卯柳勝指揮
卯柳勝指揮はまさに天才と呼ぶにふさわしい人物であった。彼の生まれはしがない百姓でありながらも、一代で富を築き上げた希代の豪商であったからだ。
幼い頃から、各地を旅する彼は旅先で出会った人々と取引をして、物の価値と交渉の術を学んでいった。やがて才能が開花した頃、故郷の村に戻るとそこを中心として商業組合を設立し、全国津々浦々にその名を轟かせるまでに至ったのだ。
そんな折、彼はとある噂を耳にしたのだ。それが当時、悪道災悪と言われた『月蝕会』と帝最強の機関『玉影』との戦が始まると。
この出来事こそが卯柳家の転落の始まりである。商人にとって戦争とは金儲けの絶好の機会である。
故に、その情報を耳にしてからの商人たちの行動は実に迅速であった。自らの資産を惜しみなく使い、多くの武具をかき集めた。しかし卯柳家は違った。
「琵琶は戦場になります。湖岸に住む全ての人々に危害が及ぶことはないでしょうが、もしかしたらがあります。湖岸に住む全員を一箇所に集めることは可能でしょうか?」
そう言葉にしたのは月模様の仮面を被り、全身を黒装束で包み込んだ一人の武人だった。その姿はまるで死神のようだったが、同時に不思議な魅力を持っていたのも事実だった。そんな彼を見た勝指揮は思わず見惚れてしまっていたほどなのだから。そしてその異様な姿に気圧されながらも、なんとか言葉を返すことができたのは流石と言えるだろう。
「どうして私を頼るのだ?」
「世に疎いものですから、私にも分かりません。しかし貴方が名のある商人だと言伝に聞いております」
「ならば私の名前はわかるのか?」
「失礼ですが、お名前は存じ上げません。私はあくまでも武人ですから」
その言葉に嘘はないように思えた。そもそもそのような者でなければ、この場に来ることもなかっただろうから。つまり彼が言っている言葉は真実なのだ。ならば何故わざわざこのようなことを頼むのか。勝指揮はそのことが気にかかったゆえ、直接尋ねることにした。
「おかしいとは思わないか? 過去に戦場になるからといって、そこに住まう人々を避難させたことはあっただろうか? たとえ戦時中だとしても、住居を持つ百姓たちは決してその場から離れなかったはずだ。戦を起こした武人たちも避難勧告を出さずに、それを利用していたくらいに。村を囮に使うなど日常茶飯事で、米や茶や酒を強奪することも珍しくはなかったはず。挙げ句の果てには女を攫って慰みものにもする始末。それなのになぜ君だけはそのことを気にする? 」
勝指揮はそう言って、外に広がる景色を見つめながら振り返った。琵琶湖が一望できる山にいるため、そこには一面青に覆われた湖が広がり、遠くの方に小さく町が見えるだけだった。ここら一帯には田畑と農村しかないため、どこを見渡してもあるのは自然の風景ばかりなのである。もちろんその中には多くの人々がいるのだが、決して裕福とは言えない者たちばかりで、日々の生活ですら苦しい思いをしているのだ。
彼らは皆、自分たちが貧しいことを理解し、文句の一つも言うことなく毎日を送っているのだった。そんな風景を見ながら、武人は言ったのだった。
「確かにおっしゃる通りです。私が知っている戦はそういったものです。武人の大半の者たちは民草のことを顧みない自己中心的な輩ばかりです。文官すらも例外ではありません。自らの地位を守るために、時には人を騙し、貶め、殺すこともあるのです。しかし貴方様は違います。私にはわかります。貴方は人の痛みを知ることのできるお方だ。だから貴方は琵琶を一望できるこの場所にいるのではありませんか? 民の生活を案じるがゆえに、ここで見守っているのでしょう?」
「買いかぶりすぎだ。私はただの商人だ。そんな大層な人間ではない。むしろ君たちの方がよほど立派な人間のように思えるが?」
「いいえ。貴方も私と同じ人間です。そこに商人も武人も関係ありません。ただ私たちが他の者たちと違う点があるだけです」
「ほう、それはなにかね?」
「仁俠に生きるか生きないか、その差でございます」
その答えを聞いた時、勝指揮の胸には何か熱いものが込み上がってきたのだ。それはこれまで感じたことのない感情だった。だが不思議と悪い気持ちはしなかった。己の中に流れる血脈がそう叫んでいるのだから。そしてこの時、両者は初めて互いの手を取り合ったのである。
「私は勝指揮と申す。君の名前は?」
「無明と申します」
