前編(王太子、猫になる?)
始まったばかりの夜会は、いきなり緊迫した空気に包まれていた。
それというのも壇上に佇む王太子が、婚約相手でもない男爵令嬢を隣に侍らせ、肝心の婚約者リーリンス・ベルシア公爵令嬢を忌々し気に睨んでいたからだ。
以前から、王太子とリーリンスとの仲がよそよそしいと囁かれてはいたが、王太子が男爵家のフラニー・ルーベ嬢を見初めてからは特に関係が冷え切り、今日明日にも婚約が解消されるのではと噂されていた。
まさか今夜がその日なのでは。
国王夫妻は外遊で不在。王宮の最高権力者は王太子。
もしことが起こっても、誰も彼を遮ることが出来ない。
居合わせた貴族たちが気を揉む中、王太子が高らかに声を張り上げた。
「我、ヴィクター・ランデルは第一王子の名において、リーリンス・ベルシア公爵令嬢との婚約を破棄──」
興奮のあまり身を乗り出したのだろうか。
宣言の途中で王太子ヴィクターは。
玉座がある階段を、踏み外した。
「!!」
ズダダダッ。
少ない段数とはいえ、盛大に滑り落ち、思い切り腰をつく。
「殿下?!」
安否を問う声がかけられる中。
打ちつけたらしい箇所を擦りながら、ヴィクターが身を起こす。
「……っつ……」
そして、言い切った。
「破棄なんて、絶対にしない!!」
「────!?」
なら、わざわざ宣言しなくて良いのでは?
逆に戸惑う発言に、周囲の者も、リーリンスも、そして壇上に取り残されたフラニーも。
続く言葉が出ないまま、思わず開けた口を閉じ忘れたのだった。
◇
(今日の殿下は不思議でしたわ)
公爵家の紋章付き馬車で揺られながら、リーリンスは夜会の様子を振り返る。
あの"婚約続行"という謎宣言のあと、ヴィクターは常とはまるで違う行動を見せた。
いつもないがしろにしていたリーリンスをとても丁重に扱い、寄り添い、称え、婚約者として完璧にエスコートした。
あんなに執心だったフラニーを放置して。
そんなヴィクターに逆切れしたフラニーが、身の程知らずにも騒ぎ、夜会から放り出されるという顛末まであった。
貴族たちは未来に安堵し、若いふたりを中心に、宴は和やかに終了したのであったが。
(でもどうして急に?)
リーリンス自身は、ヴィクターと別れたいわけではない。
むしろ距離を詰めたい。
だって、とても好きだ。
幼い頃婚約が決まって以来、"この人のお嫁さんになるんだ"と芽生えた恋心は、淡く可愛く純粋で、王子のちょっと単純おバカなところさえ愛おしいと思っていた。
疎遠になってしまったのは、ヴィクターがあまりにも好みの美形に育ってしまったから。
王妃譲りの完璧な美貌はリーリンスを激しくときめかせ、直視できなくて目をそらし、つい素っ気なく応じているうちに減った会話が誤解を招いて、あっという間に悪循環に陥った。
なんとか拗れを修正したいと思っていたところに、フラニーがあらわれ、ないことないことを告げ口されて、気づくと嫌われてしまっていた。
したがって今夜のことは望ましい展開ではあるのだが、疑問を禁じえない。
なぜ突然、彼は態度を変えたのだろうか。
(今日の出来事は、絶対ニィーニに聞いて貰わなくちゃ)
ヴィクターと会った日は、毎回飼い猫相手に反省会を開いていた。
愛猫を思い浮かべながら公爵邸に帰宅したリーリンスを待っていたのは、またも予想もしてない事態だった。
「どうしてニィーニを檻に入れているの?」
問いながら、リーリンスは目の前の惨状にあっけにとられる。
調度品の数々が傷つき、クッションからは羽毛がこぼれている。
使用人たちはいくつかの生傷のもと、部屋を片付けているところだった。
なんでも、いつも大人しい猫ニィーニが突然が暴れ回り、屋敷を飛び出そうとしたらしい。
もし迷子になったらリーリンスお嬢様が悲しむ。
大変だ、と総出で止めにかかり、どうにか檻に押し込んだという話だった。
猫はといえば、いまも檻の中で鉄格子をひっかき、始終、出せ出せと主張している。
こんなことは初めてで、驚きながらもリーリンスは優しく声かけた。
「ニィーニ、一体どうしたの?」
シャッ!!
