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海と摩天楼  作者: 鶴次郎
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海と摩天楼 第2部


□第2部 再  会

◇6 再  会


 その日の午後、志村は地下鉄で都心のホテルに向かった。会場には、七、八十人ほどの代議士とその秘書だという人々が席に着いていた。隆行にとって講演の依頼は珍しいことではなかったが、大勢の代議士や政界、しかも政府与党の関係者を前に講演するのは初めてのことだった。

 「S大学の志村です。お招きいただきましてありがとうございます。今日は社会福祉経済学からの提言ということでお話をさせていただきます。現在、我が国で最も重要な、緊急に解決を要する問題は何か。さらなる景気浮揚策、安全保障政策の見直し等々、いろいろあると思いますが、私は少子高齢化の問題であると確信しています。かつて、一九八〇年代から九〇年代にかけて、日本は少子高齢化の時代が近づいて、やがて国民の五人に一人が六十五歳以上の高齢者で占められるようになるという話をよく聞きました。そして二十一世紀を迎えた現在、実際我が国はかつて経験したことのない少子高齢社会に突入しているわけです。この間、国は、高齢化問題については、介護保険制度の導入をはじめ、各種の高齢者ケア施設整備の推進など、実に多くの対策をとってきました。そしてそれは、一定の成果を見ていると思います。しかし、いま緊急に解決しなければならない問題は、高齢化の問題よりむしろ少子化の問題だと私は思っています。なぜなら、高齢化がいわば自然の成り行きであるのに対して、少子化は、極めて人為的なといいますか、若い人たちの意識に由来している問題だからです。ところが、現在の国の少子化対策はどうかといいますと、残念ながら、基本的には戦後間もない頃の施策をなぞっているだけで、新しい施策は皆無に等しい。それで、合計特殊出生率が低下の一途をたどるという、極めて深刻な事態に立ち至っているわけです。少子高齢化の進展に伴って、社会全体が活力を失い、徐々に衰退が進んでいるように思います。これを放っておけば、やがては国が滅びかねません。現に、このままでいくと、二十一世紀末には、日本の人口は現在の半分になってしまうという試算もあるわけです」

 このとき会場から、

 「そのとおり!」という声が上がった。

 「さて、いま日本にとって最も重大な問題である少子化を食い止めるにはどうしたらいいかです。ここで、社会福祉政策、特に児童福祉施策、あるいは家族福祉施策の充実が必須になってきます。いまなぜ若い世代は結婚しないか。あるいは結婚しても子供をつくろうとしないか。あるいは、子供をつくっても、子育てを全うできずに、育児放棄や虐待といった問題が年を追って深刻化しているか。それは、若い世代が大人になりきれていない、昔の若者に比べて未熟で脆弱だということもあるでしょう。しかし、親にとって子育てというものが、ハイリスク・ノーリターンの営みだという意識が若い世代に蔓延していることが最も大きいと私は思うのです。長年にわたって苦労を重ねても、はたしてその苦労が報われるかどうかわからない。場合によっては子供がいるがゆえに、親が子供もろとも地獄に落ちてしまうような悲劇的な状況にさえ陥りかねない。青少年犯罪の凶悪化のニュースは増えるばかりです。現在の政府の政策は、税制を含めて、このようなリスクを抱えつつ苦労して子育てをしている親たちに、二十代から四十代にかけての世代に大変冷淡です。少額の扶養控除をする以外、これといった援助をしていない。そうすると、どういうことが起きるか。同じ三十代、四十代の世代でも、子育てをしているほうは、日々の仕事と生活に追われてあえいでいる。実は我が家も、共働き家庭で子供がいますが、親はフウフウ言っています」

 ここで会場から笑いが漏れた。

 「一方、二十代から四十代の独身の人たちはどうか。連休があれば、国内はもとより海外旅行だって気軽に楽しんでいます。私が教えている学生たちも、よく海外旅行に出かけています。国内旅行と全く同じ感覚で、アメリカやヨーロッパへ、オーストラリアへ、中国へと旅立っていくわけです。まさに独身貴族です。この子育て世帯と独身貴族のギャップが、若い世代の意識に影を落とし、結婚や子育てを回避させ、結婚、出産にブレーキをかけている大きな要因の一つだと私は思うのです」

 ここで会場から拍手が起こった。

 「……少子化は、経済学の観点からみて、非常に大きな問題をはらんでいます。一つは、よく言われるように、青壮年層の減少による労働人口の減少、タフで創造力に富んだ優良な労働力の減少です。これによって産業は衰退し、経済活動が縮少していくことが危惧されます。これは、高度成長を続けるお隣の中国の経済が、数千万といわれる若い労働者の力によって支えられていることを見てもよくわかります。かつて我が国の高度経済成長を支えたのが、六百八十万人の団塊の世代であったことは申し上げるまでもない歴史的事実です。いま日本は、国の活力の源である若年労働者数がどんどん減っていて、しかも、その若者たちの失業率が高いのです。今後、大きくなる一方の高齢者人口の年金や医療を支える若者の数が減っていくわけですから、当然、若い世代一人一人の負担は右肩上がりに増えていくわけです。これから先は、右肩上がりの経済成長ではなくて、右肩上がりの負担増の世の中になりかねない、いや、そうなる可能性が極めて高いわけです。そして、そういう重圧感が、若い世代の意識にさまざまな影を落として、さまざまな問題を引き起こしているわけです。……結論に入りますが、そこで、この少子化に歯止めをかけ、人口構成のバランスをよくするにはどうしたらいいか。国も地方自治体も、児童・家族の社会福祉政策に向けて、予算を集中的に投入することだと思います。これまで日本では、狭い国土で人口が増えるのはよくないことだというふうに考える向きが多かったように思います。しかし、いま日本の現実はどうでしょうか。本当に人口密度が高いのは、東京をはじめとするいくつかの大都市圏だけです。狭い首都圏の四都県に、日本の人口のほぼ四分の一が集中しているわけです。地方へ行けば、多くの県、市町村が深刻な過疎化に悩んでいます。現況では人口増が見込めない限界集落が確実に増えていて、人が住んでいない廃村、甲作放棄地、あき家も着実に増えている。日本の国土は、まだまだ多くの人口を養える余地はあるのです。いくら平均寿命が伸びても、百歳を超えることはないでしょう。平均寿命の伸びはもうそろそろ頭打ちになります。ここで少子化に歯止めをかけ、しばらくの間人口増加政策をとって、老若の人口バランスをとることで、国の活力を蘇らせるべきだと私は思うのです。この不況の最中こそ、明日の活力を養うために、社会福祉、特に児童福祉、家族福祉に予算を注ぎ込むべきなのです。これは、費用対効果の観点から見ても、高齢化対策とは比較にならないリターンが得られるはずです。これはやがてたわわに実を結ぶ投資なのです」

 講演は終わった。特に質問は出なかったが、聴衆である政治家やその秘書たちは、熱心に志村の話に耳を傾け、中にはメモをとる者もいた。志村隆行は研究会の幹事に挨拶をして会場を出ようとした。

