堕ちた商家
それは湖岸の近くにある『商家』の方庭でのことだった。
「父上。私はあの時、あのお兄さんを助けなければ良かったのでしょうか?」
紺色の和装で身に包む真心は未だに自問自答を続けていた。今、真心の目の前にあるのは春になると屋敷を桃色に彩る桜の木だ。その木にはかつての『戦』で命を絶った武士の魂が宿っていると言われている。
「あの時、助けなければ私は当主になれたのでしょうか? 家に報いることができたのでしょうか?」
黒い髪と黒い瞳は丁寧に練られた墨汁のようで、ある種、現在を表す闇が広がっているともいえよう。
「それとも、いつか父上が言った『誰かのために』と胸を張って言えるのでしょうか?」
真心は涙を流すことさえ忘れていた。それほどまでに今の彼は幼き頃の面影を残してはいなかった。頬はやつれ、手足は細くなり、儚く散り行く桜のようであった。そんな時に、背後から大地の声が聞こえた。
「真心様」
「なんだ」
大地の呼び声に真心は振り返らず、返事をした。大地はそんな真心に少しの悲哀を覚えるが、すぐに表情を戻した。
「旦那様がお待ちです」
「分かった」
真心は覚悟を決めたように『商家』の方庭をあとにする。その後ろ姿は、まるで一枚の絵のように美しかった。
──この十五年前のあの日までがどれだけ幸せだったことか。
大地はその背中に続きながらそう思った。それは過去の聡くあどけない少年ではなく、多くの重責を抱え込み、今にも崩壊しそうな、脆く哀れな背中だった。
「旦那様、真心様をお呼びしました」
大地はそう言って襖を引いた後、その場で一礼をした。その部屋の中では旦那様もとい真心の父親が縁側で庭先の桜を眺めていた。その蒼い和服姿と相まって、一枚の絵になるといっても過言ではない。
「真心、中へ入りなさい」
父親──卯柳勝指揮がそう言ったあと、真心は部屋へ入り一礼をして正座した。そして勝指揮の脇に置いてある座布団に座るよう促された。
「失礼します」
その部屋は畳で敷き詰められており、天井も板張りがされている簡素な部屋だ。しかし、どこかしらの荘厳さを感じるのは、その部屋の奥に鎮座する神棚と灯籠のせいであろう。
「真心。お前が何故呼ばれたのか分かるな?」
勝指揮は正座する真心にそう声をかけた。その顔はいつものように穏やかで慈愛に満ちたものであったが、それでいて芯があり真っ直ぐなものだった。それは父としての威厳であると同時に元『富家』の当主としての覚悟を示していた。
「いいえ」
「そうだろうな。分かるわけがない」
勝指揮は目を瞑りながら、そう答えた。
「お前はこの家を継ぎたいか?」
「はい」
真心は迷うことなく即答した。その目には一点の曇りもなかった。
「なら、今お前がすべきことはなんだ?」
「それは……」
真心は言い淀んでしまった。その迷いが何を指しているのか勝指揮には分かっていたのだろう。彼は言った。
「『当主になる』とはどういうことだ? 当主になって何がしたいのだ? 答えよ、真心」
「……」
真心は下唇を噛みながら考えた。当主になって何がしたいのか、何をすべきなのか。その答えを彼はまだ見つけていなかったからだ。いや、彼は見つけられなかったのではない。見つけようとしなかったのだ。逃げていただけなのだ。当主の重みから、責任から、そして何より自分が犯した罪を──
「お前の考えていることは分かっている」
そんな迷いを勝指揮は瞬時に見抜いた。まるで心を見透かされているような感覚に陥った真心は体を震え上がらせた。勝指揮は決心したように目を見開き、とある巾着袋を投げながら言った。
「この家から出ていきなさい。そこにお金はたんまりある」
「父様!!」
「勘違いするな。お前を破門するためにそのようなことを言ってるのでは無い」
「でしたらなぜなのですか!」
真心は声を荒げた。それは勝指揮を怒らせたからではなく、勝指揮に自分の考えていることが見透かされていたことに対する焦りからだ。そんな息子に対して、父親は諭すように語りかけた。
「私はお前に生きてほしい」
