海と摩天楼 第6部 終章
□第6部 終 焉
◇42 ポセイドン
摩天楼四十五階から望む空は青く、それを映す海はこの季節特有の深い青をたたえて波立っている。
戸部進が若い日に目指した社会は、まさに海だった。巨大な鯨からプランクトンに至るまでの生体系が見事に連環をなして弧を閉じている社会だった。そこに生きてあるすべてのものは、命を保つに必要なもののみをはむ以外は、何ものも所有せず、何ものも支配しない。海はあらゆるものを自然の摂理の下に押しなべる。戸部が青春の一時期に描いた理想の社会は、そういう社会だった。
海を長大な釣り橋が横切っている。海を横切る橋、そこを行く車、いま戸部が身を置いている摩天楼、その無数の窓々のガラスの一枚一枚、壁に貼られたタイルの一枚一枚までが、人の手によって作られたものだ。そして、それを作った多数の人々の営みこそ、社会を構築する営みであり、その社会を統べるものこそ政治なのだ。地上に文明を築いて生活を営み続ける人間は、海の連環の中に生きることはできない。
かつて相川守は、政治の最大の使命は国の平和と繁栄だと言っていた。その平和と繁栄を遂げたこの社会を統べる政治の安定を守るためには、権謀術数を尽くしても、それを乱し、覆そうとするものと闘わなければならないのだ。
先日の二人の刑事の訪問以来、不安が戸部の心底に淀んでいた。最悪のケースを想定する。すなわち、志村が女子大学院生殺害容疑で逮捕され、その捜査の過程で相川貴和子との関係が明るみに出る。そのスキャンダルが、テレビのワイドショーや新聞、週刊誌等を賑わす。
いまは与党のプリンセスとして脚光を浴びている相川貴和子も、それほどのスキャンダルにまみれては、政治生命を全うすることは困難だろう。集中豪雨のような取材攻勢と報道の後には、見る影もなく踏みにじられた相川貴和子が、無惨な姿で地上に横たわっているかもしれない。そんな事態だけは何としても避けなければならない。
戸部は、相川守の秘書の時代から、失脚した代議士を何人も見てきた。贈収賄事件で、政治資金絡みの事件で、前途ある代議士が何人失脚していったことか。
最悪の場合、貴和子もまたそういう運命をたどることになりかねない。妻子ある大学准教授との恋に走っていることが露見するだけでも、ダメージは大きい。その上、その相手が殺人犯であったとしたら、これはもはや弁明の余地も、救済の手立てもない。
解散は明日に迫っている。戸部は、どのように思いめぐらしても暗い淵に落ちていく思いの糸を断ち切ろうと、受話器を取った。新政会事務総長の本堂政憲に、至急会って相談したい用件がある旨申し入れた。本堂は二時間後、新政会の事務所がある赤坂のホテルで会うことを約束してくれた。
戸部は車で赤坂のホテルに向かった。自分の要件が、回り回って静岡県警に届くことを戸部は知っていた。長く権力を掌握してきた与党の行政機関への支配力は、海辺の小さな町の警察署へも及ぶはずだった。
解散を翌日に控えて、新政会事務局に人影はなかった。部屋に入ると、選挙を目前にして、二人の女性の事務員以外、人の姿はなかった。戸部が来意を告げると、一方の事務員が戸部を奥の部屋に案内した。
案内された部屋には、本堂の姿しかなかった。戸部は、早速本堂に用件を告げた。
「おい、戸部さんよ、しっかりしてくれよ。明日解散だぞ。貴和子ちゃんにもしものことがあったらどうする。相川家だけでなく、我々の新政会も与党も大変なダメージを受ける。この時期に、与党の候補者が殺人容疑で逮捕でもされたら、選挙に負けて政権を失いかねないぞ!」
戸部の話を聞き終えた本堂は、渦巻く白髪を震わせて言った。大きな目には、怒りが漲っていた。その形相は、まさに怒れる海神だった。
「申しわけございません」と戸部は詫びた。
「相川守も、君を見込んで第一秘書にとり立てて、貴和子ちゃんを託したんだ。とにかくしっかりやってくれ。手は打っておく」
本堂はそう言うと、不快そうに戸部から顔をそむけ、机上の書類に目を落とした。
「志村の今後の処遇は、どうなりましょうか」
戸部は怒れる海神に尋ねた。
「本来なら当然立候補を辞退させるところだな。しかし、明日にも解散ていうんじゃ、それもできんだろう。マスコミの餌食になるばかりだ。いまの時点でこんなことが明らかになったら、党は本当に政権を失いかねん。仕方がない、選挙戦を戦わせて、警察の出方を見て、もし逮捕されるようなことがあれば、当落にかかわらず即刻除名処分にして辞職させるしかないだろう。いま候補を下ろしたら、すぐに警察に逮捕されるかもしれんから、それはまずい。とにかく選挙が終わるまでは、すべてを伏せて従来どおり事を運べ。現在の情勢では、我が党が選挙に負けることはないだろう。選挙に勝ちさえすれば、あとはどうにでも始末はつけられる」
書類から顔を上げた本堂は、苦りきった表情で言って、さらに、
「それから、この話は党執行部にも、新政会のほかの連中にも、絶対内密にするんだぞ。あとのことは俺が何とかいいように運ぶ。あんたはとにかく貴和子ちゃんを守ってくれ」と、戸部にしっかり釘を刺した。
「承知しました。申しわけございません。よろしくお願いします」
戸部はそう言って、新政会事務局を後にした。
本堂政憲から戸部宛に電話があったのは、その日の深夜だった。
「本堂だが、打つべき手は打った。相手が警察じゃ、指揮権発動でもしないと捜査そのものを潰すわけにはいかんから、どこまで効果があるかはわからんぞ。貴和子ちゃんによろしく伝えてくれ」
そう言って、ポセイドンは一方的に電話を切ってしまった。
戸部は信号音の鳴る受話器を置いて深い嘆息を漏らした。
◇43 署長室
その日の新聞の朝刊には、 「衆院、今日解散」という大見出しが打たれていた。武田が下田の自宅でその新聞を流し読んで、刑事課に顔を出すと、
「武田さん、署長がお呼びです」と坂田康子が伝えた。
「署長がお呼び? ありがとう」
そう言って武田は二階の署長室に向かった。
署長室には、署長のほかに副署長の森山と刑事課長の大橋の姿があった。署長の大型のデスクの前に、長方形のテーブルを挟んでソファが並んでいる。そのソファに副署長と刑事課長が対面して座っていた。
「おはようございます」
武田が朝の挨拶をしながら入って行くと、
「おはよう、元気そうだな。まあどうぞ」
署長の海老名は武田にソファをすすめた。
武田は揃っている顔ぶれからして、ろくな話ではないだろうと思いつつ、末席のソファに腰を下ろした。
「君がいま捜査してる例の女子大学院生の殺しの件だが、捜査はどの辺まで進んでる?」
署長が武田に尋ねた。署長の海老名は、武田と同じ年齢の県警キャリア組の男で、眼鏡をかけた細面の顔が、いかにも役人くさい男だった。何度か開いた捜査会議の内容は、刑事課長の大橋から副署長の森山を通して署長に上がっているはずだった。
「間もなく逮捕状を取ろうと思っています」
武田は答えた。
「ホシは誰だ?」
「志村隆行元S大学准教授です」
「捜査経過を説明してくれるか」
署長はすでに承知しているはずのことを武田に尋ねた。武田は犯人を志村に絞り込むまでの経過を説明した。
「物証は携帯電話の交信履歴と、道路の監視カメラの記録だけか」
海老名が顔を曇らせて言った。
「それと、被害者が殺害された前後の志村の行動の供述が曖昧で、アリバイがありません」
「そうか。それだけで検察が受けてくれるかな。立件して、公判を維持できるかだ。相手は与党の衆議院議員候補だからな。今日、解散だろう」
この署長の言葉が、武田の不快感を一気に増幅させた。
「与党から圧力でもかかりましたか」
武田は署長と二人の上司の顔を見回して言った。
「そんなことはないよ、武田さん」
署長は慌てた様子で言った。
「そうでしょうね。一課が扱う刑事事件に、政治家から口を挟まれちゃかなわない」
「全くそのとおりだ」
海老名は愛想笑いを浮かべて言った。
「ところで、この志村という男、選挙で当選しそうかい」
「わかりませんが、有望のようですよ。二枚目で、一流大学の元准教授で、後ろには与党のプリンセスがついていますからね」
