海と摩天楼 第5部
□第5部 捜 査
◇33 あしたば園
東京駅で土産の菓子を買い、武田は下田行きの特急踊り子に乗り込んだ。これが三時間ほどで下田まで運んでくれる。ウイークデーでもあり、自由席は空いていた。それでも半分ほど埋まった席では、初老の男女のグループが発車する早々からビールや酒を飲み始めて、賑やかに話をしている。車内に酒やつまみの臭いが漂うのも、下りの踊り子ならではの風情だった。
浅野冴子の両親との再会と、仏壇に掲げられた遺影の微笑が、武田徳郎の心に鮮やかに刻まれていた。
「冴子は、児童福祉関係の仕事をしたいと言っていましてね」と母親は言っていた。
武田徳郎は、小学校一年生の年から高校を卒業するまでの十二年間を、下田の児童養護施設で過ごした。両親は離婚していた。というより、タクシーの運転手をしていた父親は、母と幼い徳郎と妹を捨てて女とどこへともなく姿を消した。母はその後旅館の仲居をして働いていたが、もともと丈夫ではなかった武田の母親にとって、毎日早朝から夜半に及ぶ仕事はきつく、それがもとで何度も倒れた。そしてとうとう、徳郎が小学校に入学する年の二月に逝った。胃癌だった。親類縁者も皆貧しく、兄妹は結局、 「あしたば園」という児童養護施設で生活することになった。
あしたば園で暮らした十二年間は、武田徳郎にとって決して苦い思い出ではなかった。海辺の施設は敷地も広く、眺望がよかった。部屋の窓からは広々とした海辺の風景が望まれ、庭には春夏秋冬色とりどりの花が咲いていた。妹とは別の棟で暮らしたが、もちろん会いたくなればいつでも会うことができた。
学校でも施設でも、子供たちの間に諍いは頻繁にあったが、幸い頑健だった武田徳郎は、いじめの対象にはならずに済んだ。むしろ、よく同級や年下の子供たちの面倒を見て、上級の男の子たちとやり合ったものだった。
あしたば園には若い女性の職員が多かった。子供たちは、その女性の職員の名前の下に 「お姉さん」を付けて呼んでいた。その一人に、たまたま今回の事件の被害者の浅野冴子と同じ、山木冴子という名のお姉さんがいた。
明るい海辺の風景がそうさせたのか、お姉さんたちは皆明るく、子供たちにやさしかった。子供は五十人ほどいたが、それぞれ近くの小中学校や高校に通うことができたし、身仕度もきれいにしてもらっていた。あしたば園での十二年の経験から、荒廃した家庭に育つなら、設備やスタッフの整った施設で暮らすほうが、子供にとってはまだ幸せではないかと武田は思っている。
こんなことがあった。中学生から高校生にかけて、武田はとにかく腹が減ってたまらなかった。施設の食事はそれほど貧しいものではなかったが、それでも皆で分けて食べる量には限りがあり、その分配は厳しかった。そんなとき、冴子お姉さんはよく内緒で武田に食べものを分けてくれた。
下田周辺の磯では、伊勢海老やアワビが獲れる。しかし、定められた漁区内の魚介類は漁業組合が漁獲権をもっていて、一般人はそれを獲ってはいけないことになっていた。また、磯のあちこちには、網を張って養殖している所もあり、その中の伊勢海老やアワビを獲ることは窃盗であり、固く禁じられていた。
武田はその禁を犯して、伊勢海老やアワビを獲り、市内のとある旅館に売っていた。その旅館の主は、それがいわば禁じられた獲物であることを知りつつ、武田の持ち込む伊勢海老やアワビを買ってくれた。買い取る値段は市価の半値ほどだった。受け取った金をポケットに、武田はできるだけ施設から離れた、駅近くの食堂に行っては、ラーメンやカツ丼をむさぼるように食べた。柔道部員たちは、夕食までには間がある時間帯、よく揃って食堂に行っては、これまたラーメンやらカツ丼を食べたが、その代金も、施設からもらうわずかな小遣いでは足りなかった。
漁師たちがあまり仕事をしない夕方、武田は小ぶりのヤスを片手に、腰に獲物を入れるネットを付けて海にもぐった。ある日、たまたま近所に住む漁師に、獲物の伊勢海老を手にした武田の姿が発見されてしまい、施設に通報されたことがあった。絶望感に震えるような思いで漁師のもとに留め置かれた武田を迎えに来たのは、山木冴子と中年の生活指導員の男性職員だった。
「どうも申しわけございません。ついつい空腹が辛くてそんなことをしてしまったのだと思います。普段はとてもいい子で、下級生の子供たちの面倒をよく見てくれる子なんです。どうぞ許してやってください」
そう言った山木冴子の目に、涙が浮かんでいるのを見て、武田は胸が痛んだ。
「飯くらい、ちゃんと食わしてやれよ」と言って、漁師は二人の職員に武田を引き渡した。
武田は高校三年の秋に静岡県警を受験した。高校の担任は、
「難関だぞ」と言っていたが、武田は何とか合格した。柔道をやっていたのがよかったのかもしれない。当時、 下田で武田徳郎の右に出る高校生の柔道部員はいなかった。静岡県の大会でも二、三年生の頃は、団体戦では大将を務め、個人戦ではいつも入賞していた。
警察官として採用されると、十か月間の全寮制の警察学校での厳しい訓練を経て、武田はまず岩田署の巡査として勤務に就いた。学校にいる間、いずれの生徒も頑健な若者たちばかりだったが、武田は柔道では同期の誰にも負けなかった。
武田は通信教育で大学卒業資格を取り、清水署に異動になった二十七歳の年、当時は婦人警察官と呼ばれていた同い年の女性と結婚するとともに、県警の刑事試験に合格して刑事になった。その後、県内の警察署をいくつか回り、五年前に伊豆南署に異動になった。現在は成人した二人の娘の父親であり、長女には二歳になる武田の孫がいた。
踊り子が下田に着いたのは夕方だった。武田は、署には寄らずに、土産を手に帰宅した。
◇34 ボートとワイン
翌日、昼食後に伊豆南署に顔を出すと、刑事課の部屋には、安藤刑事と、主に事務を担当している坂田康子がいた。
「出張、お疲れさまでした」と、二人は立ち上がって武田の労をねぎらった。
安藤が、
「何か収穫はあったですか」と武田に尋ねた。
「目ぼしい収穫はなかったが、母親はじめ、何人かの関係者に会って話を聞いてきたよ。それで早速聞き込みなんだが、剛ちゃん、駅から例のコンドミニアムにかけての店で、十一月二十三日から二十九日までの間に、浅野冴子にワインを売った店はないか調べてみてくれないかな」と武田が頼むと、
「わかりました」と言って、若い安藤は浅野冴子の顔写真を持って刑事課を飛び出して行った。
武田も、間もなく署を出て、車で浅野冴子の遺体が発見された入江の貸しボート屋に向かった。この季節にはボートを漕ぎ出す者もなく、貸しボートは皆、砂浜の波打際からはかなり離れた砂上に引き揚げられ、舟底を上にした形で置いてある。武田は、普段は漁師をして、夏だけ海の家を開いているという貸しボート屋の主人を訪ねた。
「この間の、女子大生が遺体で浜にうち上げられていた事件のことでちょっと尋ねたいんですがね」と武田は切り出した。
いかにも漁師らしい日焼けした風貌の主人は、
「ああ」と応じた。
「あのとき、確かお宅のボートが一艘だけホテルの前の浜に打ち上げられていましたよね」
「誰がやったんだかね。ボートは全部、あの5番のも、ちゃんと浜に揚げておいたんだが、海に出したやつがいる」
「なるほど。どうしてあのボートはオールを付けたままにしてあったんですか」
「ほかのオールは物置きにしまってあるんだが、あの5番と6番だけは、釣に出るときのためにオールを付けたままで揚げてあるんだ」
「ということは、ボートは誰かが海に引き出した?」
「そうだろうな。別に台風がきていたわけでもないから、満潮時でも浜に二十メートルも揚げてあれば、波にさらわれることもないし」
「あの日の日中は、浜に引き揚げてあったんですか」
「毎日ちゃんと見てるからね、確かに浜に引き揚げてあった」
貸ボート屋の主人は武田の顔を見て、そうはっきり言った。
「誰かが引っ張り出した跡はなかったですか」
「あったよ、ボートを引きずった跡と、足跡もいくつかあった。暴走族の連中がやったんだろうと思っていたんだがね」
十一月三十日から、もう何日も経っている。まさか砂浜に足跡は残っていないだろう。
「どんな足跡だったか覚えていませんか」
「足跡は足跡だよ、どんなだったかなんて、覚えてないね」
これで貸しボート屋の主人との話は終わった。
そのときちょうど、重いエンジン音を響かせて大型のバイクが家の前に止まった。乗っていたのはフルフェースのヘルメットをかぶり、黒い革ジャンにジーンズ姿の大柄な男だった。
「おい、この前の5番のボート、誰が海に出したか見なかったか」と、主人がオートバイの男に尋ねた。
「ああ、知らねぇよ。知ってたらぶん殴ってやった」
「お前の仲間じゃなかったのか」
「俺のグループの連中はそんなことしねぇよ」
男はヘルメットを取ると、武田に鋭い一瞥をくれて家の中に入って行った。若かったが、荒んだ印象の男だった。
主人に礼を述べてその場を離れる際、武田は浜に揚げてあるボートのうちの、さっき主人が、釣に出るときのためにオールを付けてあると言った5番のボートを引っ張ってみた。ボートは強化プラスチック製で、さほど重くはなかった。しかし、それを女一人の手で砂の上を二十メートルも引きずっていけるかどうか、武田には判断がつきかねた。武田は、女性職員にそれが可能かどうか、一度試してもらおうと思った。武田はその場から伊豆南署に電話をして、刑事課の坂田康子を呼び出した。
結果は意外なものだった。坂田康子はボートを引きずって、二十メートル以上先の海上に出すことができたのだ。途中で一度ボートから手を離して、乱れた呼吸を整えていた。
