全てはここから始まった
ついに観念の尾が切れてしまったのか、今まで諦観に徹していた大地が答えた。
「片腕のない武人に何をしろと言うのです? まさか武士として雇うというのですか?」
「そのまさかだ」
「ありえません! 落武者を、それも障害を負った武人を雇うなど、商家の格として許されるはずがありません!」
「我が家は堕ちるところまでもう堕ちた。見栄を張るくらいならば、敵に油断を招いた方がまだましだ! そもそも見仕舞いを飾る余裕すらないのだ」
「真心様!」
「大地、今だけは静かにしておくれ」
大地が止めようとするが、真心は言葉を止めようとはしなかった。だが、そんな主人をなだめるように権兵衛はこう言った。
「……つまり、私は他家に、商家の人に、そして貴殿の家族すらに、笑われにいけと言うのですか?」
それは突き放すような言葉だったが、それでも真心は諦めることなくこう言った。
「それでも、僕は其方の力が欲しい」
権兵衛はその言葉を聞くと、ただ一言こう答えた。
「お兄さん。いえ、真心殿。貴殿は何一つ理解していません」
権兵衛は焼けた肉を真心の目の前に置いた。その肉は綺麗に焼かれ、それでいて鼻腔を刺激される香ばしい匂いをしていた。
「私がいつ助けを望みましたか? こうまでして生きる理由も、生きたい理由もないのです」
「ならばその理由を作るために僕がいる」
「私はただ生きるのが辛いだけなのです」
「其方は辛いと言いながらも必死に生きているではないか」
「私はただの酒が好きな人間です。この瓢箪の中身も、山で取れた葡萄を醗酵させた果実酒みたいなものです」
「うちなら酒を頼めばきっとそれよりもいいものをくれるだろう」
「違います。酒に頼るだらしのない人間だということです。そんな不甲斐ない私を──」
「──知っている。全て知っている。自分を悪く見せているということも。片腕ながら並の実力があるということも!」
真心は今まで誰にも見せたことのない、鬼気迫る表情でそう言った。
「真心殿。ならば私はこういいましょう」
権兵衛は一旦言葉を切ると、肉を一口食べ、酒を一口飲んだ。そしてこう言ったのだ。
「そもそも私が高名な武人ならば、顔を見れば誰か分かるでしょう。弱肉強食の世ですから、強い者はすぐ名を残します」
「その中でも顔を見せない者だっている。仮面をつけて動く者だっている」
「真心様は実力を見せたこともない私を過大評価しすぎです。謙遜も度が過ぎると、嫌みになります」
「過大評価でも謙遜でもない。僕を誰だと思っている。過去に栄華を決めた卯柳家の真心だ。それくらいの識別はしている」
「では、真心様の誘いを断るのに何が足りないと仰るのですか」
「それは其方の中身だ! 全て失ったように言っているがそうではない! 今を生きるのに必死で気づけていないだけなのだ!」
「では、貴殿は私に何を求めているのですか! 敵を殺すのですか? 誰かを守るのですか? それは一生なのですか? それとも一日だけですか!」
権兵衛は珍しく大声を出していた。それは怒りにも似た感情だった。真心はそれでも引かなかった。引けるわけがなかった。ここで引いてしまったら今まで信じてきたものが崩れてしまう気がしたからだ。
「其方が気付くまでだ」
「何を──」
「──足りなかったモノを」
真心はそう言うと、静かに立ち上がった。
「どうしても私の申し出に首を縦に振りたくないのならば、一夜だけでいい。たった一夜だけ、父と妹を護ってはくれないだろうか? その他には何も要求しないと誓おう」
「何故そこまでするのですか?」
権兵衛はそう聞いた。真心はただ一言こう答えた。
「人は──運命に立ち向かう者だからだ」
そして、真心は手を差し伸べた。それは主従関係を結ぶ手ではなく、握手を求める手だった。権兵衛は差し出された手をジッと見つめると、肉を頬張りこう言ったのだ。
「肉が冷えます」
そう答えただけだった。真心は差し出した手を引っ込めると、どこか笑みの混じった声で、こう返した。
「これには卯柳の地図と、家紋が彫られた簪がある。その簪を持っていれば巳堂の客人として、丁重に扱われるはずだ。何かあれば遠慮なく使いなさい」
「真心様! それはッ!!」
「大地。いいんだ。これも全て僕が責任を取る」
そう言って真心は、卯柳を表す兎が彫られた簪と地図を権兵衛に渡した。それを静かに受け取った権兵衛はそれを懐にしまうと、一言だけこう言った。
「私は行くとは一言も申しておりません」
「そうだな──」
──でも、君は来るだろう。
真心は全て見抜いていた。そもそもの話、卯柳の元当主が生涯において認めた武人『ムメイ』と、親しい時点でおかしな話である。何せ真心の父親は言っていた。『ムメイ』は偽名であり、かなりの実力者だと。少なからず身分を隠さなければならない武人であるのに、その者と繋がっている時点で権兵衛もまた、相当な実力者である。
それは真心にとって一つの仮説があった。
──権兵衛は、ムメイの代弁者かもしれない。
──あるいは、権兵衛が『ムメイ』なのかもしれない。
しかし、そこまで予測することはできても確信までには至らない。だから真心はこう言ったのだ。
「確かに『ムメイ』として死んだのなら分かる。もしかしたら他の名前で今は生きているかもしれないな」
真心のその言葉に、権兵衛は一瞬だけ動揺したように見えたが、すぐにいつもの様子に戻っていた。
だが、真心にはなんとなく分かっていた。そこまで考えたところで、真心は思考をやめたのだ。真実なんて分からないし、何より本人が否定しているのだからそれ以上は考える必要がないと思ったのだ。ただ一つだけ言えることがあるとすれば──。
──権兵衛殿ならばきっと上手くいく。
真心はそう確信していた。
なぜなら──
──父上の申していた直感が、五歳の時に抱いた信じる道が、そして今、鳴り止まない鼓動が、この武人こそが自分が選ぶ生涯唯一の相棒だと告げている。
「酒でも飲みながら語らえたら良かったのだが」
その言葉は真心が意識した言葉ではなく、自然と口からこぼれたものだった。しかし、そんなことは真心には分からないし、理解しようとも思わないだろう。それは一種の信頼であると同時に、ある種の無関心でもあった。
「僕は少しの間、卯柳を離れる。大地は先に権兵衛と盃をあげといてくれ」
「何を言いますか! 私も真心様について行きます!」
「ここからは僕一人の方が動きやすい。大地は先に帰りなさい」
「真心様……」
大地は悲しそうな目で真心を見つめた。今、自分が何を言っても主人は止まらないと察したのだ。だから大地はこう言った。
「何があっても必ず帰ってきてくださいね」
その言葉を聞いた真心は力強く頷き、こう言った。
「では私はいくが、権兵衛には一人の時間が必要だろう。大地も先に出なさい」
その言葉を聞いた後、大地は立ち上がり一礼した後、その場から姿を消した。そしてこの場には権兵衛と真心の二人しかいなかった。それは何かを話すにはちょうどいい空間だった。
「さて、私もそろそろ行くとしよう」
そう言って立ち去ろうとする真心を見て、権兵衛がこう言った。
「私の剣はとうに折れてしまいました。今は牙のない野良人です」
「それでもいいんじゃなかろうか?」
そう言って真心は、権兵衛の方に振り返りこう言った。
「爪を研がなくとも、牙から守る鞘があるだろう?」