名無しの権兵衛
「ここです」
大地が連れてきてくれた場所は、山奥の殺風景な場所であった。そこには今にも崩れそうな小屋がポツンと佇んでいたのだ。大地はその小屋を指差しながら言った。
「ここがその武人が住んでいる家です」
「ありがとう。本当に助かった」
真心はそういうと、足早に小屋に向かっていった。そんな主人の姿を見て大地はどこか悲しい気持ちになっていた。
「真心様にとって縁のある武人はあの者しかいない」
大地はボソッと呟いた。その独り言は真心の耳には届くことはなかったが、ある者には届いた。
「どうかされましたか。お兄さん」
大地の後ろの方から声が聞こえた。その男は右肩で鹿を担ぎながら歩いていた。長く生え散らかした黒い髪は後ろで一つに纏めており、古びた狩服と蓑で身を固め、一見すると山伏のような格好であるが、右腰に差された刀の無い鞘と、その特殊な形状から山伏ではないことが一目で分かる。特殊といえども、鞘先が輪形状になっており、手首一本入るくらいの大きさが抜かれている。
彼は右肩に担いでいた鹿を地面に下ろすと、腰に下げていた瓢箪の口を開け水を飲み始めた。
「久しいな。お互い老けたもんだ。会う予定はなかったが、どうしても真心様がアンタに会いたいだとよ」
大地は男に向かってこう言った。それは主人の願いが叶ったことに対する喜びと、一抹の寂しさと驚きを織り交ぜた複雑な表情だった。それ故に大地は男に問うた。
「俺の顔もそうだが、アンタは驚かないんだな。俺は内心びっくりしてるのに」
「ここに人が来るとしたらお兄さんしかいませんから」
「そもそも人がいることに驚かないのか?」
「一つ一つ丁寧な反応をしていると、この戦国の世では生き抜くことは出来ませんし、それに少し前から人の気配を感じていたので」
男はそう言うと、瓢箪の水を一口飲んだ。瓢箪の中は酒で満たされているのか、男は酒臭い息を吐きながらこう続けた。
「立ち話もなんですし、この鹿を捌いてからお話ししましょう」
男はそういうと、腰に下げていた短刀を抜き、鹿の腹を切り始めた。その慣れた手つきは何度も捌いていることを物語っていた。
────── それから数分後、目の前には一匹の鹿肉が置かれていた。その鹿肉は綺麗に切り分けられていた。
「見事だ」
途中から見物していた真心は、思わずその言葉が口から出ていた。それはその鹿肉を捌いた男の腕前に対しての賛辞であると同時に、この短い時間で男がどんな人物なのかを理解することができたからである。
──外傷のない鹿の狩り方などありえるのだろうか?
それはこの男が只者ではないという証拠だった。
──それも右腕のみで?
真心はこの時、この鹿をどうやって狩ったのか検討すらつかなかった。目立った外傷はなく、暴れていた形跡も、もがき苦しんだ様子もない。一体、この男はどんな技でこの鹿を仕留めたのだろうと真心は考えていた。
「本当に見事な腕だ」
真心がそう言うと大地はこう返した。
「そうですよね。右腕しかないのに綺麗に捌くものですよ」
「はぁ、全く、大地ときたら……」
真心は大地の軽口を嗜めた後、火を焚き肉を焼き始めた男に向かってこう言った。
「其方の名は何と申すのだ?」
その台詞を聞いた男は肉を焼く手を止め、真心の目を真っ直ぐと見ながらこう答えた。
「……私のことは権兵衛とでも呼んでください」
「権兵衛殿……か」
真心はそう言うと、肉を焼く男、もとい権兵衛にこう言った。
「権兵衛殿は『ムメイ』という武人について知っているか?」
その問いに、権兵衛は肉を焼く手を止めず、ただ一言こう言った。
「……彼は死にました」
その言葉に嘘はなかった。つまりこの男は何かしら知っている筈だと。だからこそ、真心はこう続けた。
「権兵衛殿の知る『ムメイ』殿について教えて欲しい」
「知ってどうするのですか?」
その言葉にはどこか嘲笑しているような感じがしたが、それでも真心は怯むことはなく、ただ愚直にこう言った。
「その武人がどんな人物なのか知りたいだけだ」
「彼は酒が好きな普通の人間です。武術はそこそこできるようでしたが、ただの馬鹿でもありましたね」
それを聞いた真心は驚きを隠せなかった。何故なら目の前にいる権兵衛がムメイという武人について語る口は、彼が自分と近しい人間であると言っているようなものだったからである。
「しかしムメイは死にました。これで満足ですか?」
権兵衛は肉が焼ける香ばしい匂いとともに、そう口にした。まるで、ムメイを弔っているかのように轟々と発せられる火の気は、肉を綺麗に焼き上げていた。
「そうか……」
真心はそれだけ言うと、権兵衛に深々と頭を下げた。
「どうか我が家に力を貸してくれないだろうか」
それは懇願とも取れる言葉だった。権兵衛はそんな言葉に対して、瓢箪を口にして粛々と酒を呷るばかりである。