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無名の剣豪  作者: 箱好鐘
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ただの呑兵衛


「結局、あいつは来ないか。それもそうか」



 大地は呆れながらもどこか納得そうに呟いた。屋敷に戻って数日しか経ってないとはいえ、武人を紹介する刻限は迫っていた。



「大地。それは誰のこと?」


「あ、いえ。天卯お嬢様には関係の──」


「言って」



 大地は天卯に逆らうことはできなかった。渋々、事のあらましを天卯に話すと、天卯は呆れながらもこう答えた。



「片腕の武人とは……。お兄さまも困ったものですね」



 そう言うと天卯は立ち去ってしまった。その後、大地はふと昔の天卯を思い出したかのようにこう呟いた。



「それにしても、お美しくなられましたな」



 卯柳家の大半は黒髪黒目である中、天卯だけは違った。雪のように白い髪は簪でまとめられ、着物は鮮やかな薄桃色で統一されている。赤い目はぱっちりと大きく、容姿端麗な天卯は、まさに絵に描いたような美少女である。ある一説では、黒髪黒目が大半である卯柳の家系とあまりにも似つかわしくないため、兎の家紋を引き継いだ卯柳の先祖帰りとも噂されている。そんな天卯だが、歳は十六と若く、縁談の話がちらほらと舞い込んでいた。



「馬鹿なお兄さま。卯柳家は未沢家の宴会にすら辿り着くこともできません。どうせ今日の武人紹介の場で襲撃を受けるでしょう」



 天卯はそう思いながら庭を歩いた。庭の中央にある池には鯉が泳いでおり、餌を求めて水面から僅かに顔を覗かせる様があった。しかしそれを見たところで何も変わりはしないのだ。



「はぁ〜」


 そうため息をつきながら歩いていると足元に何かが当たった音がした。それはただの石であったが、何もできぬもどかしさと歯痒さに嫌気が差した天卯にとっては、石ではなく八つ当たりの道具でしかなかった。


「もうっ!!」



 そう言いながら、お洒落に飾られた畳草鞋で小石を蹴っ飛ばすと、それは弧を描きながら、とある武人に向かって飛んでいった。


「ふむ」


 その武人は右手を顎に当てて、何かを考えていたかのようであったが、天卯の八つ当たりにも近い小石を、まるで虫を払いのけるように軽く手の甲で弾き飛ばした。


「なっ! あ、貴方は誰ですか!」


 天卯は苛立ちを隠せず、先程よりも大きな声で怒鳴りつけるように言った。しかし武人はそれを意に介さずとでも言いたげにこう答えた。


「私は権兵衛です」


 その言葉を聞いた瞬間、天卯は言葉を失った。目の前に立つ男がつい先ほど聞いていた片腕だったことに驚いたわけではない。


 一丁前に笠を被ってはいるものの、そこから見える男の黒い瞳には、生気などというものは感じられず、その死人のような目も見て見ぬ振りをした。


 手入れのされていない無精髭に伸びほうけた黒い髪のことなどどうだってよかった。


 それよりも──


「──どうして一介の武人が、誰の許可なく卯柳家の敷居を跨いでいらっしゃるのですか?」


 天卯は内心、この男の不気味さに怯えながらそう聞いた。そんな天卯を見てか、権兵衛が口を開いた。


「どうしてと言われましても、門の前に立つ人にコレを見せれば、快く通してくれましたが」


「それはッ!」


 権兵衛はそう言うと懐から兎の柄が刻まれた簪を取り出した。それは真心が渡した卯柳の家宝でもあった。


「まさか、片腕の……それも、到底武士とは言えない浮浪人に!!」


「浮浪人とは。中々に手厳しいものです」



 天卯は苛立ちを隠せずにいたが、それでも冷静さは保っていた。そしてこう言った。



「その簪は私が受け取ります」


「それは出来ませぬ。貴方が誰であろうとも、これはあるお兄さんから譲り受けたものです」


「貴方は私を馬鹿にしているのですか! 私は真心お兄さまの妹ですが!」



 天卯は怒りを剥き出しにしながらそう言い放った。しかし権兵衛はそんなことは意に介さず、笠の下、口から洩れる言葉にだけ耳を貸していた。



「私はしがない人間ですが、これでも武人の端くれ。この簪は私が真心殿に託されたもの。渡すことは出来ませぬ」


「いいです。無理やり奪います」


「お転婆も程々に」



 その言葉と同時に、天卯は簪を奪い取りに権兵衛の懐に飛び込んだ。しかし、そこは片腕の武人。腕があろうとなかろうと、武の字もない素人に簪など簡単に奪い取らせることはなかった。