「与党のプリンセス?」
「相川貴和子ですよ」
ここで署長は、しばらく考える素振りをしてから口を開いた。
「いくら与党でも、一課が扱う殺人事件に口をさし挟むことはないし、断じてあってはならんことだが、そんな大物が絡んでいるとはな。特に選挙前ということもある。くれぐれも慎重にやってくれ」
「慎重にというのは、どういう意味ですか」
武田には署長の意図はわかっていたが、皮肉を込めて尋ねた。
「もちろん解決に向けて尽力してほしい。それが我々警察の務めだ。しかし、選挙妨害の何のと言われたくないんだ。政治家は、この時期がいちばん気が立ってるからな。選挙の後の選挙違反の摘発じゃないが、できれば選挙前や選挙中に挙げるようなことのないように頼むよ」と、署長は言った。
「相川貴和子と志村の関係については、くれぐれも外部に漏れないようにやってくれ。相川貴和子はこの事件には無関係なんだから」
それまで黙って二人の話を聞いていた副署長の森山が言った。
「わかりました。そのように心がけます」
答えて、武田は苦い怒りを抑えつつ席を立った。
「それから、選挙が終わるまで、この件については絶対にマスコミに漏れるようなことのないように頼むよ。安藤にもよろしく伝えてくれ」
追いかける署長の言葉を背後に聞いて、武田は署長室を出た。
確かに相川貴和子は、この事件に直接かかわってはいない。殺害された女子大学院生のことなど、全く知らないだろう。しかし、志村がこの犯罪を犯すに至った動機の中に、相川貴和子は決定的な役割を果たしているはずだ。法律というものはおかしなものだ。そういう者に手を伸ばしてまで、罪を問うことはしないのだ。
その日、武田は一日中、苦い思いを噛み絞めなければならなかった。誤算だった。浅野冴子殺害の容疑者を志村に絞り込み、逮捕状を地裁に請求しようとする出鼻をくじかれた。これで、選挙前に志村を逮捕する可能性はなくなった。被疑者を見張りつつ、選挙が終わるのを待たなければならない。もし、当選でもすれば、国会開会中の議員の不逮捕特権という厄介なハードルを越えなければならないことになる。
◇44 解 散
「憲法第七条により、衆議院を解散する!」
衆議院議長が、官房長官から手渡された解散証書を高らかに読み上げた。議場に歓声が湧き起こった。一群の議員たちは万歳を三唱していた。失職した議員たちは一目散にそれぞれの選挙区に走る。
相川貴和子が議場を出ると、待ち構えていた記者たちが周りをとり囲んだ。
「相川さん、この選挙に向けての決意をお願いします」
まばゆいライトと何本ものマイクが相川貴和子に向けられる。
「人事を尽くして天命を待つかしら」
貴和子は涼しく言って、記者たちに囲まれたまま廊下を歩いた。
「前回は七十パーセントでしたが、今回の目標得票率は?」
「さあ、それは選挙民の皆さんがお決めになることですから、とにかく当選に向けて精いっぱい闘うだけです」
そう言って相川貴和子は議事堂を出て、待っていた車に乗り込んだ。貴和子にとって、自分のことはさて置いて、与党の他の候補の応援に走り回らなければならない選挙戦だった。志村の当落が、貴和子にとって最も気がかりだった。訪ねてきた刑事が語った殺人事件の影は、解散を迎えて、貴和子の胸から吹き飛んでいた。あり得ない、あってはならないことは、自分をとり巻く人々の間にあろうはずはないと、貴和子は確信していた。
志村が政見放送用のビデオ撮りを終えたのは、解散の二日後だった。公示後では間に合わないので、予め立候補予定者の同意の上で、公示前にビデオ撮りをするのだという。隆行は流行の対談形式をとったが、ここに相川貴和子に登場してもらうわけにもいかず、党支部からの推薦を受けて、選挙区内に住む一般の主婦二人に登場してもらった。
選挙区の商工会、土木・建設業組合、建築業組合、医師会、商店会、その他の業界団体、党を支持している宗教団体まで、隆行は精力的に挨拶回りをした。おびただしい握手。 「よろしくお願いします」 「頑張ってください」 「ありがとうございます」のやり取りのくり返しが朝から夜遅くまで続いた。
解散から九日後の公示を経て、選挙戦が始まった。与党が開いた新人候補者に対するレクチャーの席で、講師を務めた議員秘書の一人が、
「選挙は戦挙、戦いですからね」と言っていたが、まさにそれはすさまじい戦いの日々だった。
「皆さん、いま子育て中ではありませんか。生活はどうですか。楽でしょうか。皆さんとても大変だと思います。そうです。いまの時代は、子育てをして真面目に働いている三十代、四十代の人たちが、家庭をしっかり築いて、国の少子化を食い止めている人たちが、低所得と、子育てにかかる重い負担に苦しんでいる時代なのです。そうであってはいけないと私は思うのです。そういう苦労をしている人たちこそ報われなければいけない。税金の優遇措置も、社会福祉の手当も厚くなければいけない」
党の政策、公約に反することを言ってはいけなかったが、志村隆行はこの話を軸に、二週間を戦い抜いた。聴衆の反応はまずまずだった。地区の党支部が動員した聴衆の何倍もの人々が、足を止めて志村の話に聞き入ってくれた。
公示日から投票日まで二週間。その間、相川貴和子は二度、志村とともに選挙カーに乗って街頭に立った。異例なことだったが、選挙の喧騒は人々にそれを異例と感じさせなかった。
戸部は、先の刑事の訪問以来、貴和子が志村に近づくことを阻もうとして、貴和子に志村とは距離をとるように注文をつけたが、貴和子はそれを無視した。選挙の間、二人の女性秘書は貴和子について離れなかったが、戸部は貴和子が不在の選挙区にはりついていなければならなかった。
「皆さん、志村隆行候補は経済学のエキスパートです。いまの不況の長いトンネル状態を脱け出すには、志村候補のような経済のエキスパートに議員になってもらうのがいちばんです。志村隆行さんをよろしくお願いします!」
駅前の広場に集まった大勢の聴衆は、志村に対するより何倍もの拍手を相川貴和子に送った。
貴和子は、四十五階の事務所とは別に、横浜駅にほど近いビルの一階に選挙事務所を開いていた。父の時代からの事務所だった。しかし、横浜の自分の選挙区には最初の公示日にだけ行って、あとは党の選挙対策本部の要請を受けて、北海道から沖縄まで応援に奔走していると隆行に語った。真冬にもかかわらず、上気した貴和子の表情が、隆行には眩しかった。多忙になればなるほどエネルギーが湧いてくるような貴和子の姿は、政治家としての天賦の才を感じさせた。
静岡県警伊豆南署の武田刑事は、演説する志村と相川貴和子の姿を聴衆のいちばん後ろから見ていた。端整な顔立ちの元大学准教授は、冬の街頭でコートを着ることもなく、左手にマイクを持ち、右手を上下左右に振りながら、車の上で演説を続けている。その姿に、殺人事件の被疑者の影は微塵もなかった。選挙が終わるまでの二週間、武田と安藤は、遠くから志村を見張るしかなかった。
選挙が終盤戦に入って、隆行の父が自殺に至った事件について、洗いざらい書いた怪文書が選挙区内のあちこちに撒かれていた。
その情報を聞きつけた貴和子が電話をしてきた。
「あまり気にしなくていいわよ。党の選挙対策本部の分析には、東京X区は野党の現職候補よりあなたのほうが優勢だって出ています。頑張って戦い続けて!」
電話口で、貴和子は大きな声で隆行を励ました。隆行は改めて相川守の娘に感心した。
投票日、午前中に投票を済ませた志村は、自宅マンションと選挙事務所の間を行きつ戻りつしていたが、夕方には予約しておいた選挙事務所にほど近いホテルの一室に入った。
落ち着かなかった。志村の相手は野党の長老で、労働組合の固い組織票を持つ現職議員だった。
八時に投票が締め切られて間もなく、 「神奈川X区で相川貴和子さん、当選確実です」というアナウンスがあった。開票率はわずかだったが、出口調査等で、選挙区内の票を満遍なく集めて圧勝だと報じていた。記録的な得票率になるかもしれないという予想まで出ていた。