「力もちだね」
武田が笑顔で誉めると、
「私も警察の人間ですから。柔道二段ですよ。」
坂田は息をはずませながら言った。
しかし、身長百七十センチで、女性にしてはガッシリした体格の坂田に比べて、浅野冴子は華奢だった。腕力も坂田ほどにはなかっただろうと推測される。その浅野冴子が、はたして一人でボートを二十メートルも引きずって海に出すことができたかどうか。
「普通のといったら何だが、若い女の子に海まで引きずっていけると思う?」
武田が坂田に尋ねると、坂田は今しがた引きずったボートと砂浜を見て答えた。
「ウーン、砂の抵抗がきつくてちょっと無理だと思います」
伊豆南署に戻り、武田はまた浅野冴子のファイルを開いた。もう、調書をまとめて課長に提出しなければならない。武田は、これまでの捜査の経過を思い返しながら、箇条書きにしたファクターをざっと読んだ。
浅野冴子が持っていたはずの携帯電話と電子手帳は、まだ発見されていない。五万七千余円の現金と何種類かのカードやレシートの入った財布は旅行バッグの中にあった。浅野冴子の遺体の発見現場から二十メートルほど離れた砂浜に、舟底を上にしたボートが打ち上げられていた。浅野冴子は、泳げなかった。
武田は、何枚かの浅野冴子の遺体の写真を証拠整理用の大判の封筒から取り出し、遺体の解剖所見の文書を開いた。
「海水を多量に飲んだことによる溺死。肺及び消化管から多量の海水。血中から相当量のアルコール、ワインの成分を検出。遺体に外傷、暴行の痕跡等は認められない。海水によるとみられる部分的な表皮の剥離はあるが、特に固いものにぶつかってできたような皮膚組織の損傷は認められない。主は妊娠後三か月程度を経過している}
武田は自分のノートパソコンを閉じると、車で浅野冴子の検死と解剖を担当した医師のもとを訪ねた。
「先生、遺体の傷のことについて、改めてお聞きしたいのですが、首を絞めたような跡がなかったことは確かだとして、何かにぶつかってできたような傷はありませんでしたか。生前、死後、どちらにできた傷でもいいのですが。一応写真にも所見にもそれはないということになっていましたが、もう一度確認していただけませんか」
武田の話を聞いて、医師は何枚かの遺体の写真を取り出してきた。それは、すでに武田が解剖結果の所見とともに医師から受け取っていたものと同じ写真だった。
「きれいなものだ。ほとんど傷らしい傷はなかった」
「ということは、崖の上から落ちて磯の岩にぶつかったようなこともないということですね」
「そういうことはなかっただろうと思うな。何かにぶつかって死んだのではなくて、あくまで溺死だ。頭の骨も首の骨も肋骨も、背骨も手足の骨も一切折れてはいなかったし、ほかに打撲傷も切創もなかった」
浅野冴子が滞在していたコンドミニアムが建っている崖から海面までは、二十メートル以上ある。ビルの七階ほどの高さだ。海面には無数の岩がひしめき立っていて、海底も浅い。そんな所に落ちたら、人の体は相当の損傷を受けるはずだった。
「わかりました。ありがとうございました」
武田は、痛ましい遺体の写真を医師に返して病院を出た。
浅野冴子は崖から転落して死んだわけではない。あのボートを自分一人で漕ぎ出して、海中に飛び込んだのでもない。そうすると、どうやらかなりの量のワインを飲んで、砂浜から初冬の海中に歩いて入って行ったのか。いま手元にある証拠から推測すると、自殺を含めた事故死をとるなら、そういう結論しか出てこない。たとえ酔っていたとはいえ、泳げない、しかも妊娠している女性が、霧が立ち込める初冬の海に歩み入っていくだろうか。あのコート姿で、靴を履いたままでだ。もし、体を初冬の海につけて流産を促そうとでもしたなら、話は別だったが。
浅野冴子に死をもたらしたものは、男の手でもなく、銃でもなく、ナイフでもなかった。武田の眼前にある無量の海水が、浅野冴子に死をもたらした。海は、事故か事件かの判断を阻んでいた。
武田が長い入江の砂浜を行きつ戻りつして考えるうちに、海辺の風景は急速に光を失っていった。武田は一旦伊豆南署に戻って車を置き、夕暮れの街を、駅周辺からコンドミニアムにかけての、ワインを飲めそうなレストランや酒場を一軒ずつ尋ねて回った。
◇35 事故か事件か
翌朝、伊豆南署に出勤した武田は安藤に尋ねた。
「昨日のワインの件、どうだった?」
「ええ、駅の周りからあのコンドミニアムまで、コンビニも入れて、酒を売ってる店は八軒ほどあるんですがね、浅野冴子らしい女の客は来なかったっていうんですよ。三軒のコンビニについては、二十四時間営業なんで、何人かの店員に確認をとらなきゃいけないんですがね。でも、あれは、事故か自殺か、どちらか不詳のまま、一応事故ということで報告するしかないんじゃないですか」
安藤はぞんざいに言った。
「いや、これは殺しだと俺は思うんだ」と武田が言った。
「えっ、殺し?」
意外なことを聞いたというように、安藤は武田の顔を見た。
「そうだ、これは殺しだ」
「でも、殺しに結びつくような証拠は何も挙がっていないじゃないですか」
「証拠は挙がっていないが、証拠が挙がらないから、これは事故ではなくて事件なんだ」
「なぜ殺しだと断ずるんですか?」
「まず、浅野冴子には自殺する理由がなかった。もちろん遺書はないし、浅野冴子はあのコンドミニアムに、博士号をとるための学位論文を書きに来たんだ」
「でも、浅野冴子は妊娠していて、その相手が誰か不明で、いまだに現れない。親も知らなかったっていうじゃないですか。遺書を残さない自殺だっていくらでもある。学位論文を書くとか何とか言って、妊娠しちゃって結婚もできず、死にたくなって下田に来たんじゃないですか」
「違う、浅野冴子はね、近くに打ち上げられていた、あの5番のボートに乗っていて、ボートが転覆して海に落ちて溺死したんだ。母親が、浅野冴子は泳げなかったとはっきり言っている」
「泳げなかったとしても、ボートから落ちたというのは、あくまで推測でしょう」
「そうだ。しかし、あの夜、砂浜に引き揚げてあったボートが何者かによって海上に出されたことは確かだし、打ち上げられたボートの近くに、浅野冴子の溺死体があったんだ。ボートと浅野冴子の関係は濃厚だろう。あの夜は濃い霧が立ち込めていて、風はなかった。ボートが高波を受けて転覆したということはあり得ない。風が出て、波が立ちはじめたのは明け方になってからのことだ。その風も、朝のうちだけだったがね。貸しボート屋の主人は、十一月二十九日の日中は、確かにボートは全部揃えて浜に引き揚げてあったと言っている。浅野冴子が誰かと二人でボートを海上に出して、それに乗っていてボートが転覆して溺死したという仮定は成り立つだろう」
「仮にそういう仮定が成立したとしても、それで即殺しということにはならないでしょう」
「確かにね。しかし、あのボートに乗っていたという仮定が成立すれば、浅野冴子は誰かほかの人物と一緒だったということになる。浅野冴子の力では、砂浜に引き揚げてあったあのボートを一人では海に出せなかっただろうからね」
「なるほど」
「あの夜、ボートは何者かによって海に引きずり出されたんだ。この冬の寒い時期、月も出ていない濃霧の夜に、海にボートを漕ぎ出す物好きはあまりいないだろう。そういう夜に、浅野冴子を誘ってボートに乗せた相手の意図は一体何だったと思う?」
「確かに、そう言えばそうですがね」
「浅野冴子は泳げなくて、大量の海水を飲んで溺死している。それで、体にほとんど傷らしい傷はないから、崖の上から飛び込んだということもなさそうだ。あの入江の周りの崖下は岩礁になっていて、飛び降りたら、あるいは転落したら、必ず岩にぶつかる。だから、やはりあのボートに乗っていたというのがいちばん筋の通った推理ということになる。まさか、砂浜から歩いて海中に入って溺れたということはないだろう」
「そうだとすると、一緒にいた人物はなぜ姿を消したんでしょうね」
ここでようやく安藤は、武田の推理に同意を示した。
「そこなんだ。いいかね剛ちゃん、誰かと一緒だったとして、なぜその人物は姿を現さないか。もし事故なら、姿を現していると思うよ。それが、姿を現わさないばかりか、自分が浅野冴子と一緒だったという証拠を全部消してしまっているんだ。遺体からも、ボートからも、砂浜からも、コンドミニアムからも、浅野冴子と一緒にいた人物の痕跡は消されている。コンドミニアムから出たいくつかの指紋以外は、実にきれいに消されているんだ」
「あるいはその指紋の一つが、一緒にいた相手のものかもしれない?」
「そうだ。でもあのコンドミニアムは、短期間に不特定の人物が多数利用する賃貸の施設で、ドアノブの指紋は、管理人のもの以外、はっきりしたものは一つも取れていない。それ以外の箇所からは、浅野冴子のものがいくつか見つかっただけだ」
「そうなると、物証はほとんどない」
「そうだ、物証はほとんどない。だからこれは事件なんだ。証拠を残すまいとする人物の意図がありありと見てとれる。それに、浅野冴子が飲んだワインの瓶もグラスも、とうとう見つからなかった。彼女のもとに車はなかったし、近所に酒が飲めるような店はないから、あのコンドミニアムで飲んだんだろう。間違いなく浅野冴子は、発見された前夜にかなりの量のワインを飲んでいるんだ。でも、浅野冴子がワインを持ち込んだ形跡はない。家族に聞いても、家にあったワインはそのままあって、持ち出されてはいないと言っている。浅野冴子の財布の中には、下田に着いてからの買い物のレシートがきれいにしまってあった。駅からコンドミニアムまで乗ったタクシーのレシートもちゃんとしまってあった。几帳面な性格だったんだな。浅野冴子は下田に着いた日、駅近くのコンビニでかなりの量の買い物をしているが、そのレシートにワインの記入はないし、酒屋でワインを買ったレシートもない。酒屋の聞き込みの結果は、剛ちゃんの報告のとおりだ。買い物を終えた浅野冴子は、海浜タクシーでコンドミニアムまで直行している。運転手は、荷物を運ぶのを手伝ったそうだ。荷物の中にワインがあったかどうかは覚えていないと言っているがね。わざわざワインを買いに出かけたということも考えにくい」