「このッ!」


 簪を奪おうと躍起になる天卯に対して権兵衛はただ一言こう言っただけだった。


「お嬢さんはお嬢さんのお務めがございます」


 天卯はその言葉を聞くと、悔しさのあまり、声を荒らげてこう言った。


「貴方のような浮浪人にッ! 武士は務まりません」


「ええ、私もそう思います」


「では何故ッ! 何故、お兄様はこんな下賤の者をッ!」


「それを私に言われても困ります」


「ふん……。ついてきなさい」



 その言葉を聞いた権兵衛は、「どこへ?」と聞くわけでもなく、ただ天卯の背中を追うように歩き始めた。


「着いたわ」


 そうして連れてこられたのは、屋敷の中で一際目立つ部屋で、それなりに格式の高い部屋であるのは間違いなかった。その部屋の襖を開けた瞬間、権兵衛には懐かしい畳の匂いが鼻を掠めた。


「この部屋は?」


 そう聞くと天卯が不機嫌そうにこう答えた。


「お兄さまの部屋です。その簪と身なりから貴方は武人ではなく客人だと判断致しました。今日はこの部屋から出ないでください」


「それは構いませぬが、一つ頂きたいものがあります」


「なにかしら?」


 天卯は不機嫌そうにそう言った。しかし権兵衛はそんなことも気にせず、平然とした様子でこう言った。


「酒はありませんか?」


「ッ!!」


 天卯は権兵衛のその言葉を聞くや否や、まるで恥をかかされた子供のように顔を真っ赤にしていた。そして、その怒りをどこにぶつけていいのか分からぬままにこう言った。



「貴方も武人の端くれなら恥を知りなさい。真心お兄様の紹介だから、せめて客人として招き入れましたのに……。貴方のような無礼者をどうして私がもてなさねばならないのでしょう!」



 天卯はそう言うと襖を勢いよく閉めた。すると、部屋の中には静寂が流れ始めたが、それは決して、権兵衛にとって嫌な雰囲気ではなかった。




「私のような者が武人を名乗る資格もないことは承知の上です」



 その言葉は、誰にも聞こえない声で、ただ誰に対して言うわけでもなく呟いていた。



「広さ三十畳。松の梁まで十尺。檜の柱は三.五寸角。横の長さは四間。うち右側最奥の柱まで二間。間隔は柱が一間。間柱一.五尺。天井垂木は一尺。床下は土。床束は無垢の丸太。大引きは三尺毎に。根太は一尺。庭の砂利音が五十歩。木の上の鳥の囀りまで直線七十二歩。隙間風……庭の風は煙が靡く程度の強さ。日差しは正午。一番近い足音は大柄な男性。襖まで三歩、ニ歩、一歩……」



 建具の隙間から吹き込む小さな風も。


 窓から差し込む光の強さも。


 壁に立てかけられた木刀の重さも。


 季節によって変わる畳の軋みも。


 その全てが権兵衛にとっては新鮮であり、目に映るものも映らないものも全てが緊急時の情報源として脳に焼き付けた。


 そして──


「結局、来たのか」


 襖から顔を覗かせた大地は、つまらなさそうにそう呟いた。


「男の鎮圧まで一秒。首を刎ねるまで……」


「おい、あんた一体何をもごもご言ってるんだ?」


「ッ!」


 大地の声が聞こえた瞬間、権兵衛は正気に戻った。そして目の前に立つ男の顔を見てこう思った。


「酒をくれ」


「邂逅一番に言う台詞がそれか?」


「情報量が多すぎて脳が焼き切れてしまう」


「とんだ言い訳を考えるもんだ。情報一つとありゃあしないじゃないか。いやお嬢様は確かお怒りになられてたな。その情報か? まあ、お嬢様は普段温厚だし、どうせあんたがなんかしたんだろうが」


 大地はそう言って、手に持っていた一升瓶を権兵衛に投げつけた。


「それで我慢してくれ」


「恩にきる」



 権兵衛はそう言うと受け取った一升瓶の栓を抜き、それをラッパ飲みのように飲み始めた。そんな権兵衛を見て大地はこう思った。



──ただの呑兵衛にしか見えないが……。



「あまり呑みすぎるなよ。今日の夜は未沢家の宴会前に集う武人紹介の場があるからな」



 大地はそう言って部屋から立ち去った。その背に「ああ」とだけ答え、権兵衛は一升瓶の酒を飲み干した。




「情報に呑まれるよりか、酒に酔った方が幾分かましであろう」




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