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無名の剣豪  作者: 箱好鐘
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君のために




「真心様。また湖でお昼寝ですかい?」


「今日はいい天気だからね」


「干からびちまいますよ。ささ、お昼にしましょう」


 

 湖岸で寝そべる幼い少年──真心に、付き人の男が声をかけた。熊のような男の背中には赤ん坊がおんぶされている。真心はむくりと上体を起こして背伸びをした。背中まで届く艶やかな黒髪は少女と間違われても仕方がない。身なりは小奇麗にま

とめられており、これまた少女のようだ。



「大地」


「なんですかい?」


「なんかいい匂いがするよ」


「へ? ああ……。こいつでさぁね」



 大地と呼ばれた付き人は、背中に負ぶさっている赤ん坊をあやしながら答えた。



「へえ……。こいつは苺と言いまして、この時期が一番うまいんですぜ」


 大地はそう言いながら、胸から取り出した果物を真心に渡そうとした。ところが……。


「そうじゃない。もっとなにか……」


 真心は大地の手を押し戻した。そして、嗅覚を研ぎ澄ませながら、ふらふらと湖岸を歩き始めた。


「あ、ちょっ……」


 大地は慌ててその後を追った。すると、真心は水面を指差して言った。



「なんか変な匂いがするよ」


「変? ……どれですかい?」



 大地はそう言いながら、湖を覗き見た。それは確かに変だった。何か水面で蠢いているものがいる。得体の知れないものを見つけた恐怖に、大地の背筋が一気に伸びた。


「コレは──」


 大地は言葉を失った。その蠢いているものは、白色に光る巨大な目であった。それは不気味に光っていたもので、大地は思わず息を飲んだ。



「──湖河一番の主。白鯰!!!」



 大地は叫んだ。それは湖岸に住む者たちにとっては、最も恐怖する怪物の名であった。湖の掃除屋とも呼ばれる白い鯰は、普段は湖の底に潜んでおり、人前に姿を現すことなど滅多にないのだ。それが今、目の前に姿を現わしている。



「真心様。逃げましょう!!」


「どうして?」


「何でって……」



 大地は鯨よりも大きい白い鯰の恐ろしさを、懸命に説明した。しかし、真心は興味なさそうに言った。その時だった。



「……? 人?」



 真心は白鯰の口の中にいる男を目撃する。それは黒い服を着た男であるが、片腕しかなくその手には鞘が握られていた。



──これが食べられるということなのか?