「でも、一緒にいた誰かの車で街に飲みに出たということだってあるでしょう」
「そういう可能性がないではないから、駅からあのコンドミニアムにかけてあるレストランや酒場を聞いて歩いたが、どこの店も、二十九日の夜、そういう客は来ていないということだった。それに、母親が言っていたが、浅野冴子は、飲めるには飲めるが、それほど酒好きではなかったそうだ。家で一人で飲むようなことはほとんどなかったと言っている。浅野冴子はあのコンドミニアムで、その人物が持ってきたワインを一緒に飲んだはずだ。そのワインの瓶と、飲むのに使っただろうグラスが見つからないんだ。とにかく浅野冴子はかなりの量のワインを飲んだにもかかわらず、その痕跡は彼女の体内にしかなかったということだ。なぜ、ワインの瓶、使ったはずのグラス、紙コップでもいいが、それらのものが残っていないのかだ」
「一緒にいた人物が持ち込んで、飲んだ後、その瓶と使ったグラスを持ち帰った?」
「そういうことだ。あるいは、ボートに乗って飲んで、瓶を海中に捨てたかだ」
「そんなことは、この寒い季節には不似合いですね」
「そうだ。やはりコンドミニアムで飲んだと考えるのが妥当だろう。現に蟹やサラダやハムや、つまみらしいものがテーブルの上に並んでいた」
「なるほど」と、安藤は頷いた。
「それから、パソコンに浅野冴子の指紋はなかった。毎日学位論文を書いていたはずのパソコンから、持主の指紋が検出されなかったんだ。不自然だろう。パソコンに自分にかかわる事柄が記入されていないか気になって、データを調べて、後で指紋を拭き取ったんじゃないかと思うんだ。ハードディスクには、浅野冴子が下田にいた日付の入った英語の論文の草稿がいくつか残っていただけだがね。削除したファイルの履歴なんかは、これから専門家に調べてもらう必要があるが」
武田は、どうだいというふうに安藤の顔を見てから、さらに話を続けた。
「それから、あのコンドミニアムの玄関とリビングの床からは、かなりの塩分と海水の成分が検出されている。さらに、キッチンの調理台の上にあった二本のタオルだ。これには、大量の塩分、その他の海水の成分がしみ込んでいた。これは何を意味すると思う?」
「誰かが、海水に濡れた格好でコンドミニアムに入って、あちこち濡らしてしまい、二本のタオルで拭き取った」
「そうだ、それがいちばん妥当な推理だろう」
ここで若い安藤刑事は、少し考え込んでから、
「そういえば、携帯電話と電子手帳も出てこないんでしたね」と尋ねた。
「そうだ。携帯電話も電子手帳も持っていて海中に落としたということもあるかもしれないが、コンドミニアムに残されていたハンドバッグの中に、携帯電話と電子手帳だけがなかった。現金五万七千円が入った財布はあったがね」
武田の話を聞きながら、安藤は腕組みをして考えていた。
「ここまでくると、もう自殺は考えにくいだろう」
そう言って武田は安藤の目を見た。ここでようやく安藤は疑問を発しなくなった。
「それにね、剛ちゃん、もう一つ、結構重要な証拠が手に入りそうなんだ」
「何ですか?」
「これだよ」
そう言って武田は電話会社の職員から受け取った、交信履歴の提出を受けるのに必要な書類を置いた。
「ああ、携帯電話の交信履歴ですか」
安藤は書類を手に取って見入った。
安藤は納得した様子で、
「捜査本部を設置してもらいますか」と言った。
「そうしよう」
武田はそう言って、開いていた自分のノートパソコンを閉じた。
その日の午後、伊豆南署に女子大学院生殺害事件の捜査本部が設置された。設置に際して開かれた第一回目の捜査会議で、武田はこれまでの捜査経過を説明した。 翌日、今度は安藤が、交信履歴の提出を受けるのに必要な書類と捜査令状を携えて東京に向かった。
安藤を送り出した武田は、目撃情報をとるべく、T浜周辺のペンションやホテル、民宿、さらにタクシー会社などに聞き込みを続けた。しかし、コンドミニアムで一週間を過ごしていたはずの浅野冴子の目撃情報は少なかった。わずかにペンションの管理人の男とその妻、それに近くの住人が数人、目撃しているだけだった。それも、いずれも浅野冴子が日中一人で辺りを散歩している姿を見たというものだけだった。
◇326 捜査会議
師走も押し詰まり、のどかな海辺の町にも歳末の慌ただしさが漂っていた。その日、伊豆南署では浅野冴子殺害事件の捜査会議が開かれた。捜査本部設置のとき以来、二度目の会議だった。
「面子も揃ったし、始めようか」
刑事課長の大橋弘が、武田に捜査状況の説明を始めるよう促した。
出席者は、副署長の森山、刑事課長の大橋、本事件の捜査担当で主任の武田徳郎、安藤剛、ほか二名の一課付の刑事と坂田康子の七人だった。
「それでは去る十一月二十九日深夜に下田市内T浜で発生した浅野冴子殺害事件について、これまでの捜査の経過を報告します。事件の発生から初動捜査の状況については、捜査本部設置の際に報告したとおりです。今日は、その後、これまでの捜査で判明したことについて報告します。まず物証の収集についてですが、被害者は携帯電話を使っていました。しかし、その電話と電子手帳は、いまだに発見されていません。そこで、これは安藤君が捜査に当たったものですが、東京世田谷区のP電話世田谷営業所の協力を得て、被害者の携帯電話の交信履歴を調べました」
ここで武田は、話を安藤に委ねた。安藤は、コピーした交信履歴の記録を出席者に配り、手帳を見ながら説明を始めた。
「ご承知のように、交信履歴といっても、交信内容ではなくて、交信相手の番号と交信日時、何分間話をしていたか、それから発信した都県名ですが、これがかなり重要な証拠になり得るものでした。それで、被害者が殺害される一週間前、つまり下田にやってくる前日から殺害される直前までの交信履歴を洗って、四人の名前を割り出しました。まず、被害者の自宅にほぼ毎日一回、被害者から電話をしています。これは毎日の生活の様子を知らせるものだったと、母親が武田さんに説明しています。母親から被害者には三度、被害者の携帯に電話をしています。次に交友関係の電話のやり取りです。同じ大学院の研究生で被害者と親しかった友人の一人である岡本美樹、同じく児童養護施設の職員をしている加賀健介、都立K高校教諭の志村みずほ、そして志村みずほの夫で、最近S大学を退職した元経済学部准教授の志村隆行、以上の四人と交信しています。この四人は、いずれも浅野冴子が下田のコンドミニアムに滞在している間、浅野冴子と電話で話をするか、メールのやり取りをするかしています。浅野冴子から送信したものが、岡本美樹に一日置きにメールが二回、岡本からはやはりメールが二回、加賀健介からメールが一回と電話が一回。被害者から加賀には電話が一回、志村隆行から三回、そしてその妻の志村みずほから三回、浅野冴子宛に電話をしています。さらに、被害者が死亡したとみられる十一月二十九日の一日に限ると、岡本美樹と加賀健介からそれぞれメールが一回。あとは電話で、被害者から加賀健介に一回、志村みずほと夫の隆行から被害者宛にそれぞれ二回となっていて、いずれも携帯電話から発信されています。志村みずほからの二回目の電話は、着信履歴だけで、通話はなかったようです。メールの送受信の日時と電話の通話時間は配った資料のとおりです」
刑事課長の大橋はテーブルの上に大判の手帳を開いてメモをとりはじめたが、副署長の森山は腕組みをしたまま動かない。森山は会議のときはいつもそういう態度だった。署員の間では、部長は目を開いたまま居眠りができる。あれは副署長にしかできない居眠りの至芸だという噂があった。ときどきいびきが漏れるというのだ。
再び武田が話を引き継いだ。
「被害者は十一月二十九日深夜、海水を多量に飲んで溺死しています。ほかに外傷はありません。金品を盗られた形跡もありません。外傷もなく、衣服の綻びなどもなくて、暴行を受けた痕跡もないとすると、誰か親しい人物と深夜ボートで海上に漕ぎ出し、海中に転落、溺死したものと思われます。被害者がボートに乗っていたという痕跡は、被害者が打ち上げられた浜に近くの貸ボートとオールが打ち上げられていたこと。そのボートは、前日には波打際から二十メートルほどの砂浜に引き上げてあったこと。そしてその付近にボートを出した者のものとみられる足跡があったことを、貸ボート屋の主人が証言しています。さらに、被害者は泳げなかったので、十一月末の深夜に一人ボートで海上に漕ぎ出すなど、思いもしなかっただろうと思われます。そのとき一緒にいた何者かが、被害者を誘い出してボートに乗せ、海上に漕ぎ出したものと考えるのが妥当です。浅野冴子が溺死したという結果からみて、その人物に浅野冴子に対する殺意があった可能性は濃厚になります」
ここで居眠りしていると思っていた副署長が突然口を開いた。
「ちょっと待った。それは推測が勝ちすぎていないか」