一方、志村と野党の現職候補の争いは、十一時を回っても決着がつかなかった。追いつ追われつのデッドヒートで、NHKも民放も、なかなか当確を出さない。志村は、一人ホテルの部屋にいて、少しでも自分に有利な情報はないかと、開票速報を流しているテレビのチャンネルをあちこち変えては室内を歩き回っていた。のしかかる重圧感に、じっと腰を下ろしていることができなかった。
十一時半、とうとうNHKが東京X区の当確を出した。開票も終盤を迎えて、与党がほぼ従来どおりの議席を獲得し、解説者が各党幹部にコメントを求めている最中、チャイムが鳴って、
「激戦が続いていた東京X区の決着がつきました。与党の志村隆行さん、当選確実です」という女性アナウンサーの声があった。志村はこもっていた部屋を飛び出して選挙事務所に走った。
「万歳、万歳、万歳!」
事務所に集まった人々とともに、志村は双手を挙げ、選挙参謀の永川はじめ、集まったスタッフや支持者と喜びの握手を交わした。
このとき志村は、戸外の報道陣や支持者の人込みの中に、二人の刑事の姿があることには全く気づかなかった。
翌日、志村隆行は選挙管理委員会から当選証書を受け取った。
◇45 不逮捕特権
開票の翌朝、武田と安藤は泊まっていたビジネスホテルを出て志村隆行事務所に向かった。国会開会まで一週間しかないという思いが、二人の刑事を駆り立てていた。前日、武田は伊豆南署の大橋刑事課長宛に応援の派遣を要請していた。
憲法には総選挙後三十日以内に特別国会を召集しなければならないという定めがある。今回は一週間後に特別国会を召集するという発表があった。もし国会が始まってしまえば、国会議員になった志村は開会中の不逮捕特権を帯びることになる。国会は夏まで続くだろう。もし国会開会中に逮捕しようとすれば、国会に逮捕許諾請求をして議決による許諾を得なければならない。司法当局は、特別国会の開会直後に、殺人事件で、それも与党議員について、面倒な手続きを要する逮捕許諾請求などしたくはないだろう。
武田は、先の事情聴取の際に聞き出した志村の携帯電話に何度かコールしたが、つながらなかった。
事務所に電話をすると、
「ちょっと連絡がつきませんで」と、事務員らしい女性の声が当惑気味に答えた。
それでも二人は渋谷の志村隆行事務所に向かった。当選が決まった翌日の事務所には祝賀の気分が溢れ、出入りする人々の表情は明るかった。
二人は応待に出た事務員に来意を告げ、連絡がとれるまで事務所で待たせてもらうことにした。
志村が浅野冴子を殺害したという証拠は、凶器等の決定的な物証もなければ、目撃証言もない。被害者が溺れて死亡した十一月二十九日の夜、志村と被害者は下田のペンションで会っていただろうこと。被害者の死亡推定時刻と志村が下田にいた時間がほぼ重なること。そして、諸々の事情から、志村は浅野冴子を殺害しただろうという状況証拠があるだけだった。
志村の自宅や事務所を捜索する必要はある。伊豆南署からの応援が到着し次第、今日明日中にしなければなるまい。しかし、そこで浅野冴子の携帯電話や電子手帳、あるいはワインの瓶が出てくるとは思えない。頭のいい志村のことだ、記録等の証拠も含めて周到に始末してしまっているだろう。
東名高速から熱海、熱海から下田に至る道路に設置された監視カメラが、十一月二十九日から三十日にかけて、志村のシルバーメタリックのBMWが、最初は下り線を、ほぼ五時間後に上り線を走行している様子を捉えていた。高感度カメラは、車のナンバープレートまではっきり写していた。
おそらく走行中に浅野冴子と連絡をとったのだろう、その時間帯に交わされた携帯電話の交信履歴もある。間違いなく、志村はこの夜、下田で浅野冴子と会っていたはずだった。会って、浅野冴子をボートに乗せ、海に突き落とした。
しかし、その犯行の核心部分を裏付ける証拠を、武田と安藤はまだ何一つ挙げてはいなかった。どうしても志村から、
「私が浅野冴子をボートに乗せ、殺意をもって海に突き落として殺害しました」
という自供を取らなければならなかった。
先に合同捜査会議を開いた際、地検の担当検事も、
「相手が与党の議員では、もっとしっかりした証拠がないと立件できないよ。目撃証言や物証が無理なら、何とか自供をとってくれ。まさか、逮捕はしたが最後まで否認し通されて、証拠不十分で釈放なんていうわけにはいかないからな。そんなことになったら、地検も伊豆南署も切腹ものだ。起訴しても公判を維持できないだろう。無罪判決が見え見えで代議士を起訴するなんて、冗談じゃない。震えがくるよ」と言っていた。自供をとるためには、どうしても志村に会わなければならない。
二人は胸がチリチリするような苛立ちをこらえて待った。あるいは志村は、警察の手が身近に迫ったことを知って、姿をくらましたのか。それはないだろうと武田は思う。署長からの不愉快な指示もあったが、選挙前から選挙期間中、武田と安藤は志村に直接接触することを避けて、離れた位置から見張り続けた。選挙に立候補する以上、逃げも隠れもしないだろうという読みもあった。
二時間近く待ってようやく、女性事務員が志村との連絡がとれたと伝えてきた。
武田は事務所の電話を借りて、志村と話をした。
「志村先生、このたびはおめでとうございます。伊豆南署の武田です。いつぞやはご協力ありがとうございました。いまどちらですか」
「さっき選挙管理委員会で当選証書を受け取りましてね、渋谷区内にいます。」
選挙に当選した自信からだろう、答える志村の声は明るかった。
「例の浅野冴子さんの件で、至急お会いしてお話を伺いたいんですが」
「とにかく忙しいので、お会いしてる暇はないですよ」
志村は武田の求めをあっさり突っぱねた。
これから、選挙でお世話になったいくつもの団体に挨拶回りをし、区の党支部に顔を出し、党選出の区議会議員や都議会議員に会って、当選のお礼を述べなければならないという。
「何とか時間をつくって会っていただけませんか。どうしても伺いたいことがありましてね。もし難しいようでしたら、警視庁にでも出頭をお願いするしかないんですが」
武田は脅しをかけた。
「それじゃ、今夜私のマンションに来てください」
志村は急に声を潜めて武田の求めに応じた。
武田と安藤が志村の自宅マンションに赴いたのは、その夜の八時前だった。夕方に到着した静岡県警の応援の捜査員七人が、マンションの周りで待機した。
二人は応接間に通され、志村と対面してソファに腰を下ろすと、早々に用件を切り出した。
「先生は、昨年十一月二十九日の日中から三十日の朝にかけて、どちらでお過ごしでしたか」
まず若い安藤が切り出した。
「さあ、はっきり覚えていませんから、メモを調べてみます」
志村は上着の内ポケットから手帳を取り出して、メモを調べる素振りをした。
「十一月二十九日は休日で、昼食時まで自宅にいて、その後、残務整理のために大学の研究室に行きました」
「休日にですか」
「ええ、残務整理がまだ残っていましてね」
「何時頃まで大学にいたんですか?」
「ウーン、はっきり覚えていませんが、六時頃までだったと思います」
「その後はどちらへ」
「確か行きつけの酒場で、食事がてら酒を飲んでいました」
ここまでの話は、武田が昨年末、志村隆行事務所で聞いた話の内容と一致していた。
「お一人でですか?」
「そうです」
「どこの、何という酒場で飲んだんですか」
「特に決めていなくて、あちこち行きますから、その日どこへ行ったかはよく覚えていません。実は、夏頃から妻とうまくいっていなくて、外食が多くて。それに、もう二か月以上も前の話ですからね」
「あちこちとおっしゃると、日替わりで見ず知らずの酒場へ行くということですか」
「いや、人に誘われたり誘ったりして、酒場だけでなく、洋食のレストランにも行ったし、中華料理店、ラーメン屋にも行きましたよ。結構アバウトで、いろんな店に行きました。学生のコンパにつき合うこともありましたし」
「十一月二十九日については、どこの酒場へ行ったか、思い出せませんか。まだそんなに日が経っていませんが」