それから瞬く間に琵琶一帯にいる民たちを集め、湖岸の南を避難場所として指定したのだった。そのおかげで多くの命が救われた。これが卯柳勝指揮と無明の出会いであり、後に『月蝕会』と『玉影』の争いに終止符を打つきっかけとなるのである。
だからこそ『権兵衛』は忘れていなかった。勝指揮という名を、己が『無明』と名乗ったことを──
十六年前のあの日、お互い名乗りあった後、権兵衛は勝指揮にこう言った。
「もし頼みを聞いてくださるならば、私の全てを貴方様に捧げましょう」
それはつまり、勝指揮者という人間に仕えるということ。そして、彼のために命を捧げるという覚悟の表れであった。しかし勝指揮はそんな権兵衛に対して、ただ一言だけこう告げたのだ。
「君は生きなさい。それが私の頼みだ」
「はい?」
一瞬、権兵衛は何を言っているのかが分からなかった。画面越しでも分かるキョトンとし声は、まるで年端もいかない子供のようだった。しかしそれも仕方あるまい。彼はこれまで自分の命に価値を見出したことなどなかったのだから。
「君の頼みは引き受ける。私の見返りは先ほど言ったこと。ただそれだけだ」
権兵衛には勝指揮の言葉がどうしても理解できなかった。なぜこの男はここまで自分に親切にしてくれるのだろうか、と。しかし勝指揮は続けるようにこう言った。
「何を戸惑うことがある? そもそも見返りを求めるなら私は姓氏を名乗っているはずだ。違わないか?」
確かにその通りであった。そして同時に理解した。我が身を犠牲にしてでも人を助ける覚悟がある者なのだと。琵琶の民を動かす経済力を築きあげたのも、それは一重に彼の人徳によるものだったのだと。
権兵衛はそんな尊敬の念を抱くと同時に、胸を締め付けるような痛みに襲われていた。そして権兵衛は思ったのだ。
この方のためならば、命など惜しくはないと──
「先の戦が落ち着いた後になりますが、私が生きていたら、この命が尽きるまで貴方様に尽くしましょう」
権兵衛はそう言葉にすると、勝指揮の前に跪いた。それはまるで王に忠誠を誓う騎士のようであった。
「君はどうやら勘違いしているな。私は君のためにやっているのではない」
勝指揮は苦笑しながらそう言った。まるで権兵衛の忠誠を拒むような言動だが、その声はどこまでも優しく穏やかであった。
「私はただ、私の仁俠に従ずるだけだ」
勝指揮者はそう言うと、再び歩みを始めた。その後ろ姿を権兵衛はただ黙って見つめていたのだった。
そして彼は心の中で誓ったのだ。
必ずこの命を捧げて見せると──
しかし権兵衛はこうも思っていた。利用するような形になって申し訳ないと。そして、仁俠というのは建前であって本心ではないと。ただ敵である『月蝕会』の首魁が使う『血気』は、そこら中の生き物の血を媒介にすることで様々な権能を行使できる。つまり、何も知らぬ百姓たちは敵の餌であるのも同然であった。さらに言えば、血だけが抜かれた死骸は『死気』を扱う者にとっては利用価値の高い素材である。そこに死気の達人がいれば悪鬼や死徒を生み出される恐れがあるのだ。だからこそ権兵衛はこのことに気付いていながらも、この場では何も言えなかった。なぜならそれは、あまりにも勝指揮の背中が大きく見えたからだ。
「どうかご武運を」
商人でありながら武人に勝る高潔な魂を持つ彼への手向けは、それが精一杯だった。しかし、権兵衛の言葉は間違いなく勝指揮へと届いていた。だからこそ、勝指揮者は振り向くことなくこう言った。
「あぁ。君も達者でな」
そして数ヶ月にも渡る月蝕会との戦いは、大和にとって大きな転機となった。
それは『月蝕会』の壊滅と『琵琶の英雄』の誕生である。悪道の傘下も諸々と総崩れになり、外からの弾圧から身を守り抜いていた間者たちも次々と捕縛されていった。
しかし、その立役者である『琵琶の英雄』は、決して表舞台に姿を現すことはなく、さらに言えば、陰ながら支えていた卯柳家の存在も知られることはなかった。そして何の成果が得られなかった卯柳家は没落の道を辿ることになる。
しかし、もしも勝指揮が卯柳家の当主のままでいたのならこのような結末にはならなかっただろう。己の失態に加えて、息子である真心が見知らぬ武人を助けた落ち度も重なってしまい、その責を自らが当主を降りることによって償ってしまったのだ。
それが崩壊の道標になっことは、もはや言うまでもない。
これが卯柳家の没落の顛末である。