 このとき隆行に歩み寄ってくる一人の女性がいた。百七十センチ以上あるだろうと思われる長身の、目鼻立ちの整った女性だった。テレビや新聞、雑誌などでよく見かける顔だった。

 女性は隆行の前に立って、にこやかな笑顔で挨拶した。

 「S大学の後輩の相川貴和子です。お久しぶりでございます」

 相川貴和子は、故相川守代議士の長女で、父親の死後、その後継者として政府与党の代議士になった。その見栄えのする長身と目鼻立ちの整った顔、そして明快な言動は、才色兼備の若手女性代議士として、独身であったことも手伝い、一期目を終えぬうちに政府与党のプリンセスともてはやされるようになっていた。三期目に向けての二年前の総選挙では、横浜の選挙区で記録的な得票率で当選して話題になった。 志村に相対した相川貴和子の顔はにこやかで、志村がおぼろげに記憶している、学生時代の水泳にいそしむ活発な若い娘というだけの印象を越えて、明快な存在感を示している。それはやはり政治家の顔だった。

 見るからに上質の生地で仕立てられた紺のワンピースの左の衿元に議員章が光っている。

 「しばらくです。お元気で活躍なさっているようですね。よくテレビや新聞で拝見しています」

 「ありがとうございます。先生の今日の講演、素晴らしかったですわ」

 相川貴和子はさらに顔をほころばせて言った。

 「志村先生、ご一緒に夕食をいかがですか。ちょうど何人かの議員で夕食会をして意見交換をしようということになっていますので」

 「ありがとうございます」

 隆行は相川貴和子の誘いに応じた。政府与党の政策決定にかかわる議員たちの話は、隆行にも大いに興味のあるところだった。

 研究会に出席していたメンバーのうちの二十人ほどが、同じホテルのレストランに入った。その間、隆行は相川貴和子と並んで歩いた。研究会の会場を出るとき、廊下でいくつかカメラのフラッシュが光ったのに、隆行は驚いた。党内グループの研究会の席まで、マスコミは相川貴和子を追ってきていた。

 レストランに移ると、幹事役の若い議員が、今日の研究会の内容について、党の政策との一致点と相違点について話をした後、

 「今日は志村先生にもご出席いただいて、飲みながら食べながら、政策の理解を深めていきたいと思います。相川議員もいらっしゃることですし、ここはひとつ明日の鋭気を養うために、飲み放題、食べ放題、言いたい放題ということにしましょうか」と挨拶して、参加者の笑いを誘った。

 隆行は軽い興奮を覚えていた。政府与党の政策決定にかかわっている政治家たちと同席しての会食は、新進の経済学者の心をそそった。あるいは相川貴和子が終始自分の隣にいたことも影響していたかもしれない。

 確かに隆行はS大学で相川貴和子の二級先輩であり、学部も同じ経済学部だった。教室やキャンパスのあちこちで何度も相川貴和子に会ったことがある。しかし黙々と勉強に励んでいた隆行にとって、相川貴和子の存在は異国の街に住む人のように遠かった。短い言葉を交わしたことも何度かあったように記憶しているが、もはや何を話したか覚えてはいない。

 当時、相川貴和子は水泳部に所属して、S大のマーメイドと呼ばれていた。隆行が見かけるとき、貴和子はいつも大勢の学生たちにとり囲まれていた。その長身で華やかな容姿は、数多い女子学生たちの中でも際立っていた。いま隆行の隣にいる相川貴和子は、その学生時代の面影を残しつつ、常に注目を浴びることによるのだろう、その容姿は、さらに洗練されたものになっている。

 その相川貴和子が、志村のグラスに何度もビールを注いでくれた。隆行はかなり早いピッチでそのビールを飲んだ。その隆行の様子を見て、相川貴和子が尋ねた。

 「ビール、お好きですか?」

 「ええ、相川さんは?」

 「はい、私も大好きです」

 相川貴和子は笑顔で答えた。

 「気がつかなくてすみません。それじゃ私からもお注ぎします」

 そう言って、隆行は相川貴和子のグラスにビールを注いだ。

 出席者がそれぞれ政策や自分の苦労話などを披露して、一渡り話し終わり、それぞれ近隣との話に興じ始めた頃、相川貴和子が隆行に語りかけた。

 「志村先生、これから定期的に、先生のお話を聞く機会を設けていただけませんかしら」

 「それはいいですね。私も実際に国の政策決定に携わっている先生方とご一緒できるのは勉強になりますから、私からもお願いします」

 「私もまだまだ駆け出し代議士で、特に経済政策のことは正直言ってわからないことが多くて」

 相川貴和子は小声で言って、はにかんだような笑みを浮かべた。日頃、テレビに出てくる自信に満ちた態度とは違って、どこか頼りなげなところが隆行の心をくすぐった。

 ビールの酔いと相川貴和子がふり撒いている華やかな雰囲気が、自分の政治的スタンスとは距離のある与党の政治家との約束に、隆行を応じさせていた。会が終わるまでに、それぞれの電話番号を教え合って、隆行は帰途についた。

 渋谷にある自宅マンションのドアの前に立ち、鍵を開ける。家の中に家族がいても、チャイムを鳴らすことなく鍵を開けて入るのが家族間のルールになっていた。

 「お父さん、お帰り」

 小学五年生になる娘のみずきが隆行を迎えた。

 「ただいま。お母さんは?」

 「今日も残業だって。まだ帰ってない」

 「お母さんもバリバリのキャリアウーマンだからなぁ」

 隆行は半ば諦めの思いを込めて、みずきと自分をなぐさめるように言った。

 「お父さん、夕食は済ませてきたんでしょう」

 「ああ、今日はね、国会議員に話をしてきたんだ」

 「へぇ、有名な政治家、いたの?」

 「いた。相川貴和子がいた」

 「フーン。あの派手なおばさん。でも、きれいな人ね。背が高くて頭がよくて美人で、天から二物どころか、三つも四つも与えられた人ね」

 みずきは、小学五年生にしてはませたことを言う。みずきは、妻みずほと隆行の一人娘だった。

 「夕食はどこで食べたの?」

 「J大学のすぐ近くのNホテル」

 「フーン。超一流ホテル?」

 「そういうことになるな」

 「そういうの、お父さんの趣味なの?」

 「いや、そうでもないさ。お父さんは倹約質素を旨としている。お父さんの専門は社会福祉経済学だからね」

 そう言って隆行は笑った。それにしても、妻のみずほは遅い。以前は、帰宅が遅くなる日は、 「今日は遅くなります」と、いつも先に家を出るみずほは、隆行に断って出たものだが、最近はそれも言わなくなっている。帰宅してみると、みずきが一人、テレビを見ていたり、ゲームをしていたりする。食事はというと、テーブルの上にカップ麺の空が一つ二つ転がっていたり、菓子の空き袋があったりする。それを見るたびに、隆行は不快感に見舞われた。なぜ、小学生の娘をこのように夜遅くまで放っておかなければならないのか。なぜ、もっと早く帰宅して、みずきの身辺の世話をしてやれないのか。