 柘榴のように抉られた片腕を見て、大地はそう思った。しかし、助けることなど出来るはずもない。男が飲み込まれる様を見ることしか出来なかった。

そのはずだった……。



「「え?」」


 大地も真心も我が目を疑った。食べられると思った男は二人の前に吐き出されたからだ。しかもあろうことか、男はまだ生きていた。



「大地! 早く処置をしないと死んでしまう」


「武士を助けるなどあってはなりませぬ! 家訓を忘れましたか? それに白鯰も……」



 白鯰は湖底へと帰っていく最中だった。それを好機と見た大地は、家の者を怒らせるとどうなるかわからないと真心を諭した。だが……。



「人を助けるのに理由は必要なのか!」



 胸に勇者の心を飼っている真心は止まらない。大地の制止を振り切り、瀕死の武士の元へと向かう。



「真心様! この場から即刻、離れるべきです! 我が家は武術を嗜む『武家』ではありません。商いを営んで富を手にした『富家』なのです!」


「それがどうしたと言うのだ!」


「まだ幼い真心様は分からないでしょうが、その武士を助けることで家が危険に晒されることもあるのです。そもそもその武士が善人であると限ってはいません!」



 大地は必死だった。何故なら白鯰の口から生還したとしても、その代償に別の危険に晒される可能性があったからだ。

例えば、この武士が他の人間の標的であるかもしれない。人の軋轢ほど恐ろしいものはない。そんな大地の説得も虚しく、真心は言った。



「僕は真心。そなたの名はなんと言う?」


 真心は赤ん坊を背負う大地に向けてそう問うた。


「……大地と申します」


 大地は戸惑いながらもそう答えた。


「その名は誰が付けたのだ?」


「それは親しかいないのでしょう! 今は遊んでいる暇じゃ──」


 大地は答えながら、真心に近づこうとした。しかしその歩みは地に吸い付くように自然と止まっていた。


「──今一度問うぞ! そなたの名の意味はなんだ? この地の如く、全てを受け入れる大きい器を持てるように、そう名付けたのではないのか?」


 真心はそう言いながら、大地に歩み寄った。その言葉と眼力に圧倒された大地は一歩も動けなくなっていた。


「その者にも親がいて名がある。悪人されど善人を今気にしている場合か? この地はこの偶然ですらも全て受け入れている。湖の主である白鯰でさえ、この者を生かしたのだ。それはきっと助けろと、神の思し召しではなかろうか?」




 真心に言いくるめられた大地の体から、力がすっと抜けていく。



──これでまだ五歳であられるのか。



 大地は観念したかのように、ゆっくりと白鯰の口の中から生還した武士に近づきながら言った。



「背中にはお嬢様もいますし、私もできる限りの事は致します、だからどうか一つだけ約束してください。この事は誰一人として口外なさらぬようお願い致します」


「分かった」



 真心は笑顔で答えた。大地はその笑顔を見て、はぁとため息をついた。




──そういえば、『月模様』は気のせいだったろうか?



 大地は白鯰の口内の片隅にちらりと見えた仮面を思い浮かべていた。しかし、それは何かの見間違いだろうとすぐに打ち消した。そして、赤ん坊を腕に抱いて怪我を負った武士を背負いながら湖岸から離れるのであった。



 



 あの日から月は一周した。男の傷も幾許か状態が良くなったと言えど、無くなった左腕を取り戻す事はもうできない。この世に断たれたモノを治す奇跡は存在しない。真心と同じ黒い髪に黒い瞳ながら、正気と失った姿は真心とは真逆である。



「恐らくだがその斬られた左眼ももう見えないことだ。あんたは生きているだけで奇跡みたいなもんさ。真心様に感謝を忘れずにな。それにしてもあれで五歳なんだ。あんたも凄いと思わないか? しかも──」



 男は大地の身の上話を掻い摘むように聞いていた。男はそれに黙って頷いていた。そして、大地はもう何本目になるかになるかわからない小枝を火にくべた。


「ところで、その、お願いがあるんだが……」


「……」


 男は何も話さない。大地はそれを知っている。右眼に右腕に鞘のみの武士なんて生命線を断たれたようなものだ。きっと生きる活力さえ湧かないのだろうと、大地はそう思っていた。


 男は口を動かす代わりに頷いた。それは男にとって数少ないコミュニケーション手段であり、男なりの返答だった。



「酷な事を口にするが、動けるようになったらすぐここを立ってほしい。俺たちは『武家』ではない。武家ではない者が武士を助けた場合、起きることは二つだ。あんたも武人なら分かるだろう?」



 一つは助けた武士の実力が高ければ縁が保たれ庇護下に入ることだってできる。それがよく言う身分の高い者の社交界の立ち回りであり、お金でモノをやり取りする『富家』の生存術でもある。



 そしてもう一つは──



「見たところ、あんたのその状態じゃ武人の争いに巻き込まれたのだろう? 最悪の場合、追っ手が放たれている危険性もある。あんたを助けたことで俺たちが巻き添えになることだってあるんだ」



 高い地位、あるいはそれなり武力があれば助かる見込みもあるのだが、男の身なりといい、状態といい、助かる術もなく、落ち武者として逃げるしかなかった。



「それにとある『戦』で旦那様は大きな失敗を犯してしまった。それゆえ商いも過去最悪の状態。ここであんたを助けたことが家紋に知られたらまさしく詰みなんだ。破門さえ、降るかもしれない」



 大地は頭が回る男であった。いや、長く真心に仕えることで自然と身につけた処世術とも言えるだろうか。この程度のことを察することが出来なければ、すぐに切り落とされることだってあり得るのだ。



