無名の剣豪
──一体、この化け物は何処から湧いたんだ?
黒鬼士は改めて目の前の浮浪人を見つめた。これほどの実力を持つ者が無名のまま放置されているとは考え難いと思ったからだ。後ろで纏めた黒い髪に右だけ見開く黒い瞳。狩服と蓑で固めた服装はどこかの山賊と捉えても不思議ではない。しかし考えたところで答えが出るわけがなかった。
「お前の名前は何と言う?」
黒鬼士は素直に聞いた。別に隠す必要もないだろうと思ったからだ。男は少し悩んだ後、口を開いた。
「……私は権兵衛だ」
「ふん、名無しの権兵衛か。あくまでも答える気はないと」
黒鬼士が話している隙に紫鬼士は地に落ちた剣を広い投げた。権兵衛の上方から黒鬼士へ渡るように弧を描いて宙を舞った剣は黒鬼士の手に渡る。
「両刃共にボロボロであるか」
権兵衛の鞘と黒鬼士の剣の寸法が合うわけもなく、これでは切ることは疎か叩き斬ることも難しいだろうと考えてでた言葉だ。恐らく鞘内に受け止める過程で、極度の摩擦により業物の刃でも削れてしまったのだろうと想像できた。
「一体何者なんだ!?」
「ち、とんだ外れくじじゃねぇか」
「戯言はよせ。一気にいくぞ」
黒鬼士の言葉を皮切りに、残った緑鬼士と紫鬼士は左右を囲むように位置取った。そして、各々の武器を構えると黒鬼士だけが異様なオーラを放ち始めた。それにいち早く気付いたのは緑鬼士であった。
「黒、闘気を出すほどの相手か?」
「闘気だけじゃない……。こいつには全力で行くしかなさそうだ」
「巻き込まないでくれよ、っな!」
その言葉と共に左右の鬼士は地面を蹴って、瞬時に距離を詰めた。そして、ほぼ同時に振りかざした武器が振り下ろされる。しかし、その攻撃が当たることはなかった。何故なら、目にも留まらぬ速さで動いた権兵衛が二人の間をすり抜け、瞬く間に背後に飛んだからだ。
「今だ!!」
その掛け声とともに黒鬼士の姿が消えたかと思うと、次の瞬間には権兵衛の背後に現れていた。そして、目にも留まらぬ速さで抜き放たれた剣が権兵衛の頭上に迫るが、その間合いは決して届かぬものである。
しかし──
「なるほど、闘気に加えて剣気も扱えるか」
それでも権兵衛は動じることなく悠々とそう呟いた。
『気』とは『生命力』『精神力』『体力』、果てには『記憶』と様々で、つまり人間が人間足りうる『源』の力を対価として、気を練ることができる。
体から発せられる『気』は『闘気』であり、剣から発せられる『気』は『剣気』であるように、身体能力の向上や物理防御が可能となるだけでなく、様々な効果を引き起こすことが出来るのだ。
そして黒鬼士の『闘気』は肉体の強化・硬化及び神経伝達物質の分泌を促すことで反射速度も向上したものに加え、『剣気』は刀身から放つ鋭い衝撃波を放つことが可能となる。つまり離れていても一瞬で敵を斬り裂くことを可能にする。
『剣衝波!』
黒鬼士より放たれた剣気の波は権兵衛を巻き込もうと喰らいつく。その圧倒的な速さと威力を前にした権兵衛であったが、それでも動揺することはなかった。鞘を腰に戻して正面に向き直り、左脚を後ろに引き半身になると、右手の平を上に向けた状態で前に出すという独特な構えを取ったのだ。
「なっ!!」
黒鬼士は目を見張った。なにせ彼の渾身の一撃を、あろうことか権兵衛は受け流したのだ。それも片手で。それはあまりにも現実離れした光景だった。
黒鬼士の放った衝撃波が広間を揺るがすほどの威力があり、床は砕け石が舞い上がり、窓は砕け散ったのだ。それほどの衝撃を受けながら、権兵衛は一切表情を変えずに平然としていた。
「『気逆制御』だと!!」