 「君、もう仕事辞めてはどう?」

 隆行はみずほに一度ならず言ったことがある。

 「辞めるわけにはいきません。いくらあなたの希望でも、それだけはできません」

 そう言ってみずほは拒み続けてきた。

 隆行は亭主関白ではない。家庭で権力を振り回すこともない。そんなことはすべきではないと思っている。しかし、娘のことを考えると、みずほに仕事を辞めてほしいというのが本音だった。子育てが両親が等しく担うべき義務であるにしてもだ。

 別にみずほが仕事を辞めることで、経済的に困窮するわけではない。隆行は、S大学の准教授として、贅沢さえしなければ、一家三人を養うに十分な収入を得ている。にもかかわらず、みずほは仕事を辞めることを頑に拒み続けていた。

 男女の就労の機会が等しく認められるべきことは当然だし、国もそれを目指してさまざまな施策を講じてきた。それは、経済学者である隆行にも十分理解できることであり、むしろ奨励されるべきことだと思っている。

 しかし、自分の家庭に立ち返って考えてみると、やはり共働きは、子供に多くの犠牲を強いるもので、子供の成育にあまりよくないと隆行は思う。そう思うとき、隆行は自らが退職して子育てと家事に力を尽くすことにまでは考えが及ばなかった。いや、及ばないのではなく、現在の仕事を失うことを前提にした人生を考えることはできなかった。

 「もう一人子供がほしいね」

 隆行が水を向けると、

 「とても無理だわ」

 みずほは隆行の提案をあっさり拒んだ。

 みずきを育てることさえ、何とか歯を食いしばってやってきた。それをもう一人子供を産み育てるなどというのは、共働きでは無理なことなのだ。子どもを見てくれる両親が健在ででもあればいいが、二人の親はいずれも他界している。みずほにとって隆行の提案は現実離れのしたものだった。みずほは心の中で夫の甘さを笑った。


◇7 家庭


 「さよなら」と夕暮れの青の底に沈んでいる校舎を出て行く生徒とともに、志村みずほは勤め先の都立K高校を後にした。みずほは、学校の門を出た所で立ち止まって自宅に電話をした。

 「はい」と短く応じるみずきの声。

 「みずき、今日の夕食、何が食べたい?」

 みずほは今年十歳になる娘に尋ねた。

 「何でもいいよ」

 みずきは大人のように乾いた声で素っ気なく答える。

 「何でもいいって言われると、お母さんはいちばん困るわ」

 「そう言われても、お母さんが作ってくれる食事で、これが食べたい、あれが食べたいっていうものがないんだもの」

 みずきは母親としてはいささかショックなことを言う。

 「そう、じゃあ、デパ地下で何か買っていくから、買ってきてほしいものある?」

 「あるある。プリンアラモードと焼豚とシュウマイ」

 みずきは、手の平を返したようにあれこれ注文しはじめる。声も明るく弾んでいる。やはりまだ子供なのだと、みずほは少しホッとする。

 大学に勤めている夫の志村がこの時間に家にいることはまずないことだった。それどころか、家族揃って夕食をとることも、月に何回あるだろうか。いつもみずほと娘のみずきの二人だけの夕食になる。時には、母親のみずほも帰宅が遅れ、心ならずも、みずきに一人で食事をしてもらわなければならないことさえある。みずきのことが気になりながら、共働き家庭のために、なかなか身近にいて世話をしてやることができない。みずきの心は随分乾いてしまっている。独りで過ごすことが多いのが影響しているのかもしれない。

 そんなみずきの寂しさを慰めようと、みずきにせがまれて、いつも新しいゲーム機とソフトをやすやすと買い与えてしまう。みずきはそれに熱中して、両親が不在の間に、二時間でも三時間でもゲームをしていることがあるらしかった。帰宅したとき、充血した目をして、疲れてボンヤリとしたみずきの姿をよく目にした。

 「ゲームばかりしてちゃ駄目よ」

 みずほが注意すれば、

 「うん、わかってる」とは言うが、やはり一人きりで熱中してしまえば、十歳の子どもに抑制がきくはずもなかった。

 ゲームのしすぎは子供の心身の成長に少なからず悪影響があると、世の多くの親たちが訴えていることを承知してはいたが、みずきからそれを取り上げてしまうことが、みずほにはできなかった。

 みずきに夢はあるのだろうか、とみずほは思う。まだ十歳なのに、現実世界に絶望しているのではと思うことさえある。

 こんなことがあった。確か二年ほど前、小学三年生の頃だったと思う。休日、夕食の仕度をしているみずほにみずきが尋ねた。

 「お母さん、人生ってなあに?」

 それはテレビのアニメか何かの番組に登場したキャラクターが語った言葉なのかもしれない。

 「人生ねぇ。人が生きるって書くのよね。だから、みずきがこうやって毎日小学校に通って、小学校が終わったら中学校に行って、それから高校から大学へ通って、卒業したら仕事に就いて、お母さんのように素敵な男の人とめぐり会って結婚したりして、みずきのような子供が生まれたり」

 みずほは説明に多くの言葉を費やした。

 「それから?」

 みずきは先を促した。

 「それから、お父さんやお母さんのように仕事をたくさんして、レストランでおいしいものを食べたり、本を読んだり、ディズニーランドに行ったり、旅をしたり、お芝居や映画を観たり」

 「うん、いいことばかりだね。それで?」

 「それで年をとって、おばあちゃんになって」

 「それから?」

 「最後はみずきのおばあちゃんのように、あの世に逝っておしまいかな」

 みずほは先年逝った自分の母を思いつつ言った。

 「そう、それでおしまいなんだ。ゲームみたいに、どこをどうやって通りすぎても、やっぱりおしまいはくるんだ」

 みずきは独り言のように言った。

 「でもね、みずきの一日が、朝起きるときが始まりで、夜眠るのが終わりだとしたら、その間の起きている時間が人生で、それがどんなに豊かで楽しいかが大切なの」

 「うん、でも終るんだね。どんなに楽しくても、人生っていうのは必ず終る」

 みずきは妙に終りを強調した。それは、みずきが初めて人生に対して感じた虚しさだっただろうか。そのようなみずきとのやり取りが、みずほの印象に残っている。

 娘はなぜあんなに乾いてしまったのかと、みずほは考える。考えると、結局その責めが自分の喉元に突きつけられる。いつもそうなのだ。一人娘に心身ともに健やかに育ってもらうために、自分はもう教員を退職しようかとみずほは何度思ったことか。夫の隆行も、くり返しそれを求めていた。

 確かに教員を辞めることは難しいことではない。みずほが退職しても私立S大学の准教授である夫の年収は、都立高校の教諭をしているみずほのそれを上回っていて、贅沢さえしなければ、みずほとみずきを養うに十分足りる額だった。

 しかし、みずほは専業主婦になることを避けてきた。家事が嫌いなわけではない。働き者だった母に習って、みずほは料理はもちろん、掃除も進んでよくしたし、みずきが幼い頃は、その洋服や浴衣を縫ったこともある。

