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五月のある晴れた日のように

 東の空がオレンジ色に染まり始めた頃に白馬周辺に到着することが出来た。道路沿いに白い照明の光を見つける。見慣れたコンビニエンスストアだ。誘われるようにして車を乗り入れる。昨晩は食事を摂っていなかったけれど、食欲はなかった。眠気と戦うためにブラックのコーヒーを飲みすぎたからからだと思う。一晩中、ガムを噛み続けてきたせいで顎が痛い。なんだか吐き気がした。コンビニのトイレを借りた後、冷たいお茶だけを購入する。車に戻りお茶を飲むと、少し落ち着いた。


 叔父さん達と、朝の11時ごろに信濃大町駅で落ち合う段取りになっている。今からだと5時間くらいは寝ることが出来そうだ。棺桶があるのでシートを倒すことが出来ないけれど、それは仕方がない。とにかく酷く疲れていた。両腕を組んで目を瞑ると、グワングワンと目が回る。とても眠たいはずなのにコーヒーのカフェインのせいか、なかなか寝付けなかった。足を伸ばしたりフロントに載せたりと、楽な姿勢を探していたら、いつの間にか寝てしまった。


 目が覚める。外は明るくなっていた。体中がギクシャクして痛い。車から降りて、両手を振り上げて伸びをした。大きく深呼吸する。空気が透き通っていた。とても清々しい気分になる。目の前には、北アルプスの山々が南北に連なっていた。青い空の下、白い雪で化粧された稜線が浮かび上がって見える。それにしても、なんという大きさだろうか。大阪で見る北摂の山とはそのスケールが違っていた。天に届きそうなその威容にただ圧倒されてしまう。この地球が大きな星であることを、僕は知っている。この空が無限の広がりの宇宙であることも、僕は知っている。でも、それは知識として知っているだけで、その大きさを実際に感じれる機会は少ない。でも、目の前に見えるアルプス山脈は厳然として存在していた。その大きさを感じることが出来る。遥かに大きなものと、小さな自分。その相対的な大きさの違いに、固唾をのんでしまう。この白馬に浩ちゃんを迎えに来ていることも忘れて、その厳かで美しい景色に目を奪われた。呆然と立ち尽くしてしまう。


 僕たちはこの世界に生まれた時から、自分という存在をこの世界と切り分けて考えてきた。自分と母親、自分と父親、自分と兄弟、自分と友達、自分と先生、自分と恋人、自分と家族、自分と会社、自分と世間、自分と世界……。でも、そうした分ける行為は、自分をより矮小な存在として認めていくことに他ならない。分ければ分けるほどに、孤独になっていく。現代社会は、そのような個人主義をことさら推し進めてきた節がある。そうした個人主義の世界では競争がデフォルトである。受験戦争、市場経済、様々なコンテスト。それぞれのステージにおいて、他者よりも勝ることが人生の目的であるかのように、僕たちは煽られている。勝者は、ヒエラルキーの頂点に立ちその他大勢を従えてることが出来た。


 若い頃にカフェを経営していた時に考えていたことがある、このカフェとは誰のものなのかということを。単純にオーナーである僕のものと断ずることは出来るが、僕一人だけでは運営は出来ない。スタッフの協力がどうしても必要になる。なら僕とスタッフのものなのかというと、それも早計だ。お客さまが来店されないと商売にならないからだ。カフェにはお得意様が多数来店されていて、まるで自分の部屋のように寛いでもらっていた。そうした景色を見ながら、オーナーとスタッフとお客様という三つの要因の調和こそが、このカフェを形づくっていると感じた。


 この世界も同じだと思う。矮小な存在に感じるかもしれない僕だが、そうした小さなピースが集まってこの世界は形づくられている。実は、僕はこの世界の一部だったのだ。僕だけでなく、あの人もこの人も、アルプスの山々も空に浮かぶ白い雲も、全てが等しくこの世界を構成しているピースであり、それぞれがそれぞれの役割を全うしている。そんな当たり前のことが、とても素晴らしいことのように思えた。この世界に、感謝したいような気持にさせられる。北アルプスの山を見上げながら、僕は鼻息を荒くした。


 そろそろ時間になった。食べ終えた弁当の容器をコンビニのゴミ箱に捨てる。車に乗り込みエンジンをかけた。アクセルを踏んで、JR信濃大町駅に向かう。信濃大町駅は、茶色い木目の壁が印象的な平屋の駅舎だった。駅舎の左手に茶色いポストの様なものを見つける。登山届提出箱と書いてあった。この駅が、北アルプスを目指す登山家たちの拠点だということを知る。列車が到着した。改札口から人々が吐き出されていく。それらの人の波に、叔父さんと叔母さんと従妹のいづみちゃんを見つけた。手を上げて、僕は駆け寄っていく。


「お疲れ様です。遠かったでしょう。いづみちゃんも来られたんですね」


 小柄な叔母さんが、僕を見上げた。キリッと僕を見つめる。叔母さんは厳格な人だ。息子が亡くなったというのに、取り乱した様子は見せない。僕に会釈してくれる。


「ありがとうね、ヒロちゃん。こんなに遠くまで。いづみはね、北海道から飛行機でやってきたの」


 僕は、いづみちゃんに頭を下げる。彼女も嬉しそうに会釈してくれた。実は、いづみちゃんもお兄ちゃんと一緒で耳が聞こえない。でも、彼女はそうしたハンデに負けていない。いつも周りに笑顔を振りまいてくれる強い人だ。久しぶりの再会に喜び合い、お互いの近況を確認し合う。叔父さんが、近寄ってきた。