「浅野さんにとっては大変不幸な日だったわけですが、私にとっては多忙な日々のうちの一日でしかないわけで。その日、どこで食事をしたか、酒場で飲んだかまでは記憶していないんですが、一人だったことは確かです」
「それじゃ、その、よく行っている何軒かの店を教えてください」
安藤が食い下がった。志村はしばらく間を置いてから、レストランと酒場の名前を八軒挙げた。安藤はその一つ一つを手帳に書き留めた。
「飲んだ後は、どちらでお過ごしでしたか」と、武田が問い詰めた。
「自宅に帰りました」
「時間は何時頃でしたか」
「十二時過ぎだったと思います」
この志村の答に、武田と安藤は内心喜んだ。こんな見えすいた嘘を言うとは予想していなかった。確たる物証も目撃証言もないために、二人の刑事は逮捕状を取れぬまま、この任意の事情聴取に赴かなければならなかったのだ。
志村がその夜下田に行っていたことは、携帯電話の交信履歴と走行中の車の写真で明らかだった。この明白な嘘は、逮捕状を取るための有力な証拠になる。最寄署に任意同行を求めて追及すれば、自供がとれるかもしれないという思いが、武田の脳裡に浮かんだ。
「ところで、先生と亡くなった浅野さんとの関係についてですが、先生は浅野さんと恋愛関係にありましたね」
武田が切り込んだ。志村は目を伏せて、しばらく黙っていた。
「確かに恋愛関係にあったことがあります」
沈黙の後、志村は慎重な言い回しで答えた。
「浅野さんが亡くなった当時は、どうだったんですか」
「もう終わったというか、関係を解消した後でした」
「恋愛関係にあったのは、おおよそいつからいつまでですか」
また間があった。
「一昨年の秋から去年の夏頃までです」
「亡くなったとき、浅野さんが妊娠していたことはご存じだったでしょう」
この武田の問いに、志村は表情を動かさず、
「知りませんでした」と答えた。
「浅野さんは、あなたに妊娠の事実を告げたでしょう。胎児は、あなたの子供だったんでしょう」
武田のこの問いに、志村は少し間を置いて、
「わかりません。そういう話は聞いていません」と答えた。この志村の応答に、武田は、胎児のDNA鑑定をしておくべきだったと悔いた。当初は事故の可能性が高かったことから、被害者の遺体を解剖して死因を特定しただけで、胎児のDNA鑑定まではしていなかった。
「先生は、十一月二十九日、下田に行っておられたでしょう」
安藤が厳しい口調で、先の志村の供述をくつがえす問いを発した。志村の顔が一瞬にして青ざめた。
「実は、二十九日の夜、先生が下田に行っておられたことが判明しているんですがね」
武田がとどめを刺した。
「そんなことはない」
否定した志村の声には力がなかった。
「携帯電話の交信履歴と、東名高速から下田に至るまでの監視カメラの写真が、あなたが下田に行って浅野冴子さんと会っていたことを証明しているんですよ」
「そうですか」
短く応じた志村の声はかすかに震えていた。
「十一月二十九日の夜、下田に行きましたね」
安藤が厳しく迫った。
「行きました」
逃れられないと思ったか、志村は小さな声で答えた。
「何をしに、誰に会いに行ったんですか」
武田が問い詰めた。
「浅野さんに会いに行きました」
これも志村は素直に答えた。
「何をしに?」
「以前から会いたい、遊びに来てほしいと言われていたものですから。無碍に断るわけにもいかずに」
「さっき、別れたと言ったでしょう」
「確かに私としては別れたつもりでいましたが、浅野さんが会いたいと言うものですから」
この男は、胎児ともども殺した女に自分の行動の責任をなすりつけようとしていると思うと、武田の胸は怒りでざわめいた。
「会って一緒に時間を過ごして、何をしていたんですか」
志村は答えなかった。
「一緒に食事をして、ワインを飲みませんでしたか」
この安藤の問いにも、志村は答えなかった。
「一緒にワインを飲んで、ボートに乗ったでしょう」
安藤が問い詰めたが、志村は凍りついたような表情で黙っていた。
「会って話をして、ワインを飲んで、それであなただけ車で東京に戻って、どうして浅野さんはあんなことになったんですか」
「わかりません」
ここでようやく志村は短く答えた。
「だって、あなたが下田で浅野さんと会っていたときかその直後に、浅野さんは海で溺れて亡くなっているんですよ。その経緯をあなたが知らないというのは不自然でしょう。ワインを飲んで、あなたが誘って二人でボートに乗ったでしょう」
安藤は声を荒げて迫った。
「ボートに乗ってはいません。浅野さんは、私が去った後、自殺したのでは……」
志村は語尾を濁した。
「どうして自殺だと思うんですか。あなたは、浅野さんが自殺を図りたいと思うような事情を抱えていたことを承知していたんでしょう。たとえば妊娠のこととか」
武田も声を荒げて迫った。
「いいえ、知りません。でも、亡くなったということは事実ですから、そうであれば、それは自殺か、何らかの理由で海に落ちたか、あるいは誰か通り魔のような犯人によって殺されたか。とにかく私は知りません」
志村は態勢を立て直した。いましがたの沈黙は、刑事たちがどこまで調べ上げたか探るためのものだったのだ。
この恥知らずと武田は思う。武田と安藤はこのまま志村に任意同行を求めて、取り調べを続け、逮捕状をとって逮捕に踏み切りたかった。
「浅野さんが泳げないことは知っていましたか?」
「知りません。とにかく、初当選で多忙を極めているので、このくらいにしてもらえませんか。また暇を見てお話できることもあると思いますから」
志村は二人の刑事に言って椅子を立った。
武田と安藤は、逮捕状を持たずに被疑者と対面している自分たちの無力さにジリジリした。
「相川貴和子議員と先生とのご関係は、どのようなものでしょうか」
安藤が、立ち上がって二人を追い返そうとしている志村に一撃を見舞った。
「そんなこと、何で答えなければいけないんですか。浅野さんの事件とは無関係なはずだ!」
安藤の一言で、志村の顔がパッと紅潮した。
なるほどと武田は思った。これがこの男のいちばん触れられたくない重要な秘密なのだ。
「お答えいただけませんか」
「答えましょう。何ら隠し立てするようなことではない。相川さんは、私に総選挙に立候補することを勧めてくれて、その後もいろいろお世話になった恩人です。それ以外のどんな関係もありはしない」
志村は突き放すように言った。
「先生、伊豆南署までご同行願えますか」
武田がとうとう最後の切り札を切った。
志村は、一瞬ひるんだように見えたが、
「任意ですか」と問い返す余裕はあった。
「そうです。もし何なら、警視庁でも結構です」
「お断わりします。私には何らやましいところはない」
拒む志村の声は震えていた。ここで二人の刑事と容疑者は、しばらく無言で対峙した。時計の秒針の音が聞こえるような、重く張り詰めた時間が過ぎた。
「そうですか。近いうちにまたお話を伺わせてください」
武田が重い沈黙を破って言った。武田は、ここで一旦立ち去ることは悔やしかったが、志村のマンションで、逮捕状も持たぬまま尋問を続けるのは限界だった。
無言のまま立ち尽くしている志村を残して、二人の刑事はマンションを出た。
「一刻も早く、急いで逮捕状をとりましょう。逃亡する可能性は少ないでしょうが、何があるかわからない」
安藤が言った。
「剛ちゃん、俺が下田に戻って逮捕状を取ってトンボ返りするから、応援の連中とホシを張っててくれるかい」
「わかりました。任せてください」
武田は大橋刑事課長宛に電話で、明日一番で志村の逮捕状請求に向けて捜査会議を開いてくれるよう依頼した後、安藤と応援の捜査員に後を託して車で下田に向かった。
◇46 逮捕状
捜査会議には、大橋刑事課長と森山副署長に加えて、署長の海老名も出席した。
