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酢豚とビールとランニング

 冷蔵庫から豚ロースの塊を取り出した。国語辞典くらいある大きな塊だ。白い脂の部分と赤身がきれいに分かれている。まな板の上に白い部分を上にして置いた。包丁を手に取り、指一本くらいの厚さに切っていく。白い脂身が少し硬い。包丁を滑らせて硬い脂身を通過すると急に抵抗感がなくなり、ストンと包丁が肉を切り落とす。


 一枚二枚三枚、どれだけ用意しようか……。一人一枚づつだと、嫁さんと僕と息子たち三人だから五枚になる。でも、それではきっと足りない。五枚六枚七枚、少し多いかもしれないけれど足らないよりは良いだろう。スライスした豚ロースを、今度は包丁の背を使って一枚づつ丁寧に叩いていく。


 ゴンゴンゴンゴンゴンゴン。


 調理した後の柔らかい食感をイメージして、更に叩く。


 ゴンゴンゴンゴンゴンゴン。


 叩いて叩いてペチャンコになった豚ロースに、塩コショウを振りかけていく。裏も表もまんべんなく。今回はトンカツではない。酢豚になる。まな板の上にペチャンコ豚ロースをのせて、今度は細く短冊に切っていった。切ったそばからステンレスのボールに入れていく。山盛りの豚の短冊が出来てしまった。ちょっと多かったかもしれない。そのボールの中に、大蒜のすりおろし、生姜のすりおろし、酒、みりんを入れてサックリと混ぜる。ラップをかけた。このまま放置しておく。


 次に、ざく切りにした人参をフライパンで炒める。スライスした玉ねぎもフライパンで炒める。カレーならきつね色になるまで炒めるけれど、今回は食感を残したいので火を通すだけ。ピーマンはなかったので今回は入れない。炒めた野菜はこのまま放置。


 次に、具材が多いのでそれに見合った鍋を用意する。加熱した鍋に油を引いて砂糖を入れる。ポイントは、砂糖に火を通してカラメルにすること。これでコクと深みが生まれる。酒、醤油、水を入れた後、酢を入れる。酢の分量は重要だ。味見をしながら調整をする。また酢は少しお高いものを使ったほうが美味しい。仕上がりの風味が断然違う。最後に片栗粉を溶いてトロミをつける。味見をした。うん、甘くて酸っぱい。


 炒めた野菜は、鍋の中の甘酢餡の中に入れてしまって蓋をした。エプロンの結びを解いて台所にあるフックに引っ掛ける。着ていた服も脱いでいきランニングシャツと半パンに着替えた。これからランニングに出かける。摂津にある自宅から出発して、1970年に万博が開催された千里丘陵を登っていき、万博の外周をグルッと回って帰ってくるいつものランニングコースだ。距離にして12kmある。夏の初めにランニングを再開したころは、走り終えるのに2時間もかかっていた。壁に掛かっている時計を見る。夕方の17時。18時30分頃には帰ってこれるだろう。


 玄関でランニングシューズをはいた後、サポーターを手に取った。左膝に巻き付ける。若い頃にスクーターの事故で皿を割ってしまった。それ以来、膝に水が溜まりやすくなっている。サポーターの保護がないと故障してしまうのだ。家の前で軽く準備体操をした後、スマホを手に取る。まず、音楽アプリを立ち上げた。イヤホンから音楽が流れるのを確認してから、次にランニングアプリを立ち上げる。スタートボタンを押すと、カウントが始まった。3,2,1、スタート。


 40代の頃は、毎年フルマラソンに参加していた。コロナの影響から大会が開催されなくなり、それに合わせるようにして僕も走らなくなったけれど、また走ることにした。きっかけは昨年の健康診断だった。血中コレステロールや血圧の上昇を指摘される。そう言えば、走らなくなってから体重も増えていた。50代になってから体の衰えも感じはじめていたので、ランニングを再開してみたが昨年は膝に水が溜まってしまい断念した。今年の健康診断でまた同じ指摘を受けたので、サポーターを巻いて走ることにした。今のところ故障はしていない。


 健康の為に再開したランニングだが、今は別の目的で走っている。大杉谷から大台ヶ原まで登るためだ。往復33kmの山道を歩くのだから、それなりに足を作っておく必要がある。マラソンのように走るわけではないけれど、山道の33kmだ。フルマラソンを完走するくらいの準備は必要だろう。ただ、現段階では全然走り足りていない。9月の初頭に大台ヶ原を17km歩いてみたが、足への負担はかなり大きかった。今のままでは歩き通すことが出来ない。


 大台ヶ原に再度挑戦する日程についてだが、少し悩んでいた。9月の連休にでも早速行きたいという気持ちはある。しかし、時間がなさ過ぎてそれまでに足を作ることが出来ない。次と言えば、10月の連休になる。丁度良いかもしれない。