「これまでの話だけではそうかもしれません。もう少し聞いてください。ところで、浅野冴子には、下田につき合いのある人物はいなかったそうです。それで、さっきの電話とメールのやり取りをした四人の人物のうち、志村みずほと志村隆行は、その交信履歴から、十一月二十九日、いずれも静岡県内から浅野冴子宛に電話をしています。志村みずほは日中、志村隆行は夜に交信しています。つまりこの二人は下田にいた、あるいは下田に向かっていたということがわかります。さらに、加賀健介は、加賀自身の話によれば、十一月二十九日に浅野冴子から、至急、下田の自分のもとに来てほしいという電話を受け、翌三十日朝に新幹線と踊り子を乗り継いで下田に向かい、昼には下田に着いたと言っています。確かに二十九日、浅野冴子から加賀の携帯に電話をした交信履歴があります。岡本美樹は、下田には行っていません。そういうことで、東京から下田にやって来たのは、志村と妻のみずほと加賀健介の三人ということになりますが、このうち加賀健介については、二段ベッドから落ちて病院に搬送された勤務先の児童養護施設の子供につき添っていたというアリバイがあります。そういう諸々の状況を踏まえて、犯人を志村隆行と妻の志村みずほの二人に絞って捜査を進めたいと思いますが、どうでしょうか」
ここで武田は冒頭の報告を終えた。
「ストーカーにつけ狙われていたとか、行きずりの通り魔による犯行の可能性はないのか」
刑事課長の大橋が尋ねた。
「その可能性も捨てずに捜査してきました。まず、ストーカーにつけ狙われていたということはなかったようです。これは、被害者の母親や友人の証言からも明らかです。通り魔、強盗については、さっきも言ったように、浅野冴子の所持金、所持品をはじめ、無くなっているものはほとんどなく、なくなっているのは携帯電話と電子手帳だけです。これは、それを目当てに盗み出すにはあまりに安価なもので、むしろそこに記されてある、おそらく犯人とかかわりのあるデータ等を破棄するために犯人によって盗み出されたものと考えたほうが整合性があると思います。そのほかの浅野冴子の所持品は、ブランドものの時計と金のネックレスも身に着けたままでしたし、ノートパソコンもコンドミニアムに置かれたままになっていました。しかも、浅野冴子がコンドミニアムを出た際、ドアの鍵は掛けて出なかったようなのです」
ここで武田は、テーブルの上に置かれたお茶を一口飲んで、また話しを続けた。
「さらに、変質者による暴行、強姦等の可能性についても検証してみましたが、解剖所見を含めて、そのような痕跡は全くありませんでした。溺死した以外、体や衣服にこれといった外傷や損傷は認められませんでしたし、海水につかった以外、衣服の乱れもありませんでした。それに、被害者は深夜にボートに乗って、そのボートが転覆して海に落ちて溺死していますが、この季節、この時間に、全く見ず知らずの相手と一緒にボートに乗ることはないでしょう。もし仮に行きずりの犯人による犯行とするには、ボートを海に出してというのは考えにくい話です」
「自殺の可能性はないのか」
副署長が言った。森山は、捜査本部設置の会議のときも、自殺の可能性を主張していた。
「ありません。というのは、浅野冴子と親しかった加賀健介宛に、十一月二十八日付の手紙が届いています。これがその手紙です」
そう言って武田は、出席者に加賀健介宛の手紙のコピーを配った。
「これは、死亡当時の浅野冴子の心境をよく物語っている手紙だと思うのですが」
「この文面じゃ、自殺だって十分あり得そうじゃないか。禁断の恋っていうのは、不倫のことだろう。いまどきの若い子は全くなぁ。不倫の恋で妊娠しちまって、始末に困って自殺したんじゃないのか」
森山は自殺にこだわった。
「一見すると、そう読めなくもないですし、あるいは犯人の意図も、自殺を装って殺害するということだったのかもしれません。しかし、この手紙をよく読んでください。浅野冴子は、大学院を卒業したら児童養護施設で働きたいと書いています。そういう子供たちへの思いが、この手紙に色濃く出ている。 「加賀さんがそうしているように、施設で暮らしている子供たちに精いっぱい尽くしたいと思っています』というくだりがありますね。これは、そういう道ならぬ恋を克服して、新しい希望をもって生きていこうという若い女性の決意を表したものではないかと私は思うんです」
「おい、武田さんよ、随分甘いんじゃないか。ベテラン刑事がどうしたんだい。女から男に宛てた手紙なんてのは、半分は嘘だっていうだろう」
課長の大橋が揶揄するように言った。
「妊娠した胎児の始末に困って自殺したというのも、短絡的な推論ということになるじゃないですか。いまどきの若い娘は、そんなことで自殺なんかしないですよ。それに、S大学の大学院生には、それなりの知恵も分別もあると思います。現に、生きていこうという意思をこの手紙で表明している。とにかく、先の捜査本部設置のときにも話したように、諸々の証拠からして、これは殺しだと思いますんで、よろしくお願いします」
武田は二人の上司を押し切った。
森山も大橋も、武田の勢いに押されてか、
「まあ、武田さんがそう言うんなら、その線で捜査を続けよう」と折れた。
◇37 志村みずほ
浅野冴子は、商事会社の役員である浅野夫妻の一人娘であり、両親の愛を一身に受けて育った。容姿は美しく、児童福祉施設でボランティア活動に励んでいて、人柄は謙虚でやさしい。
そういう娘だから、人の恨みを買うようなことはないだろうとは思うが、それはわからない。人は、本人や周りの人間が意識しないところで他人の恨みを買い、その他人にとっては殺してやりたいほどの憎悪の対象であったりすることはないことではない。近年、一人の男をめぐって、その男とつき合っていた女が、男を奪った別の女を残忍な手口で殺害するという事件が何件か起きている。全く凡庸だった人生のある日、突然心の中に結実した黒い憎しみが夏の積乱雲のように膨らみ、雷鳴や驟雨を呼び、凶行に及ぶ。すべてが終わってみれば、もはや凡庸な生活を失ってしまった愚かな犯罪者が孤影悄然と立ちつくしているということは、よくあることだ。
二人の刑事が志村みずほの住む渋谷区内のマンションを訪れたのは、休日の朝だった。玄関のチャイムを押すと、間もなく女の声が、
「はい」と応じた。
「静岡県警伊豆南署の者ですが」
武田が告げると、
「静岡県警? どんなご用ですか」と、尖った女の声が返ってきた。
「休日でおくつろぎのところをまことに申しわけありませんが、ちょっとお尋ねしたいことがありまして」
「ですから、何を尋ねたいのですか」
女の声はさらに尖った。
「ある殺人事件のことで、ご主人と奥様のことを」
武田はズバリと用件を言った。これは効果があった。女は慌てた様子で、
「ちょっと待ってください」と言った。
鍵が外れる音がしてドアが開いた。不機嫌な表情の女が戸口に立って、
「どうぞ」と二人の刑事を室内に導いた。
「どうも申しわけございません。静岡県警伊豆南署の武田です」
武田は警察手帳を志村みずほに示した。
志村みずほの背後にいた少女が、逃れるように部屋を出て行った。
武田と安藤をリビングルームに招いた志村みずほは、お茶を出す素振りも見せぬまま、
「ご用件は何でしょうか?」と、勧められて着席した二人の刑事に尋ねた。
「実は、十一月末に下田で亡くなったS大学院生のことで、伺いたいことがありまして」
武田は揉み手をするような仕草をして言った。この武田の言葉に、志村みずほの顔色が変わった。
「隆行のことを?」
「ご主人と奥さんのことをです」
「私、現在隆行とは別居中です」
「承知しています」と応じて、武田は本題に入った。
「十一月の末に、ご主人の教え子の女子大学院生が下田で亡くなったことはご存じですか」
「隆行宛に訃報が届いていて、隆行が葬儀に出席したようなので、それは承知しています。その学生さんと隆行が何か?」
「ええ、奥さんには大変申し上げにくいことなんですが、男と女のつき合いがあったらしいのです」
この武田の言葉に、志村みずほは全く表情を変えなかった。
「亡くなった学生さんは浅野冴子さんという女性なんですが、お会いになったことはおありですか」
武田のこの問いに、どう答えたものか思案してのことだろう、しばらく間があって、志村みずほは声を低めて答えた。
「一、二度お会いしたことがあります」
「浅野さんとご主人の関係についてはご存じでしたか」
最初から不機嫌だった志村みずほの整った顔は、この問いに一層不機嫌に曇った。
「知っていました」
さらに間があって、志村みずほは低く答えた。
「奥さんの立場では辛い話をして申しわけありません。それで、それをお知りになったのはいつ頃のことですか」
「今年の夏です」
「どういうきっかけでお知りになりましたか」
志村みずほの顔に苛立ちが見えた。
「答えたくありません」
「亡くなったとき、浅野さんが妊娠していたことはご存じでしたか」
武田は、頑な女に一撃を見舞った。女の切れ長の目に、一瞬驚きの色が走ったのを、武田は見逃がさなかった。
志村みずほは、視線を落として何も答えなかった。全身に拒絶の意思が表れていた。
やむなく武田は話を変えた。
「ぶしつけなことを伺ってすみませんでした。それで、ご主人の十一月末の行動について伺いたいのですが、この時点ではまだ同居なさっていましたでしょうか」
この問いに、女はようやく口を開いた。
「現在隆行が住んでいる区内のマンションに、家族で一緒に暮らしていました」
「それで、十一月末頃のご主人の行動は、どうでしょうか、おわかりになりますか?」
