悪道と正道
「黒鬼士ッ!」
天卯は咄嗟に後退り、黒鬼士に向かって叫ぶ。しかし、当の黒鬼士は信じられないと言った様子で立ち尽くしていた。
──気ではなく五感のみで存在を感じたのか?
その歩数すら見抜く権兵衛に、尋常ではないと感じた黒鬼士は、面の下から汗が自然と流れ落ちていた。まさに異常とも言える才覚の持ち主であることを改めて実感したのである。
「それにこの鬼士たちは……」
床に伏している屍を目の当たりにして、大地が呟いた。そこにはまるで巨大な何かに押し潰されたような跡があったからだ。恐らく即死であろうことは誰の目にも明らかだった。
「これは黒い鬼面をしている彼がやったものです」
「なッ、なにを!」
権兵衛の言葉に黒鬼士は狼狽する。確かに気を放ったのは黒鬼士ではあるが、最終的には権兵衛の返し技により勝敗は決したのだから、全ては権兵衛にあるのが筋だと考えた。
しかし、権兵衛が黒鬼士を見る眼差しは虎をも屈服させる眼光を放っていた。蛇に睨まれた蛙のように余計な口出しをすればただでは済まないと感じた黒鬼士は口を噤んだ。
「……権兵衛と言いましたか。あの黒い鬼面を付けている男は恐らく十二鬼士の長である黒鬼士と思われます」
そこで今まで黙っていた天卯が沈黙を破るように呟いた。
「鬼士の仲間割れが起きたとでも言うのですか?」
「そうみたいですね」
権兵衛はまるで他人事のように言ってのけたので、天卯は思わず目を丸くした。
「なぜ貴方は無事なのでしょうか? もしや貴方は悪道と繋がりがあるというのですか?」
「この状況を見て、私が無関係だと思いますか?」
「……分かりません」
言葉とは裏腹に天卯の中では何か引っ掛かるものがあったようだ。それが何なのか分からずにいると、ふいに権兵衛が問いかけた。
「ところでその瞳には見えないのですか?」
その言葉を聞いた瞬間、天卯の瞳が大きく見開かれる。そして驚きのあまり言葉が出なかったが、少し間を置いた後にゆっくりと口を開くと、やっとのことで一言だけ声に出すことが出来た。
「あなたは一体……?」
驚愕に満ちた瞳で見つめる天卯とは対照的に、権兵衛は至って平静を保っていた。天卯の反応は当然であった。何しろ、天卯の読心術を知る者は数少ない。特に身内にすらも知られないように細心の注意を払っているくらいなのだから。それに加えて天卯の瞳には、今目の前にいる人物が何者なのか皆目見当がつかなかった。なぜなら、権兵衛の姿は天卯には靄がかかったようにぼやけて見えたからである。
「ふむ。まだそこまでの境地ではないということか……」
権兵衛は小言でそう呟くと、黒鬼士の方へ向き直った。
──去れ。
それは声なき声だった。黒鬼士はすぐに察したようで、逃げるように広間を後にしたのだった。その様子を横目で見ていた天卯であったが、黒鬼士の姿が見えなくなるまでずっと見つめていたのである。
「悪道の……それも鬼士の長である黒鬼士と通ずることは正道を歩む者にとっては重罪になりますよ」
天卯は真剣な面持ちでそう言ったが、権兵衛は特に気にする様子もなく答えた。
「しかしそのおかげで生きているではありませんか。毒を以て毒を制すという言葉があるように、今回は毒を飲まなければならなっただけです」
「それは今回だけの話です。中和できない程に孤立した毒が蝕むこともあるでしょう」
「その時はその時です」
権兵衛は事も無げに言い放った。その様子から、権兵衛は本当にどうでもいいと考えているようだった。天卯はその無責任な態度が許せずに、キッと睨むように権兵衛を見据える。
「ならば貴方の方こそ、この惨状をどう説明なさるおつもりですか?」
「それはお嬢様の口の見せどころではありませんか? 私としては窮鼠猫を嚙むということわざに倣ったまでです。追い詰められた弱者は強者に噛む手腕を見せた。しかし、その場にいたのは弱者と強者だけではなかった。その現象に名を付けて世に広めた第三者もいたということです。そのことわざを作った人物がいるように──」
「──つまり私の口でうまく伝えるなり、納得させることが出来ればいいと?」
「その通りでございます。この場ではお嬢様が第一人者ではありませんか」
その言いぶりから、どうやら権兵衛は本気でそう思っているらしいことを感じた天卯だったが、釈然としない気持ちで一杯だった。
「では私はこれで失礼致します」
権兵衛は恭しく一礼すると、そのまま去っていった。
「なんなの、あの男」
──訳が分からないわ。
権兵衛の姿が見えなくなってから、思わず本音がこぼれ出た。そしてそんな自分を戒めるように、天卯は大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
「ふぅー」
得体の知れない恐怖心が身体を突き抜けようと暴れまわっているかのようだ。そんな衝動を抑え込もうとして、無意識に両手を握り締めていたことに気付いた時、ふと視線を感じた天卯はそちらへ目をやった。視線の先には心配そうにこちらを窺っている大地の姿があった。
「大丈夫ですよ、天卯お嬢様」
「何が大丈夫なのよ……」
「あのお方は真心様が信を置く御仁ですから」
「……」
天卯はそう言われると何も言えなくなってしまう。それほどまでに自分の心は動揺していることを自覚させられて、自嘲気味に笑った。それから落ち着きを取り戻すためにもう一度深呼吸をしてから、大広間に戻ることにしたのだ。