 みずほがいやだったのは、夫、志村の扶養家族になることだった。

 「私を養ってくれる?」

 隆行に結婚を申し込まれたとき、みずほは尋ねた。当時、隆行は経済学部の常勤の講師になって間もなかった。

 「もちろん」と隆行はさらりと答えた。

 しかし、それは結婚前の甘い生活の日々の言葉のやり取りにすぎなかった。みずほは、どうしても扶養家族になって、経済力を失って夫に養われている女、夫に庇護されている女として生きる道を選べなかった。男でも女でも、とにかく対等の経済力をもって、はじめて対等の夫婦でいられるのだとみずほは思っている。みずほが隆行に示した結婚の条件は、家事と子育て、生活費は二人で折半することというものだった。

 しかし隆行は、みずほに退職して専業主婦になることを求めていた。

 「みずきのこともあるから、できれば退職して」

 隆行は折にふれてみずほにそう求めた。そしてそれが夫婦間の軋轢の主な原因の一つだった。

 たとえみずきのためとはいえ、自分の信条を曲げて仕事を辞めてしまうことは、みずほにとってできない選択だった。とにかく、経済的な自立を失うことが、みずほには耐えられないのだ。それは、先年逝った母の生き方を目のあたりにして学んだことだった。

 みずほの父は電力会社の事務系の職員だった。大学を卒業して入社し、退職するまで勤め上げた。凡庸ではあったが、みずほの母みゆきと結婚後、みずほの兄啓一とみずほの父になり、地味な仕事に黙々といそしんだ人だった。

 そんな父に愛人ができたことを、当時中学生であったみずほは知らなかった。しかし、それは間もなく母の知るところとなり、母はそれで随分苦しんでいた。苦しみつつもそれに耐えて、父に女との別れを迫りながら、離婚に踏み切れずにいる母を尻目に、父は十年近くもその女との関係を続けていた。その父も、五年前に肺癌で逝った。

 「どうしてあのとき、お母さんはお父さんと別れようとしなかったの?」

 大学生になったみずほが尋ねたとき、母は、

 「結局、経済力がなかったからかしらねぇ」と、諦め顔で言ったものだった。

 ああ、そういうことだったのかと、みずほは母を哀れんだ。自活するための経済力がないばかりに、自分を裏切った男と添い遂げなければならない。そこには、もちろんみずほと兄の存在もあったはずだ。二人の子育てを全うしようとしたとき、母は忍従の生き方を選んだ。それは、いかにも古風だった。生きていれば今年六十六歳になる母の四十歳といえば、一九七〇年代のことになる。七〇年代の女は、まさかそんなに古風ではなかったはずだと、今みずほは思う。しかしそれでも母は、忍従の道を選んだ。

 そういう思いは、母への哀れみとともに、みずほの心に苦い記憶として残った。その経験を経て、みずほは、女も経済力を、生活力をもたなければならないと思うようになっていた。そうしなければ、金を握り、権力を振り回す男と対等に生きていくことはできない。恋愛の甘さはつかの間のもので、人生は結局闘いだ。男と、夫とだって闘わなければならないことはいくらでもある。その闘いを対等になすためにも、女も仕事に就き、仕事をもち、経済的に自立すべきなのだ。

 みずほはターミナル駅のデパートの食品売り場に向かった。夕暮れ時、そこはいつも混んでいる。みずほはいくつかの惣菜を買って自宅に向かった。

 みずほには気がかりなことがあった。それは、隆行が、かつてみずほの父がそうしたように、ほかの女とつき合っているのではないかということだった。

 隆行はやさしい男だった。みずほも心惹かれた、痩せて背が高く端整な容姿と、年を追って増していく陰影に富む表情、知性に裏打ちされたユーモアに富んだ話術は、人の心を惹きつけずにはおかなかった。それゆえに、隆行の周辺にはいつも女の影がつきまとっていた。みずほにとってそれは目障りで、気がかりでもあったが、それでも隆行を信頼してきた。

 その信頼が、結婚後十余年を経た今、揺らぎはじめている。相手のすべてを許し、受け入れることができるという燃えるような思いはどこへいってしまったのか。それは、夫においてそうであると同時に、妻の心においても同様だったのだ。

 みずほが最初に気づいたのは、半年ほど前のことだった。毎月、自分と夫の携帯電話、それに自宅の電話の交信履歴とその都度の料金の明細が届く。電話料に限らず、電気、ガス、水道料のチェックは、共働き家庭でも、やはり妻であるみずほの仕事だった。多忙な日々、多くの場合みずほはその明細に目を通すこともなく、月の請求額だけを見て捨ててしまっていたが、ある日、たまたま郵便ポストに入っていた隆行の携帯電話の明細を開いて見たことがあった。月額八千円程度だから、決して高くはない。日付と電話番号を追っていくと、いろいろ面白いことがわかる。自宅やみずほの携帯に電話をしているのもちゃんと記録されてある。

 隆行の請求明細の中に、いくつか不明な番号があった。それは、いずれも携帯電話の番号だった。


◇8 教授のポスト


 横田教授が急逝したのは、S大学付属病院に入院してわずか二週間後のことだった。入院後に家族から内密に告げられた話では、大腸癌が周辺の臓器に転移していて、手がつけられない状態になっていたという。

 告別式は葬儀委員長を務める経済学部長の指揮の下、しめやかに行われた。隆行にとって、かけがえのない恩師の死だった。

 横田教授が逝った後、研究室でタブーとされつつ、最も重要な話題は、横田教授の後任のポストに誰が就くかということだった。しばらくは隆行が代理を務めたが、それも一か月ほどだ。大学院生も含めて、研究室のスタッフの間では、准教授の志村が昇格するだろうという話でもちきりだった。社会福祉経済学の研究室でそれを阻む者は誰もいなかった。他の研究室や、他の大学から教授を迎えるよりは、気心の知れた志村准教授のほうがずっと受け入れやすかったのだ。

 隆行もまた、自分の昇進を信じて疑わなかった。故横田教授はもとより、経済学部長も、学会誌や経済関係誌に発表する隆行の論文を、ユニークで、鋭い洞察力と想像力に満ちた論文と賞賛してくれていた。

 社会福祉経済学科の新任教授が教授会で決定された日、教授会の後、隆行は学部長室に呼ばれた。学部長室に入ると、自分の席を立った渡辺一也経済学部長は、隆行と対面してソファに腰を下ろした。

 隆行は緊張して学部長の言葉を待った。

 「志村君、ほかでもない、横田先生の後任のことなんだがね」

 今年還暦を迎えるという渡辺経済学部長は淡々と切り出した。その顔は、周囲の人間に自分の感情、自分の思いを隠そうとし続けているうちに、心のカーテンとして多くの皺を刻んで、対面する者に、心のありかを推測することを許さなかった。

 隆行はさらに緊張した。

 「君の昇格ということも検討したんだが、結局、さっきの教授会で、R大の中塚准教授に来てもらうことになったんだ。君はまだ若い。中塚君はもう五十歳だが、君はまだ四十歳で、十歳も若い。これから先、十分チャンスはあります。その間、S大学教授にふさわしい学識を備えるように、さらに研鑽を積んでください」