「さあ、私も仕事をもっていて忙しい身の上で、夫の行動を一々チェックしてはいませんから。その頃の隆行の行動は覚えていないというより、最初からわかっていませんとお答えしたほうが正直かもしれませんね」
実際そうなのだろうと武田は思う。互いに仕事をもった多忙な夫婦というものは、そんなものかもしれない。
「その頃のご主人の行動を記録したものとか何か、お持ちではありませんか?」と、武田は食い下がった。
「ですから、私たちは別居していますから、隆行のものはすべて隆行のもとにあって、私は何一つ持ってはいません」
そう言って志村みずほは立ち上がり、
「もうお引き取り願えませんか。私からあなた方に申し上げることは、もうありませんから」と、厳しく言い放った。
「ちょっと待ってください。あの事件があった日、つまり十一月二十九日、奥さんは一人で下田に行っていましたね。あの日、奥さんは下田に何をしに行ったんですか」
それまで黙っていた安藤が語気を強めて言った。
志村みずほの表情が一瞬にして凍りつき、次いで力が抜けたように椅子に腰を落とした。
「どうですか。行きましたね」
安藤が念を押した。
「行きました」
少し間を置いて、志村みずほは小さな声で答えた。
「何をしに行ったんですか」
安藤がさらに問い詰めた。
◇38 石廊崎
あの日、すなわち十一月二十九日、確かにみずほは下田を訪れた。前夜、夫の隆行は深夜に帰宅した。眠れぬ夜を過ごしていたみずほの耳に、玄関ドアが開く音が聞こえた。隆行は、みずほの部屋を訪れることもなく自分の部屋に入った様子で、すぐに物音はしなくなった。
早朝、みずほは身仕度をしてマンションを出た。休日でまだ寝ているみずき宛に、 「お母さんは用があって出かけます。夜には帰ります」という書き置きをテーブルの上に置いた。
東京駅から新幹線で熱海へ、熱海から伊豆急線の普通電車で下田に向かった。
みずほは、職場のグループ旅行や組合の研修会で何度か下田を訪れたことがあった。三年ぶりの下田だった。みずほはかつて、美しい海と、たおやかな山を望む駅前の風景に好感を抱いてその町を後にしたものだった。
それから三年後の十一月二十九日、みずほは怒りに突き動かされるようにして下田の駅に降り立った。電車を降りて、ホームの一隅で浅野冴子に電話をした。コールサインが六回鳴った後、
「はい」という浅野冴子の声が聞こえた。
「志村の妻です」
みずほが名乗ったとき、浅野冴子は沈黙した。固唾を呑んで沈黙している様子が携帯電話越しに伝わってきた。
「私、いま下田の駅に着きました。お尋ねしたいこと、お話ししたいことがあります。会ってくださる?」
みずほの言葉に、浅野冴子はやはり言葉を発しなかった。夫の若い愛人は恐れおののいているのだろうとみずほは思った。
「浅野さん、いまどこにいらっしゃるの。私のほうから訪ねて行きますから、場所を教えてくださる?」
この後、浅野冴子がとった態度は意外なものだった。
「申しわけございませんが、お会いできません」
それは、それまでの浅野冴子の楚々とした印象からは想像し難い、強い拒絶の言葉だった。
今度はみずほが沈黙する番だった。増幅された怒りが、みずほの心に沸々とたぎった。しかし、ここで発すべき言葉をみずほは探さなければならなかった。愁訴はできない。愁訴などするものかという思いが、みずほを沈黙させた。
ここでさらに意外な事態になった。相手方から不意に電話が切られ、断続音が鳴り出した。
みずほは携帯電話を握りしめて再びボタンを押したが、もはや浅野冴子の電話は電源が切られていた。みずほは惨めさに打ちひしがれてホームに立ちつくした。しばらく立ちつくして、ようやく改札を出た。自分を嘲っているだろう夫の若い愛人への憎悪が、みずほの心に充満していた。しかし、みずほには、浅野冴子がいるというコンドミニアムの場所がわからなかった。みずほは悔しさを噛みしめつつ駅を出た。
駅前の山は三年前と変わることなく、たおやかに横たわっていた。タクシー乗り場に数台のタクシーが並んでいるのが目についた。みずほは、ふらふらとそちらに歩み寄って、タクシーに乗り込んだ。
「石廊崎へ行ってください」と、みずほは運転手に告げていた。
石廊崎は、職場の旅行などで下田に来たときに何度か訪れたことがあった。灯台の下を通って、海を右手に見ながら狭い石段を下り、岩の窪みに設けられた祠の前を通り、さらに階段を下りると、空と海がみずほの視界を満たした。
なぜ、自分はこのような惨めな運命をたどらなければならないのか。なぜ自分はこの下田までやって来たのか。自分をここまで赴かせた情動こそ、自分の不幸の源なのかもしれないとみずほは思う。そういう情動に突き動かされ、こんなにボロボロになるまで、自分を駆り立てなければ済まない。みずほは、我と我が身に哀れを覚えた。
風はわずかだったが、遥か沖から無数の波が寄せて、岬の周囲の岩に砕け散っていた。魚影を追う海鳥の鳴き声がみずほの悲哀を深くした。
そのとき、携帯電話が鳴った。みずほは一瞬電源を切ろうとした。浅野冴子からかもしれないと思った。
着信番号を見て、みずほは電話を耳に当てた。
「お母さん、いまどこにいるの?」
それは、みずきの声だった。
「伊豆半島のいちばん先っぽよ」
「伊豆半島のいちばん先っぽって? いま何をしてるの」
「いま、海を見てる」
「海を見てるの?」
「そう、海を見てるの」
「海、きれい? 私も見たいな、海」
「とてもきれいよ。今度一緒に来ようね」
そう言ったとき、不意にみずほの目に涙が溢れた。
「お父さん、どうしてる?」
「私が起きたときは、もういなかった」とみずきは答えた。
「そう、食事は、朝と昼と、しっかり食べた??」
「うん、食べた。朝はトーストに牛乳にハムエッグ。昼はレトルトカレー」
そう答えるみずきの声は無邪気だった。
怒りと悔しさにさいなまれていたみずほの心は、みずきの言葉に和んだ。帰らなければ、何があっても理性を失ってはいけない。早く娘のもとに帰らなければとみずほは思った。
みずほはタクシーを拾って下田駅に戻り、上りの踊り子号で帰途に着いた。
「東京に着いたのは、何時でしたか」
長い話を聞き終えて、武田は改めて尋ねた。
「二十九日の夕方七時前だったと思います」
「東京から家に真っ直ぐ帰られた?」
「はい。駅前で買い物をして帰りました」
「東京に着いた前後に、自宅に電話をしましたか」
「ええ、東京に着いて、娘に電話をしました」
「自宅に着いたのは何時頃でしたか」
「確か八時を過ぎていたと思います」
「家に帰り着いたとき、ご主人は、自宅にいらっしゃいましたか」
「いいえ、不在でした」
「そのときのご主人の行き先は、おわかりでしたか」
「いいえ、わかりませんでした」
「お嬢さんも知らなかった?」
「ええ」
ここで武田は手帳にメモをとり、しばらく間を置いた。
「その後、ご主人に最初にお会いになったのはいつでしたか」
「十一月三十日の夜でした」
「三十日、奥さんは出勤なさった??」
「はい、定刻に出勤しました」
「お嬢さんは学校へ?」
「ええ、いつもの月曜日の朝どおりでした。ただ、夫だけが不在でした」と、志村みずほはうつ向いて答えた。
二人の刑事は席を立った。二人を送り出すときの志村みずほの様子は、二人が訪れたときの刺々しく苛立っていたものとはうって変わって、力なく沈んでいた。
「どうもお邪魔しました。またお話を聞かせてもらわなければならないこともあろうかと思います。そのときはよろしくお願いします」
武田の言葉に応答することもなく、志村みずほは放心したような目差しで武田を見ていた。
二人の刑事は、志村みずほのマンションを後にした。
「志村みずほのアリバイはどうですかね」
車のハンドルを握っている安藤が武田に尋ねた。
武田は答えなかった。武田は、志村みずほの供述の内容は事実だろうという印象を受けていた。自分たちに問い詰められて一瞬凍りつき、次いでフッと体から力が抜けたような表情になって経緯を話しはじめた志村みずほには、虚偽の事実を周到に組み立てて言葉にするだけの気力は失せていたように思われる。しかし、それは何の裏づけもない印象だった。
「十一月二十九日、志村みずほが下田へ行った時点で、志村みずほは浅野冴子の所在がわからなかったと言っていましたね」
「本当かもしれないな。それに、二十九日の夕方、帰り着いた東京駅から、娘に携帯で電話をしたと言っている。事実関係も含めて、これも交信履歴を調べればすぐわかることだ。発信地が東京か静岡かだ。それに、十一月三十日は、勤め先の高校に定刻に出勤したとも言っていた。これも、学校に問い合わせればすぐわかることだ。浅野冴子の死亡推定時刻は二十九日深夜から三十日の未明にかけてだ」
「そうですね。私が一つ一つ裏を取りますよ」
「頼むよ」
武田は助手席のシートに深々と身を沈めて答えた。
加賀健介や志村みずほの供述の裏づけをとらなければならない安藤を東京に残して、武田は一旦下田に戻ることにした。武田は、東京駅まで送って行くという安藤を押しとどめて、志村みずほのマンションの最寄り駅から電車で帰途に着いた。
◇39 尾 行
東京に残った安藤から下田に戻った武田のもとに、加賀健介はもちろん、志村みずほについても供述の裏がとれたという連絡が入ったのは、翌日の午前中だった。
安藤の連絡を受けた後、署内で昼食を終えた武田のもとに交通課の係官がやって来た。
「道路公団と県警の交通部から、道路の監視カメラの分析結果が届きました」と言って、その係官は武田にA4判の封筒を手渡した。