「浅野冴子殺害事件について、今回の総選挙で東京X区から立候補して当選した志村隆行衆議院議員の逮捕状を請求します。逮捕状請求の理由について申し上げます。逮捕容疑は、S大学博士課程大学院生浅野冴子、死亡当時二十五歳、東京都世田谷区下北沢××の五の殺害容疑です。志村は、平成十×年十一月二十九日深夜、被害者浅野冴子をボートに乗せて下田市内T浜海上に漕ぎ出し、ボートを転覆させて浅野冴子を海中に転落せしめ、逃走しました。このため、泳げない浅野冴子は溺れて死亡しました。被疑者は被害者が泳げないことを承知していたと思われます。被疑者が被害者を殺害するに至った動機は、かねてから愛人関係にあった被害者との関係を清算しようとしたが、被疑者の子供を妊娠していた被害者が同意しなかったため、新たに愛人関係になった某女性代議士との関係と総選挙への立候補の妨げになると思い、殺害するに至ったというものです」
ここで副署長の森山が、
「その後、新たな証拠は何か挙がったのか?」と尋ねた。
「すでに報告済みのことですが、立件に必要な証拠としては、まず容疑者が十一月二十九日、下田に向かったとき被害者と交わした携帯電話の交信履歴があります。これは、志村が生活している東京からではなく、静岡県内から発信されています。その裏づけとして、志村が十一月二十九日、東名高速から熱海インターを経由して下田に向かったときの車と、翌三十日未明、下田から東京に向かう車の監視カメラの写真が挙がっています」
「それだけの証拠で立件できるか。それじゃ、志村は下田で浅野冴子に会ったというところまでしか立証できないじゃないか。自供はとれなかったのか」
署長の海老名が不機嫌に言った。
「志村は被害者と愛人関係にあったことは認めました。十一月二十九日夜、下田に行っていたことも認めてはいますが、事件への関与は否定しています。しかし、被害者の死亡推定時刻に、志村が下田にいたことは、監視カメラの写真から推してまず間違いありません。さっきも言ったように、殺害の動機は十分すぎるほどあります」
「目撃証言もないのか」
「残念ながら、目撃証言は取れていません」
「相手が与党の代議士だし、有罪ガチガチじゃなきゃ駄目だって、合同捜査会議のときに地検が言ってただろう。その後も地検からは電話で、物証は挙がったか、目撃証言はとれないか、自供はとれたかと、そればかり言ってきてる」
副署長の森山が言った。
「昨夜も志村のマンションで延々と追及しました。最初は下田に行ったことさえ認めなかったのが、追及されて途中で認めたりしています。逮捕して追及すれば、必ず自供に追い込めると思います。とにかく時間もないので、よろしくお願いします」
武田は三人に頭を下げた。
会議室を長く重い沈黙が支配した。
大橋課長が口を開いた。
「ここまできたら逮捕するしかないだろう。署長、どうですか」
そう言って、大橋刑事課長が署長の顔を見た。
署長の海老名は相変わらず不機嫌だったが、
「ここまでやってきて、処分保留というわけにはいかんな。自供がとれるかどうか微妙だが、とにかく逮捕して、あとは地検に任せるしかない」と同意した。
「志村には国会議員の不逮捕特権があります。国会は審議を要する法案事案が山積しているようで、遅くとも二週間後には首班指名の特別国会が召集される予定とのことです。どうやらこの特別国会は、普通なら通常国会と重なる時期でもあり、この先夏まで切れ目なく続くようなので、国会開会前に、一刻も早く志村を逮捕したいと思います」
いささか気負い込んだ武田を署長が制した。
「待て、国会議員を逮捕するんじゃ、やはり検察の了解は取っておくべきだろう。いずれにしても逮捕したら地検に任せにゃならん。武田君、課長と一緒に検察に行って経過の詳細を説明して逮捕の同意をとってくれるか。それが先だ。それから、県警本部には私から経過を報告して了解をとる」
これは当然とらなければならない手続だった。武田は国会開会までの日数を数えつつ了解した。すでに六十歳を越えて定年まで二、三年だという検事は、国会議員を逮捕するなどして面倒な訴訟手続をすることを嫌うのではないか。武田はまた一つ大きなハードルを越えなければならなかった。
会議の後間もなく、静岡地裁下田支部に志村隆行の逮捕状が請求された。
◇47 逃 亡
「総選挙に初当選した代議士に殺人容疑」というニュースは、その日の夕方からマスコミに一斉に流れはじめた。
このニュースを目にしたとき、戸部進が受けた衝撃は大きかった。最悪の予測が的中したのだ。無事選挙を終えた安堵感が一気に吹き飛んだ。
「どうしよう。私どうしたらいいかしら」
貴和子が、困惑しきった表情で戸部を見た。長年つき従ってきた戸部が初めて見る、美しく誇り高い雇い主の表情だった。視線が、不安そうにあちこちさまよって定まらない。日頃の自信に満ちた貴和子の姿からは想像できない狼狽ぶりだった。
「とにかく、志村と連絡をとるのはもう絶対にしてはいけません。マスコミその他に何か聞かれても、知らぬ存ぜぬで通してください。あとは私が始末をつけます。もし志村との連絡専用に使っている電話があったら処分してください。いや、私が預かります」
戸部は雇い主に命じるように言った。貴和子は、素直に志村との連絡に使っていた携帯電話を戸部に渡した。
戸部は、貴和子から志村の携帯電話の番号も聞き出した。それは誰にも内密にしていた番号だったが、貴和子はそれを戸部に教えた。
地裁から志村隆行の逮捕状が下りるのを待っている間に、静岡県警の捜査員たちにとって思いがけない事態が起こった。武田が下田に逮捕状を取りに行っている間、志村を見張っていた安藤刑事と応援の捜査員たちが、志村の行方を見失ったのである。一晩中、自宅マンションにいる志村を見張って、朝、マンションを出て、車で事務所に向かう志村を追った。
確かに事務所に入る所までは確認していた。しかし、念のため応援の捜査員が事務所に入ってスタッフに尋ねると、事務員は、
「先生はいらっしゃいません」と答えた。実際、安藤ほかの刑事が事務所の中を探したが、二室とキッチンにトイレしかない事務所内に志村の姿はなかった。
近くの駐車場に、シルバーメタリックのBMWは停めたままになっていた。自分の車で移動するものとばかり思っていたのが間違いだった。裏の窓から逃走したらしい。国会議員は逃亡などしないだろうという油断もどこかにあった。張り込みの、極めて初歩的なミスだった。
武田が逮捕状をスーツの内ポケットに入れて、伊豆急線と新幹線を乗り継いで東京に戻る途中、安藤から電話があった。
「武田さん、すいません。志村を見失いました」と言った安藤の声は、悲痛に引きつっていた。
武田は愕然としたが、とにかく探し出すしかなかった。
「とにかく探してくれ。俺もそっちに着いたら合流する」
武田は東京に着くと、安藤と応援の捜査員たちに合流し、志村の行方を追った。
志村隆行事務所、現在志村が住んでいるマンション、別居中の妻の志村みずほのマンションはもちろん、秘書に追い立てられるのを承知で、摩天楼四十五階の相川貴和子事務所にまで行方を探しに赴いた。例の、志村と相川貴和子が密会に使っていた海辺のマンションにも、志村の姿はなかった。
安藤は、
「すいません、すいません」と、武田に詫び続けた。
「大丈夫だ、剛ちゃん。夕飯を食って英気を養って、ガサ入れにとりかかろうぜ」と言って、武田は安藤とともに牛丼屋に入った。
牛丼の大盛りを食べ終え、二人は応援の捜査員たちとともに、令状を示して志村の選挙事務所や自宅マンションの家宅捜索に入った。
◇48 訪問者
相川貴和子との連絡専用に使っていた携帯電話のコールサインが鳴ったとき、志村隆行は電話を握りしめて、
「もしもし」と呼びかけた。聞こえてくる声は、選挙の応援演説のとき以来会えずにいる相川貴和子の声のはずだった。
しかし、
「相川事務所の戸部です」という男の声が聞こえたとき、隆行は愕然とした。
戸部は、相川貴和子のことで至急、内密に会いたいと言う。
隆行は戸部の言葉に抗し難い圧力を感じて、いま自分が滞在している品川駅前のホテルを訪ねてくるように求めた。もはや隆行は、このホテルの一室を一歩も出ることができなかった。ホテルにチェックインする際偽名を使ったことで、何とか発覚を免れていた。食事は、軽食を部屋まで取り寄せた。
隆行は、選挙への出馬に反対した妻のみずほの言葉を思い出した。