 学部長はいつになく格式張ったことを言った。

 「わかりました。どうもご配慮ありがとうございます」と応じるのが隆行には精いっぱいだった。

 隆行は学部長室を出て自分の研究室に戻ると、一つだけあるソファに深々と身を沈めた。

 「S大学教授にふさわしい学識を備えるよう、さらに研鑽を積んでください」という渡辺学部長の言葉が、虚しく思い返される。

 隆行は、いまの自分の学識には自信をもっていた。最近経済誌に発表した隆行の景気浮揚政策に関する論文は、同じ誌上に載っている他大学の教授の面々の論文より斬新だったと、学部長自身が誉めていたではないか。それを隆行は、自分を教授に推す学部長のメッセージと受け取っていた。

 隆行は、五人の経済学部准教授の中の誰よりも多くの論文を発表してきたし、著作に励み、新書判も含めて数冊の本も出して、経済学者としての地歩を固めてきた。国際学会をはじめ、公私さまざまな学会、研究会にも出席してきた。

 それなのに、なぜ他の大学から教授を招くことになったのか。隆行は、五人いる経済学部教授たちの顔を思い浮かべてみた。しかし、そのうちの誰が自分の教授昇格を阻んだのか、全くわからなかった。ただ、やはりそれぞれの教授の思惑が交錯する教授会で、四十歳ではまだ教授になるには早いだろうという判断の下に、隆行の教授への昇格が見送られたことは確かだった。理工系の学部のように、発明や発見といった明確な業績を上げられることの少ない、実績がいまひとつ曖昧な経済学部では、よほど画期的な論文でも発表して一気に学会での知名度が上がるといったことでもなければ、若い准教授の昇格はない。あるいは、よほど政治力に優れて、労を惜しまず人脈を築くのに長けているかだ。

 あと十年。十年後、隆行は五十歳になる。そのとき、はたして自分はどうなっているだろうか。生死のほどさえわかったものではない。隆行の胸に、失望感が黒い油のように広がっていった。


◇9 父の死


 二十余年前のその日、隆行が通っていた高校から帰宅すると、母と二歳年下の妹は不在だった。隆行は半年後の大学受験に向けて、最後の夏休みを連日進学塾の特別講座に通う毎日だった。

 隆行はリビングルームでコーラを飲んでいた。冷えたコーラの甘さと炭酸の泡の喉越しが隆行は好きだった。

 ふと、今朝、いつもより早く家を出て行った父のことを思った。最近、父の顔色は優れなかったが、今朝は特に悪かったようだ。

 しかし隆行は、それがマスコミを賑わしている汚職事件の捜査に関して、警視庁から出頭を求められてのこととは知らなかった。父は、その話を家では一切したことがなかった。隆行も母も、父がその事件に深くかかわっていたことを知らなかった。ただ母が、

 「N公団って、お父さんが勤めている公団よね。でも、きっと調べられているのは上のほうでしょう」と言っていただけだった。

 電話が鳴った。隆行はグラスを持ったまま受話器を取った。

 「隆行、お父さんが大変なの、急いでN病院に来てちょうだい!」

 いままでに聞いたこともない、母の悲痛な声だった。隆行は最寄りの駅まで自転車を飛ばし、さっき降りたばかりの電車に乗ってN病院に向かった。

 玄関に母の姿があった。母はすすり泣いていた。その母とともに、隆行は集中治療室に向かった。

 某公団本社の事業一課長をしている父は、公団が発注する大型建設事業の発注業務の担当者だった。その父が汚職事件に連座して警視庁に任意出頭を求められ、六時間にわたって事情聴取を受けて警視庁を出た後、行方がわからなくなっていた。

 自殺だった。とあるマンションの屋上から飛び降りたという。

 不安は衝撃に吹き飛ばされた。後に、当時の政府与党の族議員一人が収賄の疑いで逮捕され、事件は終息した。終息させられたといったほうがいいだろう。その贈収賄事件については、その議員の上にさらに、与党中枢に君臨していた大物政治家が深くかかわっているという噂が週刊誌等に報じられてはいたが、それは立件されぬまま立ち消えになった。

 父の葬儀を終えてしばらく、隆行は受験勉強も手につかなかった。ただ呆然と時を過ごした。父の死が、病気でもなく、不慮の事故でもなく、自殺であったということが、父を失った痛手を倍加させ、隆行を打ちのめした。

 マスコミが書き立てていたように、父の自殺の原因は、贈収賄事件に連座してということになる。しかし、隆行には父がそのような金を受け取っていたとは思えなかった。あるいは、事業一課長として、たまたまゼネコン等に工事を発注する業務を担当していて、政治家の圧力に屈して入札情報を流し、わずかな金を受け取ったかもしれない。しかし、それでなぜ自殺しなければならなかったか。父は、隆行や母や妹の生活を思い、懲戒免職になってすべてを失うわけにもいかず、退職金や遺族年金も保障される可能性のある自殺を選んだのかもしれない。父は、すべてを腹腔深く呑み込んだまま、マンションの屋上から身を投じたのだ。その思いは、さらに隆行を打ちのめした。

 父の死後、一か月ほどの空白を置いて、隆行は目前に迫った受験に向けて勉強を再開し、第一志望のS大学に合格した。合格した後も、まるで大学に合格することだけが目標で勉強してきたような同期の学生たちが遊び呆けているのを横目に見ながら、隆行は黙々と勉強を続けた。

 汚職事件に連座して自殺した公団職員の息子という思いは、隆行を長く憂鬱の淵に沈ませた。隆行は笑わない、そして遊ばない学生になっていた。

 憂鬱と、遊びたいという意思の喪失は、結果としてトップクラスの成績を隆行にもたらした。

 隆行は、学部トップの成績で学士課程を修了し、横田教授の強い勧めを受けて修士課程から博士課程に進み、博士号を取った。その間の隆行の学資は、父が命を捨てて残した退職金でまかなうことができた。

 鬱々とした八年間だったが、無給の研究員から有給の講師として大学に迎えられ、三十二歳の年には助手として採用されるに至って、隆行の憂鬱は少しずつ晴れていった。

 しかし、それでも隆行は、ふとした出来事をきっかけに、心が底のない沼にでも沈んでいくような深い憂鬱に見舞われることがあった。父の死のイメージが心底からヌッと現れて、隆行を圧し潰さんばかりにのしかかってくるのだ。今回の教授のポストをめぐる不本意な人事を受けて、隆行は久々に深い憂鬱の淵に沈み込んでいく自分を感じていた。

 父はあのマンションの屋上に立ったとき、何を思っていたのか。公団職員として営々として築いてきたささやかな地位と名誉を失い、自分の不運を嘆きつつ身を投じたのだろうか。コンクリートで固められた地上に激突する寸前まで、自分は生きたい、もっと生きたいとは思わなかったのだろうか。