武田は受け取った封筒の中身を何枚かめくって見て、東京で捜査に当たっている安藤の携帯電話にコールした。
「剛ちゃん、さっきはどうもありがとう。今度はこっちから朗報だ。十一月二十九日と三十日の、東名高速から下田までに設置されている監視カメラの分析で、志村隆行の車が、十一月二十九日の夜に下り線を、そして三十日未明に上り線を通過している写真が出てきたぞ!」と大声で言った。
「本当ですか、それはラッキーです。いま車でその男を尾行しているところで、失礼します」
そう言って、安藤はすぐに電話を切った。
志村が運転するシルバーメタリックのBMWは、自宅マンションの駐車場を出て最寄りのインターチェンジから首都高速に乗ると、湾岸線に入って横浜方面に向かい、やがて横浜ベイブリッジにさしかかった。建ち並ぶビルの窓が陽射しにきらめいている。倉庫、コンテナヤード、埠頭、埠頭に接岸している大小さまざまな船、巨大なクレーンの姿も見えた。砂浜と磯が続く下田の風景とは全く違う、大都会の港の風景だった。
志村の車は横浜ランプを下りると、海辺に建ち並ぶマンションのとある地下駐車場に下りて行った。安藤も続いてその地下駐車場に車を入れた。
志村は、車を降りると足早にエレベーターの中に姿を消した。エレベーターは最上階の二十階で止まった。安藤はそれを見届けてから、自分も別のエレベーターに乗り込んで二十階に向かった。
安藤がエレベーターを降りたとき、すでに廊下に志村の姿はなかった。
並んでいる部屋をざっと見る。海に面したほうにだけ部屋が七室並んでいる。英字の表札が出ている部屋が二つで、あとの部屋は表札が出ていなかった。
安藤は廊下の柱の影に隠れて待った。志村はどの部屋に入ったのかわからない。とにかく出てくるまで待つしかなかった。
廊下からは辺りの様子が一望できた。いくつもの高層ビルが冬空に向かってそびえている。そのビルの無数の窓にも、見下ろす地上にも、人の姿は見えなかった。大勢の人間が生活しているはずなのに、その姿は見えない。生活の匂いも、人の息づかいも感じられない。人間の営みのすべてが、コンクリートとガラスの中に隠れている。
ふと、エレベーターが止まった。安藤が柱の影に身を寄せてそちらを窺うと、背の高い女がエレベーターを降りたところだった。サングラスをかけ、黒いロングコートを着て、黒いハンドバッグを持っている。長身の体に黒いコートがよく似合っていた。
安藤は、どこかで見た顔だなと思った。確かにどこかで見た顔だ。女優かと思い、何人かの女優の顔を思い浮かべたが、女の顔は半ばサングラスに隠れてよくわからなかった。女は、いちばん左奥の、表札の出ていない部屋の前に立った。
安藤は、カメラを手にしていた。その女が誰かはわからなかったが、とにかく写真を撮っておこうと思った。怪しいと思ったわけではない。港のマンションの誰もいない廊下に、黒い装いの女の姿は、よく似合っていた。その構図が、安藤にシャッターを切らせた。
女が室内に消えると、安藤はショルダーバッグから 「司法警察関連法令概説』を取り出して読み始めた。安藤は、行く行くは警察署長になりたかった。自分が警察署長になることが、生涯出世とは無縁な交番勤務の警察官だった父の悲願であり、父と同じ職業を選んだ安藤にとっての親孝行でもあると思っていた。
安藤は、地元の大学を卒業して静岡県警に就職した。貧しい平の警察官の家で、大学まで出してくれた父に感謝していた。暇を見ては上級職に向けての勉強をしていた安藤にとって、張り込みは格好の勉強の場でもあった。
一時間半が過ぎた。その間、マンション二十階の七つの部屋のうち、二つの部屋で人の出入りがあったが、志村はどの部屋からも出てこなかった。さらに十分ほど過ぎて、さっき背の高い女が入った部屋のドアが開いた。男の姿が見えた。男は志村だった。安藤はカメラを向けてシャッターボタンを押した。そのまま追おうとも思ったが、さっきのサングラスの女が出てこない。それが気になって、安藤は志村を追うのをやめた。女はすぐに出てきそうな気がした。
それから十五分ほどして、女が部屋から出てきた。部屋に入ったときと同じ、黒いコートにサングラスという装いだった。安藤はまたカメラのシャッターボタンを押した。女はドアの鍵を掛け、エレベーターを待って降りて行った。
「この女、誰だかわかりますか」
伊豆南署に帰った安藤はパソコンのディスプレーに映し出した女の写真を武田に見せて尋ねた。
「誰かね。女優かモデルか、この辺ではちょっと見られない顔だな」
「鼻筋がスッと通って、美人だな。女優かね」と、居合わせた同じ課の中年の刑事が言った。男たちが首をひねっていると、
「その人、代議士の相川貴和子に似てますよ」と坂田康子が言った。
「相川貴和子?」
いつかは総理大臣になるだろうと言われながら、病気で倒れた与党の大物議員相川守の娘であり、世襲議員の相川貴和子。その美貌と才気で、いまや与党のプリンセスと呼ばれている相川貴和子。伊豆南署の刑事たちも、その女性議員のことは知っていた。
「そういえばそうですね。まさか、そんな大物が自分の前に姿を見せるなんて思いもしないから、どうしても思いつかなかったですよ。でも、言われてみれば確かに相川貴和子に似ていますね。いや、本物かもしれない」
「本物ですよ、サングラスをかけていても、顔の輪郭や鼻の形、口元でよくわかる。間違いないと思います」
坂田康子が自信ありげに言った。
「あのマンションの部屋は、何のための部屋なんでしょうね」
安藤が誰にともなく尋ねた。
「そのとき出入りしたのは?」と武田が尋ねた。
「志村と、この相川貴和子だけです」
「政治家の、秘密のアジトかしら」
坂田康子が言った。
「いや、案外、密会の、情事の場所だったりしてね」
さっきの中年の刑事が笑いながら言った。
「確かにそうかもしれませんよ。志村も相川貴和子も、出入りのときは必ず鍵を使っていましたからね」
「美人代議士と二枚目の元大学准教授ね。週刊誌の記者が飛びつきそうなネタだな」
武田が言うと、
「何が二人を結び付けているかですね」と安藤が受けた。
「よし、剛ちゃん、明日また東京に行って、二人の関係を洗おう」
翌日、武田と安藤は東京に向けて車で下田を発った。武田と安藤の次の仕事は、志村隆行と相川貴和子の身辺を洗うことだった。特に志村をマークした。武田は一度面会しているので、主に安藤が志村を追った。志村隆行事務所から自宅マンション、マンションから永田町の与党本部、渋谷の党支部、そして密会の場所になっているらしい横浜の海辺のマンションへと、安藤は粘り強く尾行を続けた。
一方武田は、再度S大学の平塚教授や岡本美樹に面会を求めるとともに、志村みずほのマンションを訪ねて、夫志村について詳しく事情を尋ねた。
捜査の結果、志村隆行は次の総選挙に与党からの出馬が決まっていて、着々と準備を進めていること。志村と相川貴和子が出入りしていたマンションは、相川貴和子が他人名義で借りている部屋であること。二人がその部屋にしばしば出入りしていることからして、どうやら志村と相川貴和子はただならぬ関係にあるらしいことを突き止めた。
◇40 ゆすり
中華料理店で昼食を食べ終え、摩天楼四十五階の事務所に戻った戸部に、若い事務員の福地由美が電話を告げた。
「特ダネABCから電話です」
「特ダネABC? 福地さん、知ってますか」
戸部は福地由美に尋ねた。
「さあ、アンダーグラウンドな雑誌を出している出版社でしょうか」
福地由美も知らない様子だった。
「不在を理由に切りますか」
「重要な用件があれば、また掛けてくるだろう」
そう言って戸部は自分の仕事に戻った。
「またさっきの特ダネABCから電話ですが」
今度はインターホンで福地由美が伝えてきた。戸部は電話を取った。
「どうもお忙しいところを申しわけございません。特ダネABCの編集をやっている北林と申します」という男の声。
「実は、相川貴和子議員のことで、どうしても見ていただきたいものが手元にありまして」
これはゆすりだ、と戸部は直感した。
「いきなり見ろと言われてもな」
「見ておかれたほうが今後、相川先生の将来にとって有益かと思います。電話ではちょっと申し上げにくいので、そちらの事務所にお持ちしますから、一度目を通していただけますか」
北林と名乗った男が言った。ここで一蹴するのは簡単だったが、選挙が迫っている時期でもあり、やむなく戸部はその男と会うことにした。場所は事務所を指定した。
戸部が指定したその日の夕方、男は事務所にやってきた。
「いや本当にお忙しいところを申しわけございません」
福地由美にソファを勧められて腰を下ろした初老の男は、戸部を見ながら愛想笑いを浮かべて言った。やさ男の暴力団員が年をとったような、背の高い、崩れた印象の男だった。
戸部は無言で男と対面して腰を下ろした。
「これなんですがね」
男はまず、クリアケースに入れた、写真の入ったワープロ原稿を戸部に差し出した。
字面を読む前に、かなり大きくプリントされたカラー写真が戸部の目に入った。青い水着姿の相川貴和子の写真だった。トランクス姿の志村の姿も写っている。場所はどこだろうかと戸部は内心首をかしげた。何枚かの写真を見て、写っている植物や海の色から、そこは南国の海水浴場らしかった。
「与党のプリンセス、S大学准教授との道ならぬ恋』というタイトルが戸部の目に入った。もう一枚の写真は、二人が抱き合っている写真だったが、かなりCGで補正してあるらしかった。
「これを?」
戸部はわざと北林と名乗る男に尋ねた。男の意思は先刻承知の上だ。
