーリングでは、通勤用に使っている古い雨合羽を着ていくことにした。玄関を出て、表に停めてあるスーパーカブに荷物を載せて固定していく。ゴミ袋でゴテゴテに覆われた荷物は、いつもより重装備に感じた。用意が出来たのでスーパーカブに跨る。荷物があるせいでいつもより沈み込んだ。キーを差し込む。グイッとひねった。キックレバーを右足で踏み込む。
ブロロ~ン。
一発でエンジンが掛った。ギアを一速に入れてアクセルを回す。現実というしがらみを振り払って、スーパーカブを走らせた。嫁さんと子供たち、ごめん。会社の皆さんも、ごめん。僕と関係している全ての人に、ごめん。明後日、この自宅に帰ってくるまで我儘にさせてもらいます。山に入れば携帯は繋がらない。土産はないけれど無事故で帰ってくるので、それで許して欲しい。そんな気持ちで、自宅を後にした。
振り返ってみれば、コロナによって僕の行動が大きく変わったと思う。4年前に古くなったスーパーカブを、初めて自分で修理してみた。タイヤを交換して、マフラーを交換して、レッグシールドは白から黒に交換する。生まれ変わったスーパーカブに乗って、山の中に一人でキャンプに行ってみた。20代の頃は自転車での野宿旅行を色々と経験してきたが、結婚してからのソロキャンプは初めてになる。何故なら、いつも息子たちを連れていたからだ。そんな息子たちも大きくなり、僕と一緒にキャンプに行くことが無くなった。家族の形は変化していく。
そうした4年前のソロキャンプを題材にして体験談的な小説を書いてみた。これが僕の自信に繋がる。それ以来、エッセイを中心として、小説を書くようになった。現在までに、「だるっぱの呟き」というエッセイ集と、短編長編を合わせた14本の作品をネット上に紹介してきた。今までの作品は、僕が文章の技術を磨く為の練習と位置付けている。最終的な目標は、聖徳太子の物語を完成させること。その為に、文献を調べるだけでなく、聖徳太子に関係する史跡を中心にして各地に足を運んだ。その相棒としてスーパーカブに活躍してもらう。法隆寺を初めとして、奈良の明日香村周辺や、京都の広隆寺周辺、それに大阪の八尾市や太子町を散策してきた。
今年に入ってからは、奈良や大阪だけでなくその行動範囲を大きく広げた。今年の正月には、伊勢神宮までスーパーカブを走らせて、そのまま紀伊半島を一周する。ゴールデンウィークには、丹後半島に赴き聖徳太子のお母さんの足跡を尋ねた。8月のお盆では、大和王権と関係の深い出雲大社まで足を運ぶ。これらの旅程は、全て二泊三日で全て野宿だった。
今回は、紀伊半島の山の中にある大台ケ原が目的地だった。何度も紹介してきたように大杉谷から登っていくのだが、僕の中では山岳信仰を少しでも感じたいという目的がある。聖徳太子の物語を完成させるためには、仏教が伝来する前の日本を知る必要があったのだ。古代の精神世界は先祖を崇拝する宗教とは別に、アニミズム的な自然崇拝も見逃せない。この自然崇拝の大きなモデルとして山岳信仰があったと考える。
摂津市から真っすぐに南下していくと、八尾市に至る。大和川にそって国道25号線が走っているが、国道を外れて香芝市に向かった。中和幹線と呼ばれる県道105号線を走ると、奈良の桜井市まで一直線で行ける。奈良県に入ったあたりから雨脚が強まった。昼間だというのに、前方が見えない。雨の勢いに圧される形で、桜井市にあるコンビニエンスストアで休憩を取ることにした。
2時間以上も走ってきたが、まだ半分には到達していない。ただ、ここからの国道166号線の道程は完全な山間部になる。信号機で止められないのでスムーズに走ることが出来た。ただ、注意しないといけないことがある。それは、宇陀市で必ず給油することだった。グーグルマップを開いて事前にガソリンスタンドを検索してみたが、日曜日に休むスタンドがいくつもあることに気が付く。比較的大きな町である宇陀市で給油すると、ギリギリ大杉谷まで往復が出来るのだ。保険の為にガソリンを入れた携行缶は用意しているが、ここは予定通りに給油することにする。
宇陀市を後にした頃から、あれほど強かった雨が小降りに変わった。視界も良好になる。天気が良ければ、気持ちよくワイディングロードを楽しんだに違いないが、小ぶりでも雨は雨。なんだか気分が晴れない。アクセルを振り切ったまま、単調なドライブを続ける。どれくらい走ったのだろう。幾つもの峠を越えて、幾つものカーブを曲がった。
三重県松坂市で、国道166号線から国道422号線に乗り換える。また幾つもの峠を越えていくと、奥伊勢と呼ばれる三重県多気郡にやって来た。目の前には伊勢湾に流れ込む宮川の流れが見える。大きな河川だった。この宮川の上流に目的地である大杉谷がある。目的地まであと少し。グーグルマップで野宿に適した場所を見つけていた。あまり褒められた行為ではないので場所は明かせない。
大杉谷に到着したのは、夕方の17時前。日没は17時。今は明るいが、もう間もなく暗闇になる。幸いなことに雨は止んでいた。予報では19時ごろに雨が上がることになっていたので、これは嬉しい。明るい内に、野宿の準備を始めることにした。