フーゴとリヤ(1)オコタン
ある日、高原で羊飼いのフーゴが草を食む羊たちの様子を見ていると、後ろで小枝の折れる音がした。シャモアだろうと思い振り返ると真っ白いオコジョがすっ飛ぶように逃げて行くところだった。
珍しいな、雪の時期なら白いだろうがもう今は夏毛になっている頃だろうに。
オコジョは冬は白いが夏はお腹の白を残して背側は茶色になるのだ。
次の日は断崖を超えたところの草原にまで来ていたが、ふと顔を上げるとまたオコジョが居て、後ろ足で立ちゴロゴロある岩に手をかけて背伸びしてこちらを見ていた。
可愛らしいのでつい、しゃがんで猫にするように手を差し出しチチチと呼んでみた。こんなことで野生の動物が近寄ってくれるとは思えないが。
予想に反してオコジョはチョロチョロと隠れたり顔を覗かせながら用心深く寄って来てフーゴの手をクンクンしている。
「俺の手をかじるなよ。かわいい子だ。羊たちもかじってくれるな」
声で驚かせてしまったのか、オコジョは反転するとピューっと一瞬で逃げ去ってしまった。
「あーあ、せっかく近くに来たのになぁ」フーゴはとても残念に思った。
だが、お昼を食べているとまた先ほどのオコジョがこちらを木の陰から覗いて伺っている。
その仕草の可愛いことと言ったら、もうたまらない。
なんだそれは!これはもう仲良くなるしかないだろう。
また猫にするようにチチチと呼ぶと、うーん、どうしようかなとでもいうように木の幹に手をかけて首を捻って考えている様だ。まるで人みたいで思わず笑ってしまう。
それからオコジョはまたチョロチョロと寄って来た。
フーゴの手をクンクンしてペロペロと舐める。
お腹が空いてるのかと聞こうとして止めた。せっかく傍に来たのにさっきみたいに逃げられては勿体無い。
根気強くオコジョが安心してリラックスするのを待った。
オコジョはフーゴの座っている足に前脚を乗せてきて背伸びするように顔を見上げてくる。
恐れさせないように、さっきオコジョが舐めていた指の背でそっと首の辺りから背中を撫でてやると気持ち良さそうに首を伸ばしている。少しは慣れてくれたっぽい。
こうしてフーゴとオコジョの交流が始まった。
それ以来、オコジョはどこからともなく現れて傍に来ては膝に乗ってきたり、クルクル跳ね回って遊んだりとフーゴを楽しませ和ませてくれる。
もうすっかり慣れて不容易に手を伸ばしても驚くことも無い。
やがてフーゴが羊達を連れて移動するときも付いて来るようになった。
羊をまとめて歩かせるのに忙しく働く牧羊犬のブリアードたちは警戒心が強く余所者には吠え付くものだが、このオコジョには吠えたり噛みつこうとしたり全くしない。
フーゴが可愛がってると分かるらしい。もともと賢いと思っていたが、フーゴが思っていたよりもっと牧羊犬は賢いようだ。
いつものように夜明け前から高原に連れて行き羊達に草を食ませ山小屋の辺りに下りて来た。
今日はゴロゴロと遠くで雷鳴がして天気が悪くなりそうだったので、オコジョも懐に入れて山小屋に連れ帰った。
フーゴが春から秋にかけて独りで寝起きしている山小屋は2つある、ここともっと奥の山にもう一軒。羊たちに食べさせる草の状態によっては奥の山小屋に移動することもある。
どちらもこの辺りにある岩を利用して作られていて暖炉はあるが村で生活する時と比べると必要な物はほとんど無いと言っていい。だけど頑丈で雨風はしのげる。
小屋に入った途端にバケツをひっくり返したような大雨が降り出した。
「ちょうど間に合った。オコジョよ、雨でずぶ濡れにならなくて良かったな」そう言って懐からオコジョの脇に手を入れて出してやった。
「ほんとにお前ってかわいいよなー、オコジョって何を食べるんだろう?草って感じじゃないな。取り敢えず乳をやっとくか」
標高2300mにある山小屋。1200頭の羊は村人たちから預かったものだ。5頭のヤギは荷物運び兼食料として帯同させている。まだこれに手を出すわけにいかない。
犬の餌の肉は余分にないのでやれないし。フーゴの為の食料は豆、ライ麦の粉と燕麦、人参と玉ねぎ、ニンニク。塩分の多い干し肉に干し魚、干しぶどう、羊の乳とチーズくらいしかないのだ。あとは山野草や木の実など現地調達だ。
どれもオコジョに食べさせるには合ってなさそうだ。
「うーん、食べ物は自分でなんとかしてもらわないとな」
オコジョは小さなボウルに羊乳を入れてもらってペロペロと飲んでいる。
「一緒にいるなら名前がいるか、オスかメスか分からないけどオコジョだからオコタンにしよう」
オコタンという名前に特に意味はない。
牧羊犬のリーダー黒毛の名前がタンタンだったから、そのノリで決めただけだった。他の牧羊犬は茶毛でアンブルとオーブリーだ。
「オコタン、行こうか」
今日もオコジョのオコタンに声をかけ、山小屋を出る。冷んやり湿った空気の中、空が白み始めた。
フーゴのかける優しい声に呼ばれオコジョはスルッとドアを抜ける。
オコタンはすっかりフーゴのかわいいペットだ。
牧羊犬達は仕事の相棒で強い信頼関係で結ばれているが、愛玩動物ではない。
オコタンはフーゴがチーズを作ったり、薪を割ったりと忙しく立ち働く姿を目で追って岩陰やベッドの影に隠れてはまた顔を覗かせチョロチョロと走り回る。
フーゴが座ると膝にきて、フーゴが寝るとベッドに入ってくる。
村じゅうの羊を預かる責任や、昼も夜もヒグマや狼に羊達が襲われないように気をつけなければならない緊張感、羊を連れて歩く以外にもある沢山の仕事は力仕事も多く過酷だ。それに孤独。それらもオコタンがいればなんなく乗り越えられる。そんな気がする。
ある夜、ベッドに入り部屋の灯りを消した。少し遅れてオコタンがフーゴの布団にスルッと潜り込む。
「おやすみ、オコタン」
よく見えなかったけれど、そう言ってフーゴはオコタンにキスをした。
「きゃっ」と声がして、オコタンがバタバタと暴れてベッドから出ていった。
今のは何だったんだ、まるで女の子みたいな鳴き声だった。オコジョがキャッと鳴くのは今まで鳴くのを聞いたことがなかったから知らなかった。
驚かせたんだろうけど、キスして逃げられたみたいでちょっと寂しかったフーゴだった。
「オコタンにフラれたか、好かれてると思ってたんだけどなー。まあいい、おやすみ」寂し紛れにそう言って布団を被った。
暗闇の中でフーゴは寝返りを打ってそのまま眠ってしまったが、フーゴにキスされてうっかり人の姿になってしまい急いでベッドから下りて床にヘタリ込んだ、うっすら白く輝くオコタンこと雪と氷の大精霊、氷の女神がそこにいた。
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