 しかし、それにしても暑い。走っていると額から汗が滝のように流れてくる。ウェストポーチに差し込んでいる水が入ったペットボトルを手に取った。一口飲む。飲んでみてから驚いた。500mlのペットボトルにもう半分しか水が残っていなかった。そう言えば、あまりにも喉が渇くので考えなしに飲んでいた。普段のランニングであれば500mlの水があれば十分に足りていたはず。原因は、気温が暑すぎるのだ。それに今日に限って、走る前に水分補給をしておくのを忘れていた。


 万博の外周はちょうど5kmある。現在は丘陵を登り切り外周を1kmほど走ったところ。このまま走った場合、確実に水を飲み切ってしまう。お金を持ってきていないので自販機は使えない。水分の補給なしで走り続けるのは危険だ。大きく息を吸う。足を止めた。踵を返して来た道を戻ることにする。


 何をしているんだろう。ランニングした後に美味しくビールを飲む準備をしてきたのに、この有り様。気ばっかりが急いていて空回りしているような自分を感じた。自宅に帰り着くと、風呂に直行する。汗を流すことよりも重要なのは、膝を冷やすこと。水冷シャワーをかけ続ける。


 風呂から上がり下着を身に着けると、またエプロンを巻いた。サラダ油を入れた天ぷら鍋を火にかける。そして冷蔵庫からビールを取り出した。あまりにも暑すぎて喉が渇き切ったところに、ビールを流し込む。


「美味い」


 全身にビールが巡っていくような心地よさ。やっぱりビールはやめられない。一缶を全部飲み切ってしまう。豚肉の短冊が入ったボールに片栗粉をドサッと入れて混ぜる合わせる。肉に片栗粉をギュッギュと押し付けた。天ぷら油の温度を確かめる。頃合いは良さそうだ。両手で豚肉の短冊をつまみ上げると、ヒョイッ、ヒョイッと放り込んでいく。また冷蔵庫からビールを取り出した。飲みながら豚の揚がり加減を確かめる。もう良さそうだ。天ぷら鍋から次々と仕上がった豚を取り出して、次の豚を投入していく。酢豚の甘酢餡と合わせる前に、揚げたての豚を口にする。そんでもってビールを飲む。


「美味い」


 このままでも十分に美味しいが、揚がった豚の短冊を餡の中に投入する。サックりと混ぜ合わせた。甘酢餡が絡まった豚の短冊を口にする。噛みしめた。大蒜や生姜と融合した豚の肉汁に、甘酢餡が絡み合う。カラメルの香ばしい甘味が後から追いかけるようにして口の中に広がった。目をつぶって、豚肉を何度も噛みしめる。


「ああ美味い」


 幸せな心持のまま、またビールを飲む。キッチンドリンカー。全ての豚肉を揚げ切って、甘酢餡と合わせてしまう。鍋の中はいっぱいだ。最高に美味しい酢豚が出来上がったと思う。その鍋を、ダイニングテーブルの中央に置いた。今夜のメインディッシュ。多く作りすぎたような気もするが、もしかすると足りないかもしれない。大学2回生の長男と、高校3年生の次男と、中学2年の末っ子。食べ盛りの子供たちが相手だ。階段の下から、2階の子供部屋に向かって大きな声で呼びかけた。


「ご飯が出来たよ」


 返事がない。末っ子がいるはずだが、ヘッドフォンをつけてFPSのゲームでもしているのだろう。そのままにしておいた。長男は夜のアルバイトに行っているし、次男はまだ高校から帰ってきていない。嫁さんが帰ってくるのは夜中になるだろう。ひとりテーブルに着く。


 昔はこのダイニングテーブルを家族全員が囲んで、晩御飯を楽しんだものだった。ワイワイガヤガヤと、子供たちの話を聞いていたような気がする。そんな晩餐がなされなくなってもう3年になる。切っ掛けは、長男の不登校に対して、僕が口汚く怒鳴ったからだ。あの時は酒も入っていた。正しいと思い叱ったけれど、思い返せばただの自己満足だったと思う。あれ以来、長男は僕を避けるようになった。僕に対して目を合わせない。口も利かない。長男はダイニングテーブルから離れて子供部屋で食事を摂るようになった。弟たちもそれに倣うようになる。


 嫁さんは義弟のクリーニングの仕事を手伝っているのだが、いつも帰るのが遅い。酷いときは日付が変わってから帰宅する。仕事について嫁さんと何度か衝突したが、今は現状を受け入れることにしている。嫁さんを追い詰めていることを理解したからだ。関係は良好だが、物理的制約がそれを許さない。


 酢豚をアテにして、ビールを飲む。独りであることに慣れはしたが……。

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