 螺旋状に淵の底に沈んでいくような想念を断ち切ろうと、隆行は鞄から携帯電話を取り出して、ある番号を押した。

 コールサインが六回目で、若い女の声が応じた。

 「はい」

 「志村です。今日、都合がよければ一緒に食事しませんか」

 「わかりました。どこにしますか」

 浅野冴子は応じた。

 「渋谷がいいな」

 隆行は渋谷のパブレストランを指定して電話を切った。こういうとき、同僚と一緒にやけ酒を飲むのが妥当なのかもしれなかったが、隆行はそれはしなかった。自分の沈んだ様子を同僚に見られるのは不本意だった。

 「先生、今日はお元気ないですね」と、向かい合ってビールを飲みはじめた浅野冴子が言った。

 「そう、元気がないか」

 「ええ、最近にはないほど落ち込んでいらっしゃる」

 「なるほどね。最近にはないか」

 そう言って隆行は手にしたジョッキの半分ほどを一気に飲み干した。

 「私は食欲がないんだが、君、食べたいものを注文して」

 この隆行の言葉に、

 「ありがとうございます」と言って、冴子は何品かを選んでウエイターに注文した。

 その後、ホテルの一室で一時を過ごした二人は、別々のタクシーで深夜の街をそれぞれの家に向かった。


◇10 学術祭


 その封書は、みずほ宛に届いていた。帰宅の早い娘のみずきが郵便受けから取り出し、自分宛のものだけ拾い出して、あとはリビングルームのテーブルの上に置く。その中にその手紙はあった。

 「 このたび、突然お手紙を差し上げることをお許しください。実はあなた様の夫である志村隆行S大学経済学部准教授について、人に道を説く者として芳しからぬというか、教育者にあるまじき行為があり、それをやめさせて、教育者として正しい道を歩んでもらうために、やむなくこの手紙を書いた次第です}

 ワープロで書かれたその手紙は、何とも大仰な書き出しで始まっていた。

 「実は、志村准教授は、こともあろうに自分の教え子である浅野冴子という大学院生と不倫の関係にあるのです。関係が始まったのは、もう半年近く前になるでしょうか。妻であり、K高校で教鞭をとっておられる志村みずほ先生からも、教育者としてあるまじき夫の行為をいさめ、浅野冴子との関係を断つよう説得していただきたいのです。くれぐれもよろしくお願いいたします。}

 その手紙はB5判の紙にワープロで書かれていた。封筒も、ワープロ文字で印字されている。封筒にも手紙にも差出人名は書かれていなかった。

 みずほは、たっぷりと悪意を含んだ手紙を読むうちに気分が悪くなり、読むのをやめようとしたが、最後まで目を離すことができずに読んでしまった。

 みずほは読み終えて、その手紙を破り捨てようとした。しかし、解決のつかない思いが、みずほの手をとどまらせた。


 夏休み前の週末、S大学の学術祭が開かれた。その日みずほは、みずきを伴ってS大学に赴いた。夫の勤務先であるとともに、自分の母校でもあるS大学の学術祭は、みずほが毎年訪れるイベントの一つだった。学術祭は、秋の学園祭に比べてお祭り的な色彩は薄く、主に学内の学術的な研究成果を発表するイベントだった。各学部ごとに毎年テーマを決めて、講演会やシンポジウムが開催され、各学科、研究室の研究成果が展示、発表される。

 みずほは、夫の研究室がある社会福祉経済学科を訪ねた。そこは、主に写真や統計資料などの展示物が壁に飾ってあるだけの、地味な会場だった。 「世界の子どもたち』という写真が、みずほの目を引いた。アフリカ、中南米、中東などの子供たちの写真がパネルに貼り出されていた。ストリートチルドレン、地雷に触れて手や脚を失った子供たち、路上で篭に入れた果物を売る子供たちの姿、そして、銃を構えている子供の写真まであった。その子供の邪気のない笑顔と、持っている凶々しい銃のアンバランスが印象的だった。

 みずほと並んで写真を見ていたみずきが、

 「日本の子供たちとは随分違うね」と小声で言った。

 「そうね。でも、世界中には、日本の子供たちのように平和に暮らせている子供は本当に少ないの。この写真の子供たちのように、食事もろくに食べられなかったり、学校にも行けなかったりする子供がたくさんいるのよ」

 「お父さんのレポートって、どれかしら」

 みずきが、展示パネルの下の壁面の長テーブルに並べられたレポートを物色しながら言った。

 「どれかしらねぇ」と言いつつ、みずほは、その中に夫とは別のある名前を探していた。

 そのときだった。

 「浅野さん」と呼ぶ学生らしい女の声がみずほの耳に入った。

 みずほは声のしたほうを見た。

 「浅野さん」

 女の声がもう一度聞こえた。

 「はい」

 答える声があった。澄んだ、若い女の声だった。

 みずほはその方向を見た。女の声は、戸口に 「社会福祉経済学研究室』というプレートが掲げられた部屋から聞こえた。学術祭の最中のことで、ドアは開け放たれていた。みずほは、引き寄せられるようにその部屋に入って行った。

 同じ大学院生の岡本美樹に呼ばれて、冴子が部屋を出ようとしたとき、その女は、すっと研究室に姿を現した。冴子は、女が志村の妻であることを知らなかった。

 「浅野冴子さんですね」

 女は展示品のチェックをしていた冴子に声をかけた。

 「はい」

 冴子は答えて、女を見た。

 みずほを見た浅野冴子の目差しは、穏やかで落ち着いていた。

 ああ、何てきれいで、深い色をたたえた瞳だろう。隆行はきっとこの瞳に魅せられたのだと、みずほは直感した。

 「私、志村の妻のみずほです」

 みずほが名乗ったとき、浅野冴子の表情は一瞬こわばった。平静になるまでの間を置いて、

 「志村先生の奥様でいらっしゃいますか」と尋ねる声は低く翳っていた。

 「ええ、いつも主人がお世話になっています」

 「いいえ、お世話になっているのは私のほうで、先生にはいろいろ教えていただいております」

 「いろいろですか?」

 「いろいろ……?」と、冴子は鸚鵡返しに言ってみて、志村みずほの意図を測りかねた。

 怪訝そうな表情をする冴子に、みずほの深い心の淵から不意に怒りが噴き上がってきた。そう、いろいろですと、内心で言って、みずほはその怒りを心の淵に押し込んだ。

 「来春にはご卒業ですか」

 みずほが尋ねた。

 「はい」

 「就職はどうなさるの?」

 「児童福祉施設で働きたいと思っています」

 冴子は素直に答えた。

 「そうですか。子供はお好きなの?」

 「はい、大好きです」

 「そうですか。じゃあ、どうぞ、よいお仕事をなさってください」

 若くて美しくはあるけれども、浅野冴子はまだ幼い。S大学の博士課程を卒業して、児童福祉施設に就職したいなどと言っている。要するに、ねんねなのだ。そう思いつつ、浅野冴子の姿に、その言葉に、その素直さに真近に接して、心の淵から噴き上げてくる怒りをみずほはもてあました。