「知っています! 全て知っています!」
「ならお前が今すべきことは外で力を付けることだ!」
「それはっ……」
真心の言葉が止まる。それは勝指揮の言っていることが正しいことだということを意味しているからだ。しかし、その正論を受け入れることが出来なかったためだ。
「十五年前のあの日、お前は一人の武人を助けた。しかし、私もその数月前に一人の武人を頼みを聞き入れた」
「それが……」
「そうだ。その男は生涯で私が全てを賭けた唯一の武人だった」
勝指揮はそう言って葉のない大木を眺めた。その横顔は我が子に対する愛情が満ち溢れていた。だが、そんな横顔から一転し険しい顔つきになり言った。それは父親としてではない『元富家』当主としての顔であった。
「しかし、その男は恐らく死んだのだろう」
真心は俯いたまま何も言えず、ただ、下唇を噛みながら正座していた。膝の上の握りこぶしからは血が出ていた。勝指揮の言っていることは至極正論であり反論の余地などなかったからだ。そんな息子に対して勝指揮は優しい声で言った。
「もしあの武人が生きていれば、現在も富の天下を誇る大和四大富家の一家として名を馳せていたに違いない」
「そこまでの武人様だったのですか?」
「あぁ。皆は私が詐欺にあったと色々言うが、アレは別格だった。たとえ商談が失敗してもあの者とは縁を繋ぐべきだと判断したのだ」
「失礼ですが、その武人の名前は?」
「『ムメイ』と申していたが、恐らくは偽名だろう。顔も隠していたし。だが私は直感を信じただけだ。お前も分かる時がくるさ」
そこから一拍おいて勝指揮は続けた。
「直感に頼った結果はこの通りだった。きっと、私はあの時、助けるべきではなかったのだろう。あの一件で四大富家の一つであった我が家、『卯柳』は富家から商家に堕ちるどころか、その末端もいいところだ」
「父様の失敗だけではありません。私も見知らぬ武人を助けてしまい、家に危険を齎したことは事実でございます。」
「私の失敗に比べれば、そんなものは可愛いものだ」
「しかし、私の不祥事が明るみになったことが最後の追い討ちになったのは間違いのないことです!」
真心は勝指揮の言葉に抵抗した。それもそのはずである。元は四大富家の一家であった『卯柳』が名実ともに商家になってしまったのはまぎれもない自分のせいだということを、真心は誰よりも自覚していたからだ。
「もう気にするなとは言わん」
勝指揮は一呼吸入れてからこう言った。
「だが過去に囚われることはただの足枷にしかならないのだ」
その言葉は『元当主』として、そして親としての言葉だった。その重みがどれほどのものか、真心には痛いほど分かっていた。
「近々、宴会が催されることをお前も知っているだろう」
「私たち商家の格上である未沢家との交流ですよね?」
「あぁ、宴会とは名ばかりのな」
真心は俯いていた顔を上げた。その表情はどこか不安げであった。
「いいか? 今の当主はこの卯柳を立て直せるほどの力を持っている者ではない。なにせ実の弟が私の失態を利用し、権力に目を眩み、奪い取ったのだからな」
「父上だけの失態ではありません。僕も同罪です」
「何度も言っているだろう。お前の失態など可愛いものだと。それよりも未沢家の当主は私たちに何をしようとしているか分かるか?」
「彼らの狙いは卯柳を喰らうことですよね」
「その通りだ。このままいけば、その宴会で卯柳家の者は殺されるだろう。生き残ったとしても卯柳家は未沢家の奴隷に成り下がるだろうな」
「何故そこまで言い切れるのですか?」
真心の疑問は最もだった。だが、勝指揮はその答えを分かっているかのようにこう続けた。
「私の弟、つまり卯柳の現当主は愚かな失策を犯した。それは富家の戦術の一つでもある金で武士を雇ったのだ」
「!?」
真心は驚愕した。無理もないだろう。これは武家の争いではない。つまり──
「現状の生活でも厳しいのに、お金で武士を雇えるわけありません。ましてや──」