「まあ、選挙前にこういう記事が雑誌あたりに載ると、相川先生もいろいろお困りでしょうし。相手が何しろ妻子ある大学の先生ですからねぇ」
北林は卑しい薄笑いを浮かべて言った。戸部は、こういう類の人物に何度も出会っていた。皆共通して、いやしい目つきをしている。日々の生活の自堕落さが、顔ににじみ出ている連中だった。こういう連中は、ゆすりたかりのかどで警察に通報してもいいのだが、すぐに釈放されてしまう。そんなことをくり返しているうちに、相手との緊張感は増幅されて、不則の事態が起きかねなかった。
「これだけじゃないんですよ」と言うと、男はバッグの中からビデオカメラを取り出し、ディスプレーを開いて録画内容を戸部に見せた。同じ水着姿の相川貴和子と志村が、海辺のビーチパラソルの陰で語り合い、泳ぎ、コンドミニアムらしい建物に出入りする様子が映っていた。
「場所はどこだ」と戸部は不機嫌に尋ねた。
「沖縄のある島です。相川先生に尋ねてみてください」
男は薄笑いを浮かべて言った。
貴和子は、昨年夏、沖縄に行くなどと言ってはいなかった。確か下田の別荘に行ってきたという話は聞いたことがあった。しかし、写真とビデオに写っている風景は、砂浜の砂の白い輝きや薄い水色の海の色といい、明らかに南国の海辺のものだったし、志村と相川貴和子が仲睦まじく過ごしている様子が撮られている。昨年夏に撮ったものを、いちばん高く売れる選挙直前のこの時期まで押さえていたのだろう。
次回の選挙後、相川貴和子の入閣は間違いないだろうということがマスコミに取り沙汰されている時期だった。選挙への影響はもちろん、その先にある貴和子の栄達を思い、戸部は噴き上げる怒りを心の闇の中にねじ込んだ。
「いくら欲しいんだ」
戸部は怒りを含んだ低い声で尋ねた。
「これだけお願いできますか?」
男は目の前で左手の指を四本戸部の前に差し出した。
「しばらく待ってくれ」
言い置いて戸部は隣の部屋に移り、金庫を開けた。中には、株券や割引債、公社債など、さまざまな有価証券類の束の入った封筒とともに、札束が整然と積んである。
戸部は、封印された百万円の札束を二つ取って、大判の封筒に入れ、男の待っている部屋に戻った。
「お宅は、何という雑誌を出しているんだ?」
「いやぁ、うちの本は名もないやつばかりですが、まあ、記事を大手のM出版やY出版によく買ってもらっていましてね。この前の週刊SのNM幹事長の記事も、うちから出たものですよ」
男は誇らしげに言った。
「そうかい。まあ、その記事とビデオは置いて行ってもいいよ。カメラもいっしょにね」
「そうですか。残念ですが、そういうことにしましょうか」
男は卑しく笑った。
戸部は、封筒に入れた二百万円をテーブルの上に投げ出して、ソファを立った。
男は、その封筒を素早くつかむと、中を改めた。
「もうちょっとお願いできませんか。これじゃ取材費にも足りない」
男は戸部の顔を上目づかいに見て、上乗せを要求した。
戸部は怒りをこらえて、
「そんなもんだよ、北林さん。それ以上は警察に行ってもらってくれ」と言った。
「わかりました。どうもお忙しいところをお邪魔しました」
男は金の入った封筒をバッグにしまい、そそくさと出て行った。
戸部はテーブルの上に置かれた記事とビデオカメラを自分の鞄にしまった。決して人目につかぬよう始末しなければならない。
もちろん、書かれている内容が百パーセントでっち上げなら、ビタ一文出す必要はない。同じようにゆすりを働きにきた男の目の前で、戸部が一一〇番通報し、相手が慌てて逃げ出してしまったこともあった。戸部は、この写真と映像は、明らかに本物だと直感した。戸部に渡された映像だけでなく、すでにいくつもコピーが取られていることを覚悟しなければならない。今の世中、一度撮られた映像は、無数にコピーされ、ネット上に拡散することを覚悟しなければならない。
◇41 プリンセス
摩天楼の相川貴和子事務所にいた戸部進が静岡県警伊豆南署の二人の刑事の訪問を受けたのは、解散総選挙がいよいよ秒読み段階に入ったある日の午後だった。警察手帳とともに差し出された名刺には、 「静岡県警伊豆南署刑事課/武田徳郎」とあり、若い刑事の名刺には、 「安藤剛」とある。
「お忙しいところをどうもすみません。それにしても立派な事務所で、眺めが素晴らしいですね」
応接室に通された年輩の刑事が辺りを見回し、大柄な体を丸めるようにして言った。 相手が腰を低くしているのを見て、戸部は口を開いた。
「伊豆南署ですか。下田はなかなかいい所で、私も年に二、三度、骨休めにお邪魔していますよ。うちの先生の別荘も、下田のU浜の近くにあります」
「そうですか、それはそれは。何せ観光地ですから、お客様に来てもらうのがいちばんありがたいわけで。特に相川先生のような高名な方が別荘を構えてくださっていれば、それはまた一段と知名度が上がるというものでして」
年輩の刑事は、およそ刑事らしからぬ愛想笑いを浮かべて言った。
「それで、ご用件は」
「実は、去年十一月末に下田で起こった女子大学院生殺人事件のことで、ちょっとお伺いしたいことがありまして」
「私に?」
「いえいえ、相川先生にです」
この刑事の言葉に、戸部は内心驚いた。そして怒りに声を荒げた。
「先生はそんな事件とは無関係だ」
「ええ、おそらく相川先生は、事件には関係していらっしゃらないと思います」
「じゃあなぜ先生の名前を出すんだ。いま選挙直前だということは知っているだろう。迷惑な話だ」
「知っています。ご迷惑をおかけすることは申しわけなく思います。しかし、我々の仕事には、捜査に当たって、人の地位の高い低いで遠慮があってはいけないので」
「それも事と場合によるだろう。いまどきじゃ、選挙妨害になりかねない」
「どうぞ誤解しないでください。全くそんなつもりはありません。ただ、どうしても相川先生にお会いして伺いたいことがありまして」
「どんなことを?」
「ご本人にお会いして、直接伺いたいのですが」
「だから、先生は選挙前で多忙を極めておられる。用件がわからないのに、いきなり先生に会わせるわけにはいかない。私はそういうことをチェックする立場なんだ」
戸部は苛立って言った。
戸部は自分の名刺をテーブルの上に置いた。
「わかりました。実は、元S大学准教授の志村先生のことで。大学のほうは去年の秋にお辞めになったようですが」
「ああ、志村先生ね。志村先生と殺人事件と、どんな関係があるんですか?」
殺人事件という言葉と、志村の名前を聞いて、戸部はいささかひるんだ。
「いや、まだはっきりしたことは何もわかっていないんです。ただ、捜査の過程でいろいろ浮かんだことがあって、そこで相川先生にお話を伺えればと思いまして。相川先生に容疑とか何とかという話ではないんです」
「志村先生がその事件に絡んでいると?」
「ですから、何とも申し上げられないのです。ただ、相川先生と志村先生は親しい間柄でいらっしゃるようなので」
と年輩の刑事が言った。
「親しい? それはどういうことだ」
戸部は不快感に顔を歪めて言った。
「つまり、志村先生が今度の総選挙に立候補するに際して、相川先生がいろいろ応援なさっているらしいということで」
刑事は、すでに志村の立候補のことと、志村と相川貴和子の関係を知っている。その関係がどこまでかは知らないにしても、貴和子が志村を候補者として推す立場にあることは知っている。
「ああ、それは党の候補者不足で、うちの先生が仲介して、S大の志村准教授を党の候補に推薦しただけの話だ」
「それで、その推薦なさるに至った経緯をお尋ねしたかったのですが」
ここで戸部はしばらく沈黙した。これ以上拒み続けるのは得策ではないと悟った。もし捜査令状でも突きつけられて、この件をマスコミにでも流されたら大変なことになる。相川貴和子本人には全く無関係な事件でも、この時期では、名前が出るだけで大きなダメージを受ける。戸部は相川貴和子の予定を記した手帳に目をやった。
「わかりました。明後日の夕方六時から十五分だけお会いするようにはからいましょう。」
「何とか三十分、お願いできませんか」
「じゃあ二十分で手を打とう。とにかく選挙前で忙しいんでね。場所はこの事務所でいいですか」
「結構です。ありがとうございます」
その言葉を残して、二人の刑事は相川貴和子事務所を立ち去った。
あの二枚目の学者は、とんでもない食わせものかもしれないなと、戸部は以前から苦々しく思っている男の顔を思い浮かべた。志村とは、戸部の輩下の永川という秘書を志村の選挙参謀として紹介した際、選挙のハウツーについてレクチャーして以来会ってはいなかった。
もし、まかり間違って志村が女子大学院生殺人事件に絡んででもいたら、貴和子にとって大変なダメージになる。選挙を控えて命とりになりかねない。それに、次の選挙後の組閣では、相川貴和子の入閣は間違いないだろうという憶測が、与党関係者の間のみならず、マスコミにも流れていた。初入閣、それは政治家相川貴和子が大きく飛躍する絶好のチャンスなのだ。それを確実なものにするためにも、この選挙では、記録的な大量得票をもって圧勝しなければならない。そういう大事な時期に、貴和子は志村にまつわるスキャンダルに巻き込まれようとしている。
戸部は貴和子に電話をした。
「戸部です。いまどこですか」
「党本部です。選挙対策本部長に呼ばれて、応援演説のスケジュール調整をしているの。選対の要求を全部聞いてたら、私の選挙区に行く時間どころか、食事をする暇もなくなっちゃう。ひどいと思うでしょう」
貴和子は元気だった。