 大地の言葉を遮るように、男は首を振った。そして……



「なぜ私を助けたのだ」


「あんた話せたのか!?」


 大地は驚愕した。今まで黙っていた男が初めて言葉で意思疎通を図ったからだ。



「惨めだとは思わなかったのか」


「何がだ?」


「私は武人として切腹も出来ぬ死に損ないだ」



 男はそう言って自嘲した。男には武士としての誇りがあった。だが、今の状態ではまともに腹を切ることすら出来ないことは明白だ。男にはそれが惨めでならなかった。



「私の剣はとうに折れてしまった」


「まぁ、確かにな。助けることがその者にとって必ずしも吉とは限らん。いっそ死んだ方が幸せだったのかもしれないな」



 大地はそんな男の気持ちなど他所に、剣の無い残された鞘だけを見ながら言った。それを聞いて男はまた落胆した。やはりそうなのだと。武士として死ねず、何も出来ず無様な姿をさらし続けて生きていくのだと思っていた。それは死ぬことより屈辱的だったかもしれないと大地は思ったのだ。



「だからなぜ私のような浮浪人を助けたのだ」


「……」



 大地は男に返事をしなかった。いや、出来なかったと言うべきだろうか。




「答えろ」



 男は残された右目で大地を真っ直ぐ見ながら言った。その右目には覇気がなかった。誇りも見失った男の瞳には何が映っているのだろうか?


 そんな男の眼を見て、大地は悩んだ末に言った。



「人を助けるのに理由が必要か?」


「ふっ、そうか」



 それは真心の受け売りの言葉であった。ここで初めて男が小さく笑い、大地は目を見張った。男は大地の言葉がおかしくて仕方がなかったのだ。その答えにならない答えが。それはかつて男が聞いた言葉でもあったからだ。



「何がおかしい?」


「そうだな。そなたの言う通りだ」



 男は納得したのか、それ以上何も言わなかった。代わりに再び大地の身の上話に耳を傾けた。今度は真心との父の出会いや助けられた時の出来事などについてだった。男は真心の人柄を知るにつれて興味を抱き始めたのだろう。今までの死んだ魚の目とはうって変わり、男の黒い瞳の奥には光が宿っていた。




 そして──それから三週間が過ぎた頃のことだった。男は何の前触れもなく突然と姿を消したのだ。とある痕跡だけを残して。それは──


「──ここにいくってことか」



 大地は石に刻まれた文字を見て、男がどこへ消えたのかを瞬時に理解した。



「道もなく人も寄り付かなさそうな山奥か……」



 それが男の選択した答えだ。



「大地。あのお兄さんは?」


 久しくこの地に出向いた真心が言った。


「きっとどこかに行ったのでしょう」


「そっか」


 大地はそう言いながら、かつて男が寝ていた場所に線香を焚いたのだった。


「真心様はどこか嬉しそうですね」


「それはそうさ。人の命を救えたのだからな」


 真心は屈託のない笑顔で答えた。


「あの男は罰当たりもんですぜ。なにせ礼の一つすら寄越さずどっかいくもんですから」



 大地もそう言って笑った。男はもう二度とこの地を訪れることはないであろうことを大地は確信していた。石にはこう刻まれていたからだ。



『ここにいます』



 それはその場から動かないことを意味していた。つまりこのことを知っているのは大地しかいないため、男に会うには必然的に何かしらの頼りを大地が必要とした時くらいである。生命線が断たれた武人に頼むくらいなら、他の武人を宛にするのが世の常であり、また落武者を雇うなど『富家』の恥でもある。



「行きましょう。真心様」


「そうだな。一言だけでも交わしてみたかったものだ」



 大地は真心を背負って森中を歩きだした。



「こうして真心様を背負っていると、初めてお嬢様を背負った時のことを思い出しますな」


「そうだな。あの日の大地は死相が出ていたからな」



 そんなたわいのない話をしながら、二人は帰路につくのだった。男は最後まで二人に何も語ることなく消えて行ったが、男が残したのはあまりにも大きな『代償』だった。



「これは一字一句、あの人に伝えないとな。家訓を破った真心の奴ももう終わりだ」 



 とある影は含み笑いを浮かべながら、その場を後にした。





────── それから十五年の時が過ぎた。






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