罵倒の数々
一方その頃、卯柳家の人間は未沢家の催しに参加するために琵琶の南方に位置する伊賀へと発っていた。一行の中には核信の姿もあれば、天卯の父親である勝指揮の姿もあり、高低差が激しい砂利道は馬車を乗る余裕もなく、全員が馬に跨っていた。そして彼らは目的地に向けて移動する中、道中の景色を堪能しながら、他愛もない会話に花を咲かせていたのだが、不意に幕幕がこう言葉を漏らした。
「少し口が過ぎたか……」
独り言ともとれるその言葉は、誰に向けたものでもなく、まるで自分の行いを悔いるような雰囲気があった。
「何がだい? 嬢ちゃん」
そんな幕幕の様子に、隣で進む銀狼が問い掛けると、彼女は困ったように眉を顰めた。
「あの片腕の浮浪人に言ってはいけないことを言ってしまった気がしてな……」
その姿からは哀愁感が漂っており、まるで親に置いてけぼりにされた子供のようであった。そんな幕幕の様子を心配そうに見つめる銀狼であったが、ここで思わぬ助け舟が入ることになる。
「気にすることはない」
声のした方に二人は顔を向けると、そこにいたのは馬に乗る刻信であった。彼は優しげな表情で微笑み、静かに頷いた。
「僕も同感だったからね。天卯がいかにも役に立たなさそうな人間を護衛として選ぶものから、僕もつい口にしてしまったものだ」
二人は権兵衛と遭遇した当時のことを振り返っていた。
それは天卯が誰にも気付かれぬよう、秘密裏に卯柳を発とうとした時だった。いくら優秀な真心が推薦した人物とは言えども、片腕隻眼の、それも見るからに浮浪人のような佇まいの者を雇い入れることに、当然の如く反対意見が相次ぐだろうと判断したのだ。全ては真心の面目を立たせるためである。
ゆえ、天卯の父である卯柳勝指揮には、真心からの推薦の武士を連れていくと一言申せば、それが誰であるか正体を明かさなくても良いほどには信頼があった。しかし一点、秘密裏に進んだ計画だが、とある問題が起きてしまったのだ。
それが──
「──あれが武人だとでと言うのか?」
刻信と幕幕が丁度二人でいるところに、ばったりと出会してしまったのだ。そこからはもうあれよこれよと話が進んでいくうちに、彼らの愚痴が始まったのである。
──障害を持つ浮浪人を護衛に選ぶなど、護衛の介護人にでもなる気か。
──それよりももっとマシな護衛を連れていくべきだ。
──桜紋の血筋がある私の方が百倍役に立ちますよ。
──私ならば一秒あれば浮浪人を切ることなど容易いです。
──その障害者を雇うというのは決して優しさではなく、むしろ彼にとっては迷惑な話であろう。
──僕の護衛武士である幕幕とは天と地の差だ。
──誰もいないようでしたらこの私が彼と変わりましょう。
──剣すら持たない身で武人を名乗るなど、なんと烏滸がましい事でしょうか。
それぞれが思い思いの言葉を口走り、批判という名の風は巻きに巻かれて嵐へと昇華し、収拾がつかない事態に陥ってしまった。そうして言い合いが続く中で、ついに我慢できなくなった天卯は思わず、声を上げたのだ。
──彼は真心お兄様の紹介です。
その言葉だけで刻信は冷静を装いながらも狼狽した様子で、顔を引きつらせ、あからさまに不機嫌な表情を見せていた。
──生きるために自分だけ逃げて、ただの浮浪人をよこすなど……真心も堕ちたものだ。
刻信は最後に吐き捨てるように告げてその場から立ち去った。真心は紛れもない天才であると、卯柳家の人間であれば誰もが知っているのだ。現に天卯が真心の名を出すだけで父も刻信も引き下がるほど絶大な信頼があった。
だからゆえ、その言葉を聞いた刻信はまるで裏切りでもあったかのように真心のことを心から軽蔑した。真心のことを同年齢の好敵手であり、一種の家族であり、何よりも一時期は尊敬していた人間として、これほど悲しいことなかったのだ。だから刻信はこんな考えを持つようになってしまった。
──天卯も逃げるためにここを発つ気なのだろう。
──逃げるならば逃げればいい。
──しかし僕だけはどんな状況になったとしても卯柳を捨てる気はない。
刻信は根っからの負けず嫌いであり、意地っ張りな性格だったのだ。しかし正義という言葉が似合う善人でもある。たとえどのような劣勢であろうとも、絶対に諦めずに食らいつく執念深さを持っていて、その想いは他の追随を許さない程に貪欲であった。
そしてそんな彼だからこそ、自己犠牲という言葉が可愛く見えるほどに損な役回りを自ら進んで引き受け、周りを巻き込み、様々な人間の運命を大きく変えてしまうこともある。
それが武家の名家である幕幕のように、己の命を危険に晒す結果になるとしても、刻信だけは守るべき対象と認識しているのだ。刻信は良い意味でも、悪い意味でも、卯柳を裏切った父親と似ている部分があった。
それは人心を掌握するという天性の才覚を持っていた点にあったのだ。時折、核信の横顔見ながら、穏やかな表情を浮かべる幕幕は彼のそんな一面に惹かれたのだろう。
そんなことを考えている内に、一行はようやく目的の地まで辿り着いたのである。