「まあ、それも人気のある証拠だと思ってください。それより、ちょっと面倒な用件が飛び込んできましてね」
「面倒な用件って、何ですか」
「実はさっき静岡県警の刑事が二人でやって来まして、ある事件のことで貴和子さんに話を聞きたいから会わせてくれと言うんですが」
「警察? 選挙前に縁起でもないわ。どんな用なの」
貴和子は甲高い声で応じた。
「とにかく相川先生にお会いして話を伺いたいというばかりで。それで、明後日に二十分だけ、事務所で事情聴取に応じることにしましたが、いいですか」
「この忙しいのに、しょうがないな。でもまあ、相手が警察じゃ仕方がないわね。何の事件なの。この時期に、どこぞの先生の収賄事件じゃないでしょうね」
「志村さんのことです」
戸部は怒りを覚えつつ言った。
一瞬、貴和子の声が途切れた。
「志村先生がどうしたの」
しばらく間があって発せられた言葉は、かなりトーンが下がっていた。
「下田の女子大学院生殺人事件に絡んでいるかもしれないというのです」
「そんなバカな。あの人がそんな血生臭い事件にかかわるわけがありません!」
貴和子は激しく反応した。
「まあとにかく、よろしくお願いします。選挙後の組閣で、貴和子さんの入閣は間違いないだろうと言われているわけですから、汚点を残すようなことのないように行動にはくれぐれも注意を払ってください」
「わかりました」
この言葉を最後に貴和子は電話を切ってしまった。
貴和子は戸部との電話を終えると、急いで党本部から議員会館の自分の部屋に戻り、一人になって志村に電話をした。戸部から知らされた用件を話すと、
「変な話だな」と、志村はいつになく不機嫌な声で言った。
「殺人事件なんて、あなたには関係のないことでしょう」
貴和子は強い口調でそう言った。
「確かに僕の研究室の研究生の女の子が、下田の海で溺死したという話はあって、刑事がその学生のことをあれこれ聞きに僕を訪ねてきたこともあるけど。それが殺人事件になっているというのは初めて聞いた」
隆行の口調は淡々としていた。
「全く、選挙を前に、野党側から変な情報を流したんじゃないかしら」
「わからないな。三日後の話、終わったら教えて」
「もちろん、逐一知らせます」
「録音しておいてもらえるとありがたいな」
「わかりました。秘書にとらせます。今度、いつ会えるかしら」
貴和子は急に甘い声になって尋ねた。
「じゃあ、ついでだから明後日の夜ということにしようか。九時過ぎると思うけど、いつもの場所で」
「いつもの場所で九時過ぎに、よろしくね」
二人は電話を終えた。
二日後、武田と安藤は指定された午後六時に相川貴和子事務所を訪ねた。まばゆい照明と音楽に飾られた摩天楼とその周辺は、大勢の人で賑わっていた。
四十五階に上がった二人の刑事は、先日第一秘書の戸部と話をした応接室に案内された。
相川貴和子は五分ほどして、秘書の戸部とともに姿を現した。
二人の刑事は立ち上がって相川貴和子を迎えた。
頻繁にテレビほかのマスコミに登場する相川貴和子の美しい容姿と、代議士としてのネームバリューが醸し出すのだろう、その姿には対面する者に面映ゆさを感じさせずにはおかない存在感があった。そしてそれは、のどかな海辺の町からやって来た二人の刑事に、何とも言えぬ居心地の悪さをも感じさせた。
「お待たせしました」
相川貴和子はにこやかに二人の刑事に席をすすめた。
濃紺のスーツ姿の相川貴和子は、二人の目の前で長く形のよい脚を上品に折り畳んで、秘書の戸部とともにソファに腰を下ろした。
「どうもお忙しいところを申しわけありません。先日、こちらの戸部先生にはお話ししたのですが、実は志村隆行先生のことで、ちょっと伺いたいことがありまして」と武田が切り出した。
「志村先生のことですか」
「はい、S大学をお辞めになって、今度総選挙に出馬なさるという話をお聞きしましたが」
「私も詳しいことは知らないので、その辺のことはご本人にお聞きになったらいかがですか」
相川貴和子はにこやかに応えた。
「ええ、先日一度伺いました。それで、志村先生が総選挙への出馬を決意するについては、相川先生のお誘いがあったと伺っているのですが」
相川貴和子の顔から笑みが消えた。
「党が候補者不足で、たまたま志村先生は大学で私の二級先輩でしたからね」
「ああ、大学の先輩後輩の間柄でいらっしゃる」
「そうです」
「立ち入ったことを伺って恐縮ですが、大学を卒業なさってから、ずっとおつき合いがおありになったのでしょうか」
「いいえ、今年の初夏だったかしら、先生の講演を伺う機会があって、それ以来、経済政策のことを教えていただいています」
「相川先生は、志村先生と先に下田で亡くなった浅野冴子さんという教え子との関係については、ご存じでしょうか」
一瞬相川貴和子の目が光った。
「いいえ、存じません」
「実は、志村先生と亡くなった浅野冴子さんとは、恋愛関係にありまして」
武田刑事は続けた。
それまで穏やかだった相川貴和子の表情がこわばった。
「何でそんな話を先生にするんだ。失礼じゃないか。先生には何のかかわりもない話だ」と、秘書が話を遮った。
「これは失礼しました」と刑事は詫びた。
「あなた方は、与党の候補者を中傷するつもりですか」
相川貴和子は二人の刑事を睨むようにして言った。
「いや、すみません。そういうつもりは毛頭ありませんで」
武田は、これ以上相川貴和子に話を聞くのは無理だと悟った。
「今日はこれで失礼します。また何かありましたら教えていただくということで、よろしくお願いします」
そう言って二人の刑事は席を立った。
「これからしばらく、選挙が終わるまで忙しいから、もし何かあるにしても、選挙が終わってからにしてもらいたいんだがね」と、秘書の戸部が強い調子で言った。
「わかりました。お忙しいところをお邪魔しました。ご協力、どうもありがとうございました」
武田と安藤は相川貴和子事務所を出て、エレベーターで地下駐車場に降りた。車に乗り込むと同時に、
「何も出ませんでしたね」と安藤が言った。
「まさか、相川先生は志村と愛人関係におありですか、とは聞けないしな」と武田は苦笑いをした。
二人の刑事が帰ってから、戸部は貴和子とソファに掛けて対面した。戸部は、貴和子と志村の関係を断ち切ることができなかったことに、無力感を感じていた。戸部は二人の関係を断ち切りたかった。しかし貴和子は、とうとう志村を与党の議員候補にまで引き上げてしまった。自分の愛人を自分と同列に引き上げて、その上で結婚でもしようと思ったのかもしれない。しかし、その男が、いま貴和子の命とりになりかねない、大きなリスクに変貌してしまった。
「貴和子さん、しばらく志村さんとは離れていたほうがいいです。もしものことがあったら大変なことになります。ああして刑事が訪ねてくるというのは、それなりの証拠をつかんでのことでしょうから、志村さんに女子大学院生殺害の嫌疑がかかっているということでしょう」
貴和子は沈黙していた。
「気分が優れないので、今日はこれで帰ります。後を頼みます」
いつになく沈んだ表情で言って、貴和子は事務所を出て行った。
貴和子は車で自分のマンションに向かい、隆行を待った。暗い部屋で明りもつけずに、窓際に寄り、夜の海に目をやった。
ベイブリッジの上を夥しい車のライトが流れて行く。その車を運転しているのは誰か。誰一人としてわかりはしない。自分は、そういう無名の、名前も肩書きも不明な人間の身軽さをもたない。海を泳ぐときのように、身軽に、軽快に振舞うことができない。恋さえ自由にはできないのだ。それにしても、隆行はどうしたのか。なぜ、大学院生と関係などもったのか。あるいは、自分とつき合い始めてからも、その大学院生とは関係があったのだろうか。
そこまで考えて、貴和子は自分の考えが惨めな落とし穴に落ちていきそうなのを感じ、その思いを振り払った。
しばらくしてチャイムが鳴った。モニターを見ると、隆行だった。
隆行はいつになく落ち着かない様子で部屋に入ってくると、いきなり、
「刑事は来たの?」
隆行の表情にいつもの穏やかさはなく、心がざわめいている様子が一目でわかった。
「来たわ」
「どんなことを聞かれたの」
「あなたが総選挙に出馬することになった経過について」
「そう、それでどう答えたの?」
「もちろんちゃんと事実を伝えました。党が候補者不足で、志村先生に党からの立候補をお願いしたって」
「録音してくれた?」
「忙しくて、それはできなかった」
「そう」
隆行はわずかに眉をしかめた。貴和子の前で初めて浮かべる、不快そうな表情だった。
「それで、刑事が気になることを言っていたんだけれど、あなたと、下田で亡くなった大学院生との関係について……」
ここでようやく隆行は椅子に腰を下ろして話しはじめた。
「浅野冴子というのは社会福祉経済学の研究室の大学院生で、私の教え子に当たるんだ。その子が、去年の十一月に、学位論文を書くために泊っていた下田のコンドミニアムの近くの海で亡くなった。でも、どうやら警察はこの浅野冴子の死について、事故か事件か判断をつけかねているらしくて、いろいろ調べ回っているんだ。それで、私は彼女に近かった人間の一人として、その大学院生のことを根掘り葉掘り聞かれた。それだけです」
「そう、大学の先生も大変ね」
そう言った貴和子の顔は、安堵感にいくぶん和らいでいた。
「とにかく選挙前の大事なときだから、行動にはくれぐれも注意を払ってください。私たちがここで会うのも、選挙が終わるまで避けたほうがいいと思います」
貴和子は思い切るように言うと、急に甘い声で、
「しばらく会えなくなるの、寂しいわ」と言った。