差し出した指をいきなり引っかかれ、白い肌に赤い血が滲み出る。
「お嬢様!!」
メイドが慌てて声を上げた。
リーリンスも目を丸くする。
ニィーニが彼女を攻撃したことは、これまで一度だってない。
リーリンスが生まれた時から傍にいたニィーニは、17年間、リーリンスのことを妹のように気遣ってくる穏やかな"兄"猫だった。
「どうしたのかしら。まるで別猫みたい……」
(わたくしが夜会に出かけるまでは、いつも通り静かに寛いでいたのに)
わからないけれど、夜も遅い。
明日も興奮が続くようなら医者に診せようとの結論になり、傷の手当てをして、リーリンスはベッドに入った。
さらにその翌朝に、"王太子ヴィクター"が花束を抱えて訪問してくるなど、思いもよらなかったから。
◆
(これは一体どういうことなんだ!!)
ヴィクターは、混乱の最中にいた。
自分は確かに夜会の席にいたはずだ。
可愛げのない婚約者、リーリンス・ベルシアに絶縁を叩きつけるため、意気込んでいたのに。
いざ破棄を申しつけようとした途端、"見えない何か"に足を大きく引っ張られた。
バランスを崩し、段を落ちた、と思った直後、目を開けたら別の場所にいて。
そこが何度か訪れたことのある、公爵邸の一室だと気づいた時は夢だと思った。
続いて、自分が猫になっているとわかり、それが現実だと確信した後は、大混乱した。
良からぬ者の"術"にでも絡みとられたか。
急ぎ身を明かし、王宮に伝えて、元の姿に戻らなくては。
慌てて屋敷の使用人たちに命じたが、出てくる言葉は猫の鳴き声。
公爵邸の使用人は俺が王太子だと気づきもしないで、右往左往するばかり。
埒が明かんと部屋を出ると、今度は捕まえにかかった。
さては公爵家がらみの陰謀か!!
焦り暴れるうちに捕まってしまい、檻に閉じ込められた。
間違いない。ベルシア公爵家の反逆だ。
俺を猫にしたのは、公爵家の陰謀だろう。
そのうちに、のんきな顔をしてリーリンスが帰宅した。
わかっているくせに猫姿の俺を覗き込み、「どうしたの」などと、白々しい問いを発する。
(お前が悪女であることは、フラニーから聞いてよく知っている。これまでさんざんフラニーを虐めたことも。俺にまで手を出すとは、大それた事を!)
一矢報いてやろうとした爪は、ケージに阻まれ、ろくに届かなかった。
俺がいなくなったら、王宮で騒ぎが起こるはず。
城の魔術士たちも気づいて、すぐに迎えが来よう。
事を明るみにし、必ず公爵家を潰してやる。
煮えくり返るはらわたをなだめつつ、檻の中で一夜を明かした翌朝、ヴィクターは絶望ともいえる光景を見た。
目の前に自分が。紛れもないヴィクター・ランデルが立っていた。
公爵家を訪問した"俺(の身体)"は、明らかにめかしこんで、大きな花束をリーリンスに渡している。
にこやかな笑みを満面に湛え、リーリンスに昨夜驚かせてしまった詫びを述べている。
その内容から、婚約破棄がなされてないと判明した。
それどころか、あろうことか"俺"が!
夜会でリーリンスと仲睦まじく過ごしたらしいと知る。
待て、ならフラニーはどうしたんだ?
俺のフラニーは!
「これまで寂しい思いをさせてすみませんでした。俺の非礼を許してくださいますか?」
"俺"が、俺の声で、リーリンスに柔らかに告げている。
(やめろ! 何をしている!! お前は何者だ!!)
「ニャーッ!! ニャーニャーニャー、ニャアアア!!」
檻の中で叫んでいると、リーリンスと"俺"がこちらを向いた。
「ところで、あの猫は? どうしたのですか?」
"俺"が問う。
「あ、わたくしの大事な飼い猫なのですが、昨夜から様子がおかしく暴れますもので……。無茶をせぬよう、やむを得ずケージに入れております」
"いつもは屋敷内で自由にさせているのですが……"。
目を伏せて、悲しそうにリーリンスが答えている。
その様子が演技には見えず、思わず目を疑う。
(中身が俺だって知ってるはずだろ。わかっていて閉じ込めてるくせに)
俺が猫にされるという陰謀が、リーリンスのせいなら。
(……まさか本当に知らない、のか?)
なら、誰の仕業だ?
王太子業には敵が多い。
どいつが俺を都合よく排除しようとしたのか。
疑わしき犯人候補たちを脳裏に浮かべていると、リーリンスが言った。
「ニィーニは。この猫は、わたくしが生まれた時から居てくれた兄のような存在です。大切な猫なので見ていると痛ましく、原因がわからないので獣医を呼ぼうと考えておりました」
リーリンスとは長いが、彼女のプライベートは殆ど知らない。
関心がないから、猫を飼っていたことも昨日初めて知った。
いやそれよりも。
(リーリンスが生まれた時から? 彼女は17歳だぞ。つまり17年以上?! 待て待て。猫の17歳といえば、老猫じゃないか。寿命は大丈夫なのか? 感じるところ体に不具合はないから、急にポックリということはないだろうが、冗談じゃないぞ)
早くこの猫の身体から脱しなくては。
だが俺が"俺"として存在している以上、城抱えの魔術師たちが気づくのは遅れそうだ。
おまけに閉じ込められていて、猫の声しか出せない。どうやって外部に連絡を取れば……。
悩んでいると、人間の"俺"が近づいてきた。
檻を覗き込むように、身をかがめる。
「原因なら……。何か魔力の影響を受けた痕跡がありますね」
(何!! わかるのか?!)