気とは力の波であり、体や剣に派生した気も流れがある。つまり敵の気の流れを制することによって、技を封じたり、自らの攻撃力へと転じたりすることが可能で、これを『気逆制御』と言われた。ただし、相当な集中力と技術がなければ不可能だと言われている。
そんな絶技とも言える技を披露する権兵衛に対して、緑鬼士と紫鬼士は驚愕する暇さえなかった。
「言ったはずだ。其方らの実力では私に勝てないと」
黒鬼士から放たれた剣気は権兵衛の左右を掠めるようにして通り過ぎていったからだ。そのあまりの一瞬の出来事に緑鬼士と紫鬼士は何が起こったのか理解することが出来なかっただろう。彼らが我に返った時にはもう遅かった。その身に深々と刻まれた無数の傷から血が滴り落ち、二人は糸が切れた人形のように倒れていたのだ。
「さて茶番は終わりとしよう」
権兵衛は黒鬼士に向けて言い放った。その声色からは全くと言っていいほど感情が感じられなかった。それが恐怖心を煽るが、黒鬼士はその感情を悟られまいと必死で抑え込んでいた。
──落ち着け、まだ負けたわけじゃない。
自分に言い聞かせるように心の中で繰り返し呟く。そして、冷静さを取り戻すと……。
「なっ!!!」
黒鬼士には見えてしまった。己が一瞬にして斬り伏せられる姿が。確かに脳裏に浮かんでしまったのだ。
殺気だけで幻覚を見せることができる達人はいるし、周囲を威圧することができる強者も存在する。なぜなら殺気も気の一つだからだ。
しかし、権兵衛はそんな生易しいものではないと黒鬼士には直感的に感じていた。それとは異なる次元にあることは間違い無かった。
それは──
──殺気すら感じられないだと!?
それは決して埋めることのできない実力差があることを物語っていた。だから黒鬼士は考えるよりも先に行動に出た。この男と対峙して勝てるわけがないと判断した黒鬼士は、剣を手放して頭上に両手をあげた。
「すまん。自分でも情けないと思っている。この通りだ」
もはや黒鬼士に戦意は無かった。そして、全身全霊をかけて命乞いをした。
「俺はこの件から足を洗う。いや今日これより卯柳家に関わる一切の荒事に関与しない。なんなら御仁の望み通りにしてやってもいい。だからどうか見逃してはくれまいか? 俺はどうしても生きねばならぬのだ」
黒鬼士は己の矜持を捨て、誇りをも捨て、恥も外聞もなく捲し立てた。それだけ権兵衛に勝つことは不可能だと理解してしまったからだ。たとえ片腕だろうとも。
──左腕が健在ならば。
黒鬼士は考えてしまう。どれほど名の馳せた武人であったのかと。
──閉ざした左眼の欠損が無ければ。
そう思わずにはいられない。それほどまでに今の黒鬼士ですら無力なのだ。
──剣を手に取っていれば。
黒鬼士はそこまで考えて思い止まった。想像してしまったからだ。
──もし、彼が全盛期であれば?
それこそ鬼神の如く、この世に敵などいないのではないかと。考えれば考えるほど、底なしの沼に嵌っていくような錯覚に陥った。
「そう言うが其方も命を乞う民草を踏み荒らしてきたのだろう?」
「俺は他の鬼士と違って無駄な殺傷は好まぬ。それも帰らなければならぬ場所があるのでな」
「ふむ」
権兵衛は少し考え込んだ後、口を開いた。
「運が良かったな。彼女に感謝するといい」
「……? 何が?」
「風の揺らぎ、地の響き、呼気の鳴り、あと九歩だ」
その言葉に疑問を持った黒鬼士であったが、すぐさまその意味を知ることになる。それは言葉通りの意味だったのだから。そして次の瞬間、広間の片隅から飛び出した少女により、事態は急変することとなる。
「これは!?」
「ッ! 権兵衛!」
黒鬼士と権兵衛の間に現れたのは、白髪の少女、天卯とその付き人の大地であった。