「こんなところまで、すまなかったね。疲れたでしょう」


「いえ、いいんですよ。小さなころから仲が良かったし、僕の務めだと思っています」


「本当にありがとう。では、行きましょうか」


 僕は、眉を寄せる。 


「僕の車に乗ってもらいたいのですが、棺桶が入っているので座れないんです」


 叔父さんが、頸を振る。


「私たちは、タクシーで行くからいいよ」


「今から、どちらに向かえばいいんですか?」


「大町警察署に浩一郎はいるそうだ。ヒロ君は、タクシーの後から付いて来てくれるかい」


「はい、分かりました」


 大町警察署は、駅からそう遠くないところにあった。駐車場に車を停める。タクシーから降りてきた叔父さんたちを引率するようにして、警察署の玄関をくぐった。カウンターで要件を告げると、僕たちは応接室に通される。ソファーに座って待っていると、程なくして制服を着た警官が入ってきた。腰を上げて、一礼する。警察に対してどこか近寄りがたいイメージを持っていたが、その男は人懐っこい笑顔を僕たちに見せた。


「まあまあ、そんな畏まらずに。どうぞ座ってください」


 小太りのその警官は、大きな声でよくしゃべる人だった。書類を広げて、今回の滑落事故に関する概要を僕たちに説明してくれる。今回の浩ちゃんの登山は、標高2932mの白馬岳から、標高2814mの五龍岳までの縦走コースだった。この道のりは、かなり体力が必要なルートであることを熱っぽく語ってくれる。地図を見せてもらったが、二泊三日で30km以上もの山道を歩かなければならなかった。五龍岳を登頂した後、彼は遠見尾根を伝って下山に向かう。遠見尾根は道幅が1mもない上に、雪が残っていて滑りやすい。風が吹くと立っていられないそうだ。


「雪が解け始める5月は上級者でも危険なんですよ。それに登山届からみるに、月曜日に会社に行くために、かなり無理をしたんでしょうな~。重い荷物を背負って下山する頃には、もう踏ん張りがきかなかったのかもしれん」


 浩ちゃんは、この遠見尾根から滑落した。落差は50mもあったそうで、ヘリコプターで引き上げられる。警官の話を聞きながら、浩ちゃんのこれまでの経歴を振り返った。昨年から、何かに取り付かれたように山に登っていた。しかも、難しい山ばかり。二度も滑落事故を起こしていたのに、それでも山登りを止めなかった。これは起こるべくして起きた事故だと思う。


「では、会いに行きましょうか」


 警官に促されて、僕たちは席を立った。部屋を出て右に進むと、コンクリートが剝き出しの、大きな倉庫のような場所にやってくる。その真ん中に、浩ちゃんが安置されていた。叔父さんと叔母さん、それにいづみちゃんと僕が、彼を取り囲む。それまで毅然とした態度を崩さなかった叔母さんが、浩ちゃんに走り寄った。膝を崩し息子を抱きしめると、声をあげて泣き出した。「親より早く死ぬなんて」と何度も叫んだ。そんな叔母さんを労わるようにして、いづみちゃんが抱きしめる。


 僕も涙を止めることが出来なかった。浩ちゃんの顔を覗き込む。50mの高さから滑落したというのに顔が綺麗だった。まるで眠っているようだ。とても悲しい出来事のはずなのに、僕は浩ちゃんのことを誇らしく感じていた。彼は若くして亡くなった。親を悲しませている。また、捜索隊を出動させて現地の方々に迷惑をかけてしまった。確かにその通りなのだが、彼の生きてきた人生を、だからといって否定することはできない。電話口で叔父さんから話を聞いたときは、浩ちゃんを叱り飛ばしたいような気持になっていたが、今は違う。


 人間は、誰しもが必ず死ぬ。この理から逃れることは出来ない。死は、悪でもないし、忌むべきものでもない。受け入れるべき変化の一つなのだと思う。であるならば、どのような心持で死を迎えるのかということが、とても重要だ。死を考えるということは、生き方を考えることに他ならない。僕は、昔読んだ物語を思い出していた。フランス革命に生きた詩人、アンドレア・シェニエの物語。


 ルイ16世が断頭台に送られた後、政治はロベスピエールが率いる革命政府に掌握される。革命政府は、王党派の人間を見つけると次々と処刑していった。その数2万人。後に恐怖政治と呼ばれたこの時代に、革命政府を糾弾したのがアンドレア・シェニエだった。しかし、革命政府が倒れる直前に、彼は断頭台に送られる。自分の死と引き換えにして、彼が詩を読んだ。


 風が優しく吹き抜け

 太陽の光がなでるように

 大空へと消えて行く

 晴れわたる五月の日のように

 韻律の口づけと

 詩行の愛撫と共に

 私は人生の頂上へと

 登っていく


 全ての人類の運命のために

 廻り続ける星は

 私を今、死の時へと

 近づける

 そしておそらく私の最後の詩行が完成する前に

 処刑人が我が人生の終わりを告げるだろう


 詩よ、最後の女神たれ!

 お前の詩人にふたたび

 輝く霊感と

 絶えぬ炎をもたらし給え

 私はお前が生き生きと心からほとばしる限り

 韻律に乗せ死にゆく男の凍てつく魂を捧げよう

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