「あなたは、公然と黒を白と言い張って居直ることができる? 白を黒だと決めつけて、敵対する政治家を攻撃することができる? 政治家というのは、そういうことが平気でできる人種なのよ。政治家になるということは、野生の、サバイバルの世界で生きるということなの」
みずほの言葉のとおりだった。自分は結局、黒を白と言って居直ることなどできない人間なのだ。もう一度あの刑事たちに追及されたら、自分は堰を切ったように真実を吐露してしまうだろうと隆行は思った。
先の刑事の話では、警察は決定的な証拠はつかんでいない様子だった。あるいは、偽って無実を主張し続ければ、証拠不十分で無罪になる可能性はあるかもしれない。しかし、隆行はもはやそのような悪しき情熱を掻き立てることができなくなっていた。
戸部の電話からどれほど時間が経っただろう。意外に早くドアが三度ノックされた。はたして戸部か、あるいは刑事か検事か。もし刑事や検事だったら、それですべては終わりだと観念しつつ、隆行はドアロックに手を掛けて尋ねた。
「どなたですか?」
「戸部です」
その清を聞いて隆行はドアを開いた。
わずかに開かれたドアを押し開けるように、黒いソフトにコート姿の戸部が素早く入ってきた。隆行が戸部に会うのは、解散前に選挙参謀の永川の紹介を受け、選挙の細かなハウツーについて手解きを受けて以来のことだった。
隆行は部屋の奥のソファをすすめたが、戸部はドアを後ろ手に閉め、その前に立って動かなかった。ソフトの下の顔色は暗く影り、眼差しはかつてなく鋭かった。
「相川議員は元気ですか」
仕方なく隆行は立ったまま戸部に尋ねた。
「まあ元気です。いろいろ気懸りなことがあって、疲れてはいますがね」
「そうですか。それは安心しました」
隆行はようやくのことでそんな言葉を発した。
「ところで志村先生、先生のことで、悪いニュースが巷に流れていますが、ご存じですか」
戸部が突然切り込むように言った。隆行には、どんなニュースですかと問い返す余裕はなかった。発すべき言葉を思いつかぬまま、隆行は黙っていた。
体がきしむような重い沈黙が部屋を領した。戸部は、鋭い眼差しで隆行の目をじっと見据えたまま動かない。隆行は戸部の視線に耐えきれずに目を外らした。
何でもいい、たとえ百の言葉をもって罵るのでもいい、罵詈譫謗を浴びせるのでもいい、何か言ってくれ、と隆行は視線を落として戸部の言葉を待った。
「先生、愛した女を苦しめてはいけませんよ。自分の不始末で危険が迫ったら、黙って身を引いて、独りで始末をつけることです」
沈黙を破って戸部が発した言葉が、隆行の胸に突き刺さった。
「先生、身の処し方はいろいろあります。どうぞよく考えて結論を出してください。とにかく、今後、相川貴和子につきまとうことも、名前を出すこともご容赦願いたい。相川貴和子は、あなたに誠心誠意尽くしたはずだ。それを裏切るようなことのないように願いますよ」
戸部は隆行に最後の一撃を加えると、背後のドアを開いて出て行った。
◇49 霧
あの日、すなわち浅野冴子が下田の海岸で遺体で発見される一か月ほど前の夜。
「私、赤ちゃんできたみたい」と、冴子はホテルの一室で志村隆行に告げた。
隆行は言葉を失った。
「どうしたらいいかしら」
冴子は隆行を見て小さく独り言ちるように言った。
隆行は黙っていた。何と言ったものか、わからずにいた。
「産んでもいい?」
限りなく甘い声で言って、冴子は隆行の目を覗いた。いつもの深く澄んだ目だった。隆行は冴子の目から視線をそらした。
「駄目?」
「ウーン……」
隆行は低く唸った。
「私たち、結婚できないものね」
冴子がおずおずと言った。
「お互いのためにどうするのがベターか、よく考えてみよう」
あれこれ言葉を探した後に、隆行はようやくそう言った。低い、かすれた声しか出なかった。
やがて冴子はベッドを降りて、バスルームに入って行った。
シャワーを浴び、出てきた冴子は、
「私、十一月末から十日間ほど、下田のコンドミニアムを借りて学位論文書こうと思ってるんです。十二月十日が提出期限でしょう。先生も遊びに来てくれるとうれしいけど」
「そうだな、一日くらいだったら行けるかもしれない。調整してみるよ」と隆行は応じた。
車で冴子を最寄りの駅まで送った後、隆行は一人考えた。冴子の妊娠の話は本当だろうか。冴子はそんな嘘を言って男の気を引こうとするほど愚かではないし、汚れてもいない。本当だとすれば、一体どうすればいいのか。妻のみずほ、娘のみずきとのことはどうするのか。それよりも、相川貴和子とのことはどうなるのか。衆議院選立候補の話は、すでに内諾してスタートしている。
冴子は結婚を迫っているわけではない。しかし、妊娠したということになれば、掻爬するか結婚するしかないだろう。まさか、総選挙に初出馬する男が、教え子の愛人と隠し子をもっていたというわけにはいくまい。
しかし、冴子との結婚をとれば、すべてはご破算になってしまう。夫婦関係が壊れかけている、みずほとの離婚はそれほど困難なことではないかもしれない。しかし、仮にみずほとの離婚ができたとしても、あの誇り高い貴和子は、隆行と冴子の結婚を許さないだろう。大学には十一月末日付で辞表を提出してある。すべては衆議院議員志村隆行に、そして相川貴和子に向かって走り出していた。
十一月29日、隆行が下田のコンドミニアムに着いたのは十時過ぎだった。冴子と携帯電話で連絡をとりながら車を走らせた。
下田に近づくにつれて、しだいに辺りは濃い霧に覆われていった。対向車のヘッドライトが突然眼前にスッと現れては消えていく。隆行は濃霧の中、ヘッドライトに照らされる灰色の世界に目を凝らし、カーナビを頼りに下田に向かった。最後に冴子に電話をしたのは、カーナビの目的地にセットしたホテルの前からだった。
ようやくのことでコンドミニアムの前に着いた。隆行は、ボジョレヌーボ二本と自分のバッグを持って車を降りた。
外で待っていた冴子が歩み寄ってきた。
辺りのものはすべて深い霧に紛れていた。待ち詫びていたらしい冴子は、室内に入ると、隆行の首に腕を回してきた。
「夕食、まだ?」
「ああ、ボジョレヌーボを二本持ってきたよ」
「うれしい。私たちの将来に向けて乾杯できるかしら」
冴子のこの言葉に、隆行は一瞬背中に冷たいものを感じた。
テーブルの上には、すでに食事の仕度ができていた。隆行の好物のタラバ蟹まで並んでいた。
「ワイングラスはないけど、紙コップで我慢ね」
「いいよいいよ、とにかく飲みたい」
紙コップにボジョレヌーボをなみなみと注ぎ、二人は乾杯した。
「おいしい。でも、赤ちゃんに大丈夫かしら」
小さな声で言いつつ、隆行のすすめに応じて冴子はワインを飲んだ。
「この前の話、本当だったの?」
隆行は恐る恐る尋ねた。
「ええ、本当です。先生、私、赤ちゃん産みます」
冴子はきっぱりと言った。
隆行は無言だった。ここで言うべき言葉を思いつかなかった。いま隆行が言える言葉は一つだったが、それを冴子に向かって言う決心がつかなかった。
「私は赤ちゃん産もうと思うの。結婚してほしいとは言いません。ただ、自分の体の中に芽生えた命を殺すことは私にはとてもできない。私、長い間児童養護施設でボランティア活動をしてきました。先生もご存じでしたね。そこで、たくさんの子供たちに出会いました。子供たちはそれぞれ事情があって施設で生活しているけど、でも、とても元気で、一生懸命生きているの。虐待を受けた果てに、母親が無理心中を図って、自分だけ生き残ったまりちゃんという子がいました。両親が受刑者で、施設に身を寄せている子供もいました。でも、みんなあの施設では、生きててよかった、ここなら安心して暮らせるって思ってるの。そういう、親に見棄てられたような子供たちさえ、一生懸命生きて、生きようとして頑張ってるの。そんな子供たちを見てきた私が、自分の体の中に芽生えた命を殺してしまうことはできません」
冴子の言葉はかつてなく熱を帯びていた。
その冴子の視線を避けて、隆行は終始無言だった。冴子の言葉に抗して、その場をしのぐべき言葉が思い浮かばなかった。隆行は、ただただ、冴子のひたむきさを怖れた。