 志村の妻の突き刺すような目差しを、冴子は不安な思いで受け止めて、受け止めきれずに目を伏せた。ああ、一刻も早くこの人のもとを離れたい、逃れたいという思いだけが、冴子の心を支配していた。かつて経験したことのない、恐怖に似た感情だった。

 それでも冴子は、みずほの視線にじっと耐えていた。

 「浅野さん、音楽はお好き?」と志村准教授夫人が尋ねた。

 「はい、好きです」と、冴子は答えた。

 「×月×日、ピアノのEのチャリティーコンサートがあるの。浅野さん、つき合ってくださらない?」とみずほが誘った。Eというのは、日本人としてはかなり名の通ったピアニストだった。

 その誘いは、いかにも唐突だった。冴子は志村の妻の意図を測りかねたが、

 「Eのチャリティーコンサートですか。はい、私でよろしければご一緒させていただきます」と答えていた。冴子は志村の妻の様子に、拒むことを許さない強い意思を感じた。

 「それじゃ、連絡をとらなければいけないこともあるでしょうから、私の携帯の番号、お教えしておきます。浅野さんの番号も教えてくださる?」

 そう言われて、冴子はそれに応じた。

 「〇九〇 四三八一 六四××です」

 その番号を手帳に書き留めて、みずほはみずきとともに研究室を後にした。


 その夜、隆行が自宅マンションに帰宅したのは深夜一時過ぎだった。それは隆行の帰宅時間として、例外的に遅い時間ではない。しかし、みずほはこの夜、隆行の帰宅前に眠りにつくことができなかった。

 みずほは帰宅してから、日中、浅野冴子から聞き出した携帯電話の番号を、何か月分かの隆行の携帯電話の交信明細と照合してみた。やはり、その、〇九〇 四三八一 六四××という番号は、隆行が月に二、三度、主に週末に交信している番号だった。

 みずほはグラスになみなみと注いだワインを続けて二杯あおった。アルコールが、沈んでいる心を少し軽くしてくれた。

 一時を回ってから、玄関のドアキーが回る音が聞こえた。隆行の帰宅だった。

 「起きていたの。仕事が忙しいの?」

 隆行が尋ねた。隆行の顔は白々としていた。

 「眠れなくて。一緒に飲みませんか」

 みずほは手元に置いてあったワイングラスにワインを注いで、隆行にさし出した。

 「そう、不眠症かな。僕は風呂に入って寝ます」

 隆行は、受け取ったグラスのワインを一口で飲み干してバスルームに向かおうとした。

 「待って、今日はどうしてこんなに遅いの?」

 隆行は、過去にみずほからそのように尋ねられた記憶がなかった。

 「遅いって……」

 隆行は意外なことを聞かれたというふうに、言葉を探していた。

 「研究室の連中と、明日の学術祭に向けて打ち合わせがあって、その後ちょっと飲んでね」

 「研究室の連中って、誰?」

 みずほは食い下がった。

 「今日はどうかしたの?」

 隆行はみずほに問い返した。

 「お話があるので、ここに座ってください」

 みずほはテーブルの自分に対面する椅子を指した。隆行は黙ってそれに従った。

 「浅野冴子さんて学生さん、あなたの教え子にいましたね」

 みずほは率直に切り出した。

 「ああ、大学院の研究生だ」

 「その方と、私今日お会いしてきたわ」

 隆行は黙っている。

 「この手紙、この前私に届いていたの。読んでくださる」

 みずほは、ワープロで書かれたあの手紙を夫の前に置いた。

 隆行は、その手紙を一読してテーブルの上に置いた。

 「それは、本当のことなんですか」

 みずほは夫の目を見て言った。隆行は一瞬目を外らした。

 「いや、これは誰かの、質の悪い中傷だ」

 「中傷?」

 「そう、中傷だ。根も葉もない嘘だ」

 隆行は不機嫌に言った。今度はみずほが沈黙する番だった。

 「浅野冴子さんて、奇麗な子ね」

 隆行は無表情で、反応を示さなかった。こういうとき、何を言っても事態は悪くしかならないことを隆行は知っていた。

 「なぜそんなことになったの?」

 みずほの問いに、隆行は答えなかった。

 みずほは苛立った。

 「どうして黙っているの」

 「こんな質の悪い中傷をもとに話をする君には返事ができない」

 隆行はみずほの問いを突っぱねて、部屋を出て行こうとした。みずほは諦めた。これ以上追及しても無駄だと思った。二人は荒れてしまった心を抱いて、それぞれの部屋に戻ってベッドについた。

 隆行は不快な夜を過ごさなければならなかった。みずほは、もともと自分のした間違いを認めたり、反省の態度を示すことがない女だった。たとえば、隆行に頼まれた買い物を忘れたとき、決して

 「忘れちゃってご免なさい」と詫びたことはない。

 「仕事で走り回っているうちに忘れちゃった」と言って終わりなのだ。あるいは隆行が、テレビ番組を録画しようとビデオをセットしておいたものを、間違って解除してしまったことがある。そのときもみずほはやはり、

 「ご免なさい」とは言わなかった。

 「あのビデオ、おかしいわ、私はちゃんと操作したはずなのに、ちゃんと動かない」と言ったりした。

 このみずほを、隆行は十四年間、いわば丸呑みしてきた。それが、いま腹腔内に溜まりに溜まって、もはや嘔吐するしかないまでに不快感が募っていた。

 若い頃、隆行は、それはみずほのおおらかさや物事にこだわらない性格からくる、愛すべき性癖だと思っていた。しかし、それがみずほの心の奥にあるエゴイズムの表出以外の何ものでもないのではないかと、最近の隆行は思うようになっていた。


 冴子のもとに志村みずほから電話があったのは、学術祭の日から一週間ほどしてからだった。

 「浅野さん、この間ご免なさい、実はお約束したEのコンサートですけど、どうやらチケットをなくしてしまったらしいの、ご免なさいね。またの機会にしてくださる? 必ずまたお誘いしますから」 もちろん冴子には、最初から気のすすまない誘いだった。

 「わかりました。失礼いたします」

 そう言って冴子は電話を切った。コンサートの日が近づくにつれて、気が重くなるばかりだったのが、その約束から解放されて冴子は安堵した。


◇11 相川貴和子


 車は首都高速横浜ランプを下りてみなとみらい地区に入った。建ち並ぶビルの中で群を抜いて高くそびえる摩天楼 「スカイスクレーパー)の地下駐車場に車を停め、運転してきた秘書とともに相川貴和子はエレベーターで一気に四十五階まで上がった。エレベーター正面のドアのプレートに 「相川貴和子事務所」とある。ドアを開けて室内に入ると、前面の窓いっぱいに青空が望まれる。窓際に寄るにつれて、海、そして眼下に横たわるベイブリッジや街が見えてくる。橋上を走る車は手の平に載るほど小さい。大小の船がその橋の下を往来する様子も見える。

 貴和子は、四十五階の窓際に立ってその景色を眺めるのが好きだった。足下に広がる街こそ、貴和子の父、故相川守が、横浜市当局や旧財閥系の企業グループとともに開発に力を注いだ街だった。