「──そうだ。もし金で武士を雇えた暁には、その大半の人間が未沢家の息がかかったものだ。卯柳よりも未沢の方が金を積んでいるに違いないからな」
商家の争いでは『金』と『信用』が力となる。金で武士を雇うことができたとしても、格上の商家と争う場合は間者の可能性が極めて高い。だからといって、力になってくれるという武士を証拠もなく切り捨てるのは信用に傷をつけることになる。それ故に、商家の争いはいかに相手の弱みを握り、そしてどれだけ信用できる武士を雇うかが鍵となる。その際たるものが名家、あるいは高名な武人との縁である。
「宴会は見捨てましょう。行くべきではないです」
「それはできない。お前も分かっている筈だ。馬鹿な弟が取り決めたことだからな」
「それでも──」
「──商人は信用が一番だ。約束事を捨てるくらいなら死んだ方がマシだ」
真心は勝指揮の言葉に何も言い返せなかった。それは父の覚悟を真の意味で理解したからであろう。彼はもう後戻りすることのできないところまで来ているのだ。それこそ、己を犠牲にしてでも卯柳を守ろうという覚悟を父親から感じとったからだ。
「今の卯柳には金も信用もない。だからこうして私が富家として返り咲くために尽力をしているのだが、それも限界がある」
勝指揮はそう言うと一呼吸入れて言った。
「一応、私が当主だった頃に縁のある者には伝書鳩を使って声をかけている。簡単にやられにいくだけではない。しかし万が一がある」
勝指揮はそこで言葉を区切ると、こう続けた。
「もし私が殺されたらお前が卯柳家を再興なさい」
その言葉を聞いた真心は頭が真っ白になるが、それでも一つだけ懸念があった。
「妹は……天卯はどうするのです?」
「私と共にここに残る」
「そ、そんな……」
勝指揮はそこで言葉を切り、真心に諭すように言った。
──もう気付いているだろう? と。
そしてこう続けた。
──お前がこの家を出れば私は安心して逝けるのだ、と。
真心は膝上の拳を強く握りながら下を向いたままだったが、それが何を意味してるのか分かっていたゆえに涙が溢れ出て止まらなかった。とめどなく流れる涙を止めるために歯を力一杯嚙みしめ我慢した。そんな息子を見て父親は言った。
それは父親が息子にかける最後の言葉のように思えたからだ。
そして── 勝指揮は言った。
──生きなさい、真心。
真心は父親の激励とも呼べるその言葉を無言で受け止めた後、こう言った。
「必ずや、卯柳を再興いたします。僕も出来うる限り信用のおける武人にあたってみます」
その目には覚悟と決意が満ち溢れていた。勝指揮はその言葉を聞いた後、安心したような笑顔を見せながら、
「頼んだぞ」と一言だけ口にした。
「最後までありがとうございました」
そう言って真心は深々とお辞儀をすると、立ち上がり部屋から去っていった。勝指揮はその背中に向かってこう言った。
──不出来な父親ですまない。
「大地!!」
「どうされました?」
部屋を出た真心は少し間をおいてから近くにいた大地を呼んだ。その声は怒号にも近かったが、その声にはどこか悲痛さが漂っていた。大地はそんな主人に対して少し動揺しながらも返事をした。
すると、真心は大地の両肩を強く掴みながらこう言った。
それは懇願とも呼べるような表情で──
「──十五年前、助けた武人の事を覚えているか?」
「はい。忘れるわけありませんぜ」
卯柳の家系及び、卯柳家にいる雑用係の大半が黒い瞳に黒い髪である。現に小間使いである大地すらも黒い瞳と髪であり、小袴に着物といった装いもこの時代の主流であり自然だ。その黒髪を短く刈り上げていることも、より効率を重視したものだろう。小間使いの仕事は意外と重労働であることが多いため、手入れが面倒臭いという理由から短い髪型にしている者が多いのだ。
「その者の元へ案内しておくれ」
「しかし、あの武人は山の奥の方にいます」
「頼む。どうしても会いたいのだ」
大地は主人である真心がここまで懇願する姿を初めて見た。それは今にも壊れそうな姿だった。
「承知しました」
大地はそれだけ言うと、真心をその武人の元へ案内したのであった。