冴子は、かなり早いピッチでワインを飲んだ。エアコンの暖房とワインのせいだろう、室内はかなり暑く感じられるようになっていた。
「散歩しようか」
隆行が冴子を誘った。
「そうね、ワインですっかり体が熱くなってしまったわ。おいしかった。酔いを醒ましに行きましょう」
冴子は白いウールのハーフコートを羽織り、隆行はセーターのままコンドミニアムを出た。
忘れたのか、それとも酔いが冴子に、そんなことはどうでもいいと思わせたのか、冴子はドアの鍵を掛けなかった。隆行はそれに気づいたが、黙っていた。
時計を見ると午前零時前だった。霧の中、冴子は隆行の腕を取り、体をぴったりと寄せてきた。入江沿いの道を通過する車はなかった。濃霧が坂を下りて行く二人を包んでいた。
間遠な街灯の光も、霧にぼんやりとにじんでいた。暗い足元を気遣って歩く隆行の腕に、冴子はしっかりとすがっていた。 坂を下りきった所に、海水浴場があった。その一隅に、砂上に引き揚げられたボートの影が見えた。
「ボートに乗ってみない?」と隆行が冴子の耳元で囁いた。
「ボート? こんなときに、ちょっと怖いわ」
冴子が隆行の顔を見上げて言った。
「大丈夫だ、僕がいる。僕が漕ぐから、君はただ乗っていればいい」
隆行はまた冴子の耳元で囁いた。
二人は砂上のボートに歩み寄った。隆行はオールを付けてあるボートの後ろのへりをつかんで、砂浜の上を海に向けて引きずった。重かった。それでも隆行は二十メートルほどの距離を引きずって、ボートを海に出した。
二人は波にわずかに揺れているボートに乗り込んだ。冴子は足元がおぼつかず、隆行は冴子の体を支えてやった。冴子はボートの船尾に腰を下ろし、隆行は冴子と対面してオールを取った。緩やかな波の音は聞こえたが、対岸の光も海も霧に紛れていた。隆行は慣れないオールを操って、霧に覆われた海上に漕ぎ出した。
このとき、冴子の胸に不思議な幸福感が満ちてきた。霧に覆われた夜の海に、いま自分は隆行と二人だけでいる。いつも、ホテルの一室でしか二人きりになれなかった。そして最近、隆行が急速に自分から離れようとしているのを冴子は感じとっていた。それが今、夜の海に漕ぎ出したボート上に二人きりでいる。
隆行はやがて自分と自分の胎内に宿った命を捨てて、どこかへ行ってしまうような気がする。しかし、心地よい酔いは、そういう冴子の不安を溶かしてくれた。冴子は、私は幸せなんだと心の隅々に言い聞かせた。
そうした冴子の気持ちが伝わったのだろうか。オールを漕いでいた隆行が、ふと手を伸ばして冴子を抱き寄せた。冴子の幸福感はさらに高まった。冴子は隆行の首に腕を回し、二人は唇を重ねた。
そのときだった。不意に隆行がボートのへりをつかみ、冴子を抱いたまま体を横に倒した。一瞬にしてボートは転覆し、二人は抱き合ったまま海中に投げ出された。
初冬の海水の冷たさが全身に浸みた。その冷たさに縮む体を叱咤して、隆行は必死で泳いだ。セーターにズボン姿で靴を履いたままの体は、ひどく重かった。
冴子は、隆行の手を離れて、ボートが転覆する瞬間、
「アッ」という短い悲鳴を上げ、夜の海に消えた。
霧に覆われた海では、全く方角がわからなかった。ただ、そこは奥深い入江で、対岸までの距離はそれほどないはずだった。どちらかの岸に向かって泳げば、陸に上がれるはずだった。
スニーカーの靴底に海底の砂が触れた瞬間、隆行は助かったと思った。そこを、浅瀬に向かって一歩一歩歩いた。霧の中に、道路と街灯の光がボンヤリと見えた。
そこで冴子を救わなければならなかった。あるいは、助けを求めに走り、人家やホテルを訪ねて救助を求めれば、まだ許されたかもしれない。
しかし、隆行はそれをしなかった。隆行は、自分が泳ぎ着いた浜が、さっきボートを漕ぎ出した浜であることを確かめると、坂道を上がってコンドミニアムに向かった。濡れた衣服と靴がずっしりと重かった。海底から、冴子が自分を引き寄せてでもいるように重かった。隆行は、その重さに耐えて息を切らせて坂を上り、コンドミニアムにたどり着いた。
コンドミニアムの鍵は掛けてなかった。室内に入った。とにかく濡れた服を脱ぎたかった。着替えはない。隆行はエアコンの出力を最高にして濡れた衣服を全部脱ぎ、バスルームにあったバスタオルを体に巻いた。クローゼットからハンガーを取り出して、濡れた衣服を絞ってエアコンの吹出し口に掛けた。
二本のワインの空瓶や紙コップをビニール袋に入れた。冴子の手荷物の中から携帯電話と電子手帳を抜き取って、これも袋に入れた。パソコンのハードディスクのファイルをザッと検索した。書きかけた論文や断片的なメモ以外はないようだった。パソコンをシャットダウンすると、タオルを濡らして丁寧に拭いた。さらにタオルを手に巻いて、玄関やトイレや寝室のドアノブを丹念に拭いて回った。衣服からしたたり落ちた海水を拭き、しまいには部屋中を拭いた。
頻繁に時計を見た。時の進みが、おそろしく早く感じられた。時計の針が午前三時を回ったとき、隆行はエアコンの吹出口に干したセーターをビニール袋に入れ、生乾きの衣服を身に着けてコンドミニアムを出た。戸外はやはり深い霧に覆われていた。隆行は、自分にまつわる品々を入れたビニール袋をトランクに積んで車をスタートさせた。
渋谷の自宅マンションに帰り着いた月曜日の朝、みずほは職場に、みずきは学校に向かったのだろう、室内に二人の姿はなかった。隆行はシャワーを浴び、海水につかった衣服を全部着替え、トーストとコーヒーだけの朝食を済ませた。とにかく、持ち帰ったワインの瓶と紙コップ、冴子の携帯電話と電子手帳の始末をしなければならなかった。隆行は、ワインの瓶をビニール袋に入れたまま玄関の叩きに何度も打ちつけて細かく砕き、携帯電話と電子手帳もビニール袋に入れて、これは金槌で叩いて砕いた。紙コップは鋏れ細かく切り刻み、キッチンのゴミ袋のゴミの中に紛れ込ませた。
隆行は、砕いた瓶と携帯電話を入れたビニール袋を持って車で多摩川の河川敷に赴いた。月曜日の午前中、河川敷に人影は少なかった。隆行は川岸に下りて、まず瓶の破片を川の中に捨てた。瓶二本分の破片は、小さな水音を立てて濁った流れに消えた。隆行は、空になったビニール袋を手にして、深い溜息を漏らした。砕いた携帯電話は、車で下流に場所を変え、川の中央に向かって思いきり投げた。投げ終えた隆行は、また深い溜息を漏らし、しばらく呆然と川面に目を落としていた。
初冬の空は晴れ渡り、風もなく暖かかった。遊歩道が整備された河川敷には、犬を連れた女や老人、幼児を連れた若い母親たちの集団、思い思いに散歩やジョギングをする人たちの姿があった。
深夜の、闇に紛れた自分の行動の記憶は、隆行の心の中で小さくなっていた。
◇50 大臣就任
国会で首班指名を受けて総理官邸に組閣本部を設置した総理から相川貴和子のもとに、
「厚生労働大臣に就任してくれますか」という電話が入った。その少し前、すでに新政会事務総長の本堂政憲から、
「貴和子ちゃん、厚労大臣だ!」という電話が入っていた。
「おめでとうございます」
その瞬間を待って、摩天楼四十五階の事務所に詰めかけていた秘書や後援者たちが一斉に拍手を送った。それは、投票日の夜、横浜駅近くの選挙事務所で、開票が始まって間もなく当選確実が出た際の歓声より大きかった。日頃、ほとんど笑うことのない戸部が笑顔で周囲の人々と握手を交わしていた。
「私は、このたび厚生労働大臣をおおせつかりました。これも、支援してくださった皆さん、後援会、そして相川貴和子事務所スタッフの皆さんのおかげだと思います。改めて感謝申し上げます。ありがとうございました」
貴和子の挨拶の後、事務所内に 「万歳」の歓声が上がった。
間もなく、相川貴和子は二人の女性秘書とともに迎えの車で総理官邸に向かった。新閣僚が官邸に全員揃ったところで、車で皇居に赴く。皇居正殿で総理大臣から辞令を受け、天皇による認証式に臨み、再び官邸に戻って記念撮影を終えたときは夜半になっていた。
新内閣発足後恒例の記者会見が始まった。官房長官の紹介の後、新任の各閣僚が一人ずつ記者会見に赴いた。