「わかるのですか? ヴィクター殿下」
俺とリーリンスの反応は、ほぼ同時だった。
(よくぞ聞いた、リーリンス!)
俺の気持ちを代弁したかのようなリーリンスに、人間姿の"俺"が答えるには。
「漂う魔力を感じます。もしかすると魔獣を仕留め、体内の魔石ごと食べてしまったのかもしれません。魔石の効力は薄れてきているようなので、二週間ほどで消えるでしょう。いつも通り接するうちに、猫も落ち着くと思いますよ」
(落ち着くか──!! 俺は"猫"じゃない!!)
くっ、駄猫め! 魔石だなんて、小型の魔獣でも狩ったのか?
魔石の中にはいろんな効果を持つものがある。珍しい魔石なら、こんな現象もあるのか?
だが、なぜそれで会ったこともない猫に、俺が取り込まれるんだ。
とりあえず魔石効果は、永続的でないものが殆ど。
今回の見立てが"二週間で消える"ものなら、俺が元に戻れる日は遠からず来ると言うことだ。
まさか猫として定着して、大人しくなるという意味ではないだろうと信じたい。
にしても二週間とは。結構な長さじゃないか。それまで檻の中なんて嫌だぞ。
「いつも通り、ですか?」
リーリンスが首を傾げながら呟く。
「ええ、いつもはどうされていますか?」
「いつもでしたら……、料理長が猫用の食事も用意して、後は自由に過ごさせ、わたくしの話相手になって貰ったりしていますわ」
「話し相手?」
「あ、いえ、話しを聞いて貰っているという意味です。膝の上だったり、ベッドの中だったり」
(なに?!)
「それからお風呂に入れたり、ブラッシングしたりしております」
(ま……待て。膝の上? 風呂? リーリンスと?!)
俺はもちろんフラニー一筋だ。
婚約相手はリーリンスだが、親が勝手に決めたこと。
心を捧げた相手は、自分で見つけた恋人、フラニーだけ。
フラニーを裏切るような行為は、控えねば──。
波立つ心に、己の意志を固めていると、人間な"俺"が言った。
「それは良いですね。ぜひ穏やかに過ごさせてやって……。ああでも。一緒のお風呂とベッドは避けておきましょうか。俺が妬いてしまう」
(お前っ、俺の口を使って何を言ってるんだ)
目が点になりかけたヴィクターは、対するリーリンスの反応でさらに一時停止した。
(真っ赤……だって?)
顔を背けた彼女が、人間姿の俺からは見えないだろう死角で、盛大に赤面していた。
いつもの自分なら、"無言でそっぽを向かれた"と受け取ったであろう行動。
なのに、まるで嬉しさを噛み締めるかのような表情で、照れを押し隠している。
(──あんな顔、初めて見た)
まるで無垢な少女そのものなリーリンスの様子は、フラニーから聞いていた"男遊びを重ねている女"のようにみえない。
もし男を喜ばせるための赤面なら、わざわざ顔を隠さないだろう。
男と見ればすぐに色目を使うのがリーリンスだと、彼女はそう言っていた。
自分を縛りつける《婚約相手》の存在を厭い、だから俺と目も合わせないのだと。
俺がリーリンスにとって、"気になる男"の範疇外なのは、腹立たしかった。
そんなに男が漁りたいなら、望み通り婚約を解いてやると憤慨していた。
なのに、これはまるで。
(俺に好意があるみたいな反応じゃないか)
呆然とケージの中から見ていると、人間姿のヴィクターが頷いた。
「ああ、"猫"もだいぶ大人しくなりましたね。これならよく言って聞かせれば、ケージから出してやっても大丈夫かもしれません。けれど、あなたの綺麗な指に傷をつけるなんて」
昨晩、俺がひっかいた部分に目を止めたらしい。人間な"俺"が、剣呑に目を細めた。
「もしまたそんなことをすれば、二度と望む場所に戻れないと知るべきでしょうね」
(! いまの含みのある言い方、お前まだ何か知って──。あっ、待て! 帰り支度をするな)
「ニャアァァァ──!!!」
俺の制止をよそに、人間な"俺"はリーリンスに挨拶をすると、政務があるからと公爵邸を出ていく。
(何が政務だ!! "俺"が俺を置いていくな! 戻れ──っっ!!)
「ニャアアアアア──ッッッ!!」
虚しくも猫の言葉は、誰にも届かなかった。