 日本一の摩天楼が完成したとき、貴和子はそこにオフィスを借りようと思い立った。庶民性を重んじる公設第一秘書の戸部進は、選挙民にとって四十五階のオフィスはいかにも敷居が高すぎると反対したが、貴和子はそれを押し切った。

 貴和子は独身のまま三十八歳になっていた。そろそろ結婚をと思っていた三十歳の年、父の相川守は突然脳卒中で逝ってしまった。宴席が続いたある夜、深夜に帰宅した朝のことだった。

 当時、貴和子は父相川守の私設秘書をしていた。八人いた秘書の中でも末席の私設秘書だった。父は決して娘を末席の私設秘書以上の地位に上げようとはしなかった。貴和子にはそれがちょうどよかった。特に重い責任を担わされることもなく、ほとんど小遣いのような給料をもらって、父について国の内外を旅行することも、世界のあちこちを旅することも、洋服やアクセサリーなどの買い物もできた。

 父が脳卒中で逝って、急遽決まった父の後継者としての立候補と当選の後は、気楽な末席の私設秘書から、いきなり表看板の代議士へと生活が激変した。毎日がただただ忙しく、結婚のチャンスなど巡ってはこなかった。

 貴和子は三度の選挙を経て、衆議院議員になって八年目を迎えていた。

 いつも大勢の人にとり囲まれていた。与党の議員や官僚、秘書、後援者、そしてマスコミ関係者から家族に至るまで、その数は夥しかった。彼らは皆、貴和子を、才色兼備の与党のプリンセスと誉めそやした。それは、貴和子にとって不快なものではなかった。しかし、貴和子には、政治家としての自分の立場と、自分をとり巻く大勢の人々とのかかわりが、たまらなくうとましく思われることがあった。

 与党内部には、不文律として年功序列のシステムがあり、当選回数を序列の基準にしていた。この序列に従わなければ、たちまち頭を叩かれ、足を引っ張られる。

 かつて貴和子が一年生議員の頃、所属する派閥の新政会の事務総長で、巨体と渦巻く白髪をもって、政界のポセイドンと呼ばれている本堂政憲は、

 「貴和子ちゃん、最初は誰でも雑巾がけだからね。黙々と働いてちょうだい」と、しっかり釘を刺したものだった。

 とにかく党執行部の批判は慎むこと。総裁を頂点にいただき、総裁、すなわち総理大臣の言葉、幹事長以下の党幹部の言葉、そして派閥の領袖、先輩議員の言葉をよく聞き、発行される党の機関紙と、そこに掲載されている党の政策をよく読んで、それに反するようなことは表に、特にマスコミに向けては言わない。それが議員として生きていくための術だと教わった。

 相川貴和子が議員になって初めてした仕事らしい仕事は、派閥の領袖である菱川一郎の代理として、とある医療関係団体の会合で挨拶することだった。それは、領袖の秘書から相川貴和子の秘書宛てに回された挨拶文を代読するだけの仕事だった。

 「私は亡くなった相川守の長女で、相川貴和子と申します。このたび補欠選挙で父の後を継いで議員に当選させていただきました。今後菱川先生のご指導の下、勉強を重ねていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします」

 挨拶文を代読した後、貴和子はそんな型どおりの挨拶をしたことを覚えている。

 参列していた年輩の団体役員たちは、一様に相川守の娘に関心は示した。しかしその態度の端々に、たとえば彼らの笑顔に、こんな小娘に何ができるものかという侮蔑をも貴和子は感じとったものだった。

 そういうときは心が沈んだ。そうしたとき、一日と言わず、たとえ数時間でも独りになれるように、貴和子は海辺の高層マンションの一室を他人名義で借りていた。二十階建ての最上階の部屋だった。四十五階の事務所同様、二十階の窓からは港が一望できた。その構図は摩天楼のそれより美しかった。青い空と、それを映して陽にきらめく海。港を横切っているベイブリッジの下を通って、行き交う船が見える。その港の様子は、いつ見ても飽きなかった。貴和子には、いつか、海上に架けられた橋の下を通って、その海をどこまでも泳いで行きたいという夢があった。港を出て、東京湾を五キロ、十キロと泳いで行けたら、どれほど快いことだろう。

 小学生の頃から水泳に親しんできた貴和子は、高校、大学と水泳部に所属していた。毎年夏には、必ず相川家の別荘のある下田に赴いて海水浴を楽しんだ。それは議員になってからも欠かしたことがなかった。広々とした海原を沖に向かって泳いでいく。それは、相川貴和子にとって至福の時だった。

 貴和子は、水泳をやりたくて、両親が勧める私立の女子高校を敬遠して、水泳の部活が盛んなとある私立高校に通った。三年生の夏まで、貴和子はひたすら水泳に熱中した。二年生になると、インターハイの百メートル自由型の県代表の一人として、全国大会にも出場し、決勝まで進んだ。三年生の夏に入って、部活を抜けると、S大学を目指して受験勉強に没頭した。目的をこれと定めたら、そこに向かってすべての生活を収斂していく、貴和子にはそういう集中力があった。大学に進んでからも水泳部に籍を置いて練習に励んだ。

 大学に入学してしばらくすると、貴和子はS大学のマーメイドと呼ばれるようになっていた。プールサイドには水泳部だけでなく、大勢の男子学生が群がって貴和子の泳ぐ姿に見入っていた。

 大学を卒業して間もなく、貴和子は父親の勧めを受けて、いやいやお見合いをしたことがあった。

 「まあ、見合いも一度はしてみるもんだ。私も、私の姉も弟も、みんな見合い結婚だ。それがベストだとは言わないが、見合いもけっして軽蔑したものではない」

 そういう父の意見に従っての見合いだった。

 相手は、旧大蔵省主計局の若いキャリア官僚だった。その見合いに、貴和子は父の意思を感じた。

 藤井という見合いの相手は、貴和子より少し背の低い、痩せて顔だけが大きい男だった。エリート官僚らしく、その物言いにはそつがなかった。与党の有力政治家の娘との見合いということで緊張している様子だったが、それでもキャリア官僚の自信か、雰囲気に負けまいとするように、藤井は真っ直ぐに貴和子の顔を見て話をした。洋々たる自分の将来を思い描いてでもいたのだろうか。

 「お父さん、私、藤井さんとの縁談お断りします。だって、私、内助の功って苦手だから」と、貴和子は父がとりもとうとしたキャリア官僚との縁談を一蹴した。

 貴和子には、見合いの相手の心底はよくわかっていた。頭のいい男だ、きっと自分を掌中にして、自分の出世の踏み台にするつもりだろう。貴和子の母がそうしたように、自分に内助の功を求めてくるだろう。

 しかし、貴和子はそれがいやだったのだ。自分は母のように生きたくはないと貴和子は思っていた。

 それ以降、父の同僚議員や資産家の子息、一流企業経営者の子息など、あちこちから持ち込まれる縁談を貴和子は断り続けた。

 父は政治家として、自分と娘の将来を重ね合わせて目論むところもあったのだろう。しかしその目論見は、ことごとく娘に拒まれてあえなく頓挫した。


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