「財政が破綻寸前にある年金、健康保険制度について、五年、十年の長期にわたる視点に立った抜本的な改革を講じなければならないと思っています。また、失業率が高い水準で推移し、若者が学校を卒業しても就職できないという問題を、労働行政の最重要課題としてとり上げたいと思います。さらに、これまで再三、その閉鎖性が指摘されてきた厚労省の医療、薬事行政については、さらなる情報公開を進めていきたいと思います。また、これは私が選挙中に再三訴えてきたことですが、いま喫緊の重要な課題は、高齢化対策と少子化対策です。高齢者の皆様には老後の生活に安心と安全をご用意しなければなりません。そして、子育てに苦労しておられる若い家庭を支援し、また若者たちが結婚して、安心して子供を産み育てることのできるような支策を講じて、出生率の高上に努めていきたいと思います。さらに、深刻化している児童虐待の問題については、関係各省庁と連携して、虐待の防止と、不幸にしてそのような状況に置かれている児童を迅速に救出保護できる体制を整えたいと思います」
相川貴和子の記者会見は質問が続出した。
隆行は、ホテルのテレビで記者会見の様子を見ていた。貴和子の話のあちこちに、隆行が貴和子に話したか、雑誌の寄稿や論文の中で述べてきたことが散りばめられていた。
その相川貴和子との恋も終った。あのしなやかで豊かな体を自分の腕に抱くことは、もう叶わない。
ホテルの窓からは、東京の夜景が見えた。隆行は、開くことのできない高層ホテルの窓に寄って、またたく街の光に目をやった。
自分は殺人犯として逮捕される前に、かつて父がそうしたように自ら死を遂げなければならない。拘置所に収監され、裁判にかけられ、刑を言い渡される前にだ。
もう誰に会うこともできない。相川貴和子にはもちろんのこと、妻のみずほや娘のみずきにも、これまでつき合ってきた大学や学界の多くの知人たちにも会うことはできない。そうした人々を含めて、自分は四十年余の人生で手にしたすべてのものを失った。
父はあのマンションの屋上に立ったとき、何を思ったのだろうか。自分たち家族のことか。打ち砕かれた自分の名誉のことか。
遺書を書くべきかと隆行は思った。しかし、自分の犯した罪は罪だ。それを詫びて死ぬか。あるいは、自分は潔白だという嘘を残して死ぬか。いずれでもいい。死に行く者にとって、それは何の意味ももたぬことだ。
翌朝、志村隆行自殺の第一報は、二昼夜、行方を追っていた武田と安藤のもとに届いた。志村の行方がわからぬまま、特別国会は召集されてしまった。こうなれば国会に逮捕許諾請求をしてでも、志村を捕えなければならないという決意を固めて二日目の朝のことだった。
被疑者の死は、捜査の終わりを意味する。
志村はホテルの一室のクローゼットにネクタイを結んで縊死していた。警視庁の捜査員が遺体をホテルの部屋から運び出す傍らで、武田は苦い喪失感をかみしめていた。土壇場まで犯人を追い詰めながら、犯人に死なれてしまった。生きて逃げたのなら、地の果てまでも追いかけることもできよう。しかし、死なれては、被疑者が死んでしまってはどうすることもできない。
愚かだと武田は思う。こんな結末は最初からわかっていたはずだ。それなのに、なぜ志村はあのような罪を犯したのか。代議士にまでなろうとした学者がだ。志村は自らの死の闇に事件の真相を封じ込めてしまった。捜査は解決を見ないまま終えるしかなかった。明日にも、被疑者死亡として地検に書類送検することになる。
相川貴和子は厚生労働大臣として、霞が関の厚生労働省に初登庁する朝を迎えた。朝七時のニュースが、志村の死亡を報じていた。
「昨深夜、二日ほど前から行方がわからなかった衆議院議員の志村隆行氏が、都内のホテルで死亡しているのが発見された。自殺とみられる。なお、志村議員は元S大学准教授で、今回の総選挙で東京X区から出馬して当選したばかりだった。遺書は残されていなかったようだが、志村議員は、S大学大学院生殺害事件の容疑者として静岡県警の取り調べを受けていた}
貴和子は二度目に選挙応援に赴いたとき以来、志村に会っていなかった。志村に大学院生の殺害容疑、という報道を最初に目にしたとき、貴和子は激しく混惑した。どうしたらいいか、全くわからなくなった。
どうしてよいかわからぬまま、戸部の言葉に従って、隆行との連絡に使っていた電話を戸部に渡した。渡すとき、もう終わったのだと自分に言い聞かせた。これ以上、志村について何を知る必要もない。恋も、結婚して手を取り合って国会に登院する夢も消え去った。また政治家相川貴和子の、フォーマルだけの生活に戻っていく。
相川邸前に、初登庁の迎えの車が来ていた。登庁して職員の歓迎を受け、幹部職員を前に就任の挨拶をし、前任の大臣から事務の引き継ぎを受けることになる。
黒い大型乗用車のウィンドフレームが朝陽に輝いていた。公設第一秘書の戸部が笑顔で貴和子に目礼した。戸部は、初登庁に同行する松木恵子ともう一人の女性秘書とともに、事前に相川邸に赴いていた。相川貴和子に従って、二人の女性秘書が車に乗り込んだ。車は、厚生労働大臣相川貴和子を乗せ、朝の街を霞が関に向かって走り出した。
◇51 まりちゃん
冴子の死から志村の自殺を経て、加賀健介は冴子を救えなかった自分を責め続けた。悲嘆ややり場のない怒りが、くり返し心の底から噴き上がってきた。冴子はなぜあのような死を遂げなければならなかったのか。志村は、なぜ冴子を殺害しなければならなかったのか。健介には謎のままだった。テレビや新聞は、衆議院議員選挙に当選した経済学者が、選挙前に愛人関係にあった女子大学院生を殺害し、当選直後に自殺を図ったと短く報じただけだった。それ以上のことは何一つ報じられず、健介はそれを知る術をもたなかった。
施設の仕事は相変わらず多忙だった。その多忙さと、のびのび園の子供たちの姿が健介の救いだった。
のびのび園の園庭の桜は日ごとに蕾が膨らみ、あと数日で花が開きそうだった。春が近づくにつれて、まりちゃんの表情が急速に和らいでいた。人に対するときの警戒する動物のような目差しは消えていた。
何より、まりちゃんは言葉を話せるようになっていた。二段ベッドからの転落事故の後、それによってということではなかっただろうが、年が明けたある日、突然、周囲の同じ年頃の子供たちと話ができるようになった。蓮見さんから報告を受けて、健介はまりちゃんのもとに走って行き、
「まりちゃん、おはよう」と声をかけてみた。
「おはよう」
まりちゃんは、まるでずっと前からそうしていたように、はっきりとした言葉で応じた。健介を見返す目ざしは、幼児の無邪気さと好奇心に輝いていた。言葉を話せるようになって、周囲の子供たちとのトラブルも少なくなった。昨年末でまりちゃんは四歳になっていた。
加賀健介が各コテージに配る新年度の行事予定表を持って 「ひまわり」の棟を訪れると、同じ部屋の子供たちと遊んでいるまりちゃんの姿が見えた。鬼ごっこをしているらしい。一人の男の子が、追いかけるまりちゃんから逃がれようと、園庭を走り抜けて門から外に出ようとしている。 「ターちゃん、出ちゃダメ!」と、まりちゃんは大きな声で門の外に走り出ようとする男の子を止めた。
健介は思わず傍にいた蓮見さんと顔を見合わせた。蓮見さんは、
「まりちゃんは、しっかりものよ」と笑顔で言った。
「言葉、随分話せるようになりましたね」
「もう大丈夫、このままでいけば小学校入学前に平仮名の読み書きもできるようになると思うわ」
この蓮見さんの言葉を、健介はそのまま冴子に届けたかった。
門の外に逃げ出そうとした男の子にタッチして鬼を逃がれたまりちゃんが、健介と蓮見さんに向かって走ってきて足を止めた。二人の職員の顔を見て、息を弾ませているまりちゃんは笑顔を見せた。
「まりちゃん、ほら、鬼が追いかけてくるよ、走く逃げなきゃ」
健介の言葉にまりちゃんは、
「ありがとう」
と言ってコテージの裏のグランドのほうに走って行った。
健介は行事予定表を蓮見さんに渡して、指導員室に戻った。間もなく子供が一人、ケースワーカーに伴われてやってくることになっていた。
了