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世界の終わりに、想うこと  作者: 鈴木りんご
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17話「生まれてきた理由」

               宮本みやもと 早苗さなえ 三十六歳




 ほんの数時間前、終わる世界にこの子は産声を上げた。


 いったい何のために生まれてきたのだろう。世界はもう終わってしまう。残された時間は三時間にも満たない。


 それでもきっと生まれたかった。ほんのわずかな時間でも生きてみたかった。だからこの子は予定日より一週間も早く生まれてきたのだろう。


 マイペースでのんびりとした性格の私と、低血圧で寝起きの悪い夫の子供だから、てっきりこの子も予定日より遅く生まれてくるものと思っていた。でもそうじゃなかった。生きたくて、世界を知りたくて生まれてきた。必死にもがいて、大きな声で泣いて私のお腹の中から這い出してきた。


 私は残されたわずかな時間で、この子のために何がしてやれるのだろう。


 そんなことを考えながら、腕の中で静かに眠る愛しい我が子の頭をそっと撫でる。寝ているのに、その表情は微笑んでいるように見えた。


 私はまだ何もしてあげられていない。それなのにこの子はすでに幸せそうだった。


 私はそんな我が子の寝顔をしっかりと目に焼きつける。よく生まれたての赤ちゃんは猿に例えられるが、この子はどちらかというと蛙っぽい。そして何よりも気になるのが頭。ちょっと将来が心配になるくらいに長い。はっきり言ってしまうと、私の美的センスではかわいいとは思えない。それでもこの子は私にとってとてつもなく愛おしい存在だった。この子が腕の中にあるだけで、私の全てが満たされているような温かい気持ちになれる。それはまるで愛と幸福の結晶を抱いているような充足感。


 私は頭を撫でる手を止めて、今度はおもちゃみたいに小さな手に触れてみる。ぷにぷにとしていてとても温かい。手のひらの上に私の人差し指を置くと、ギュッと握り締めてくれた。


 それだけで胸の奥から幸せが込み上げてくる。


 この幸せを夫にも味合わせてあげたいと思った。夫は私以上にこの子の誕生を望んでいた。


 しかし彼は今ここにいない。仕事で伊豆に行っていて、都内のこの病院には世界が終わるまでに駆けつけることも出来ない。そして携帯電話も通じない。私たちの契約している携帯電話は、どちらも今は通じない電話会社のものだった。


 夫との会話は、今朝早く陣痛がきて、病院に向かう途中で電話したのが最後だった。赤ちゃんが生まれてすぐ、病院が夫に連絡をしてくれたのだが、そのとき私は話をしていない。


 少しだけ隣の夫婦が羨ましかった。


 私が今いるのは四人部屋で、ここにはもう一人女性が入院していた。彼女のことは見知っている。妊娠して通院するようになってから、何度かこの病院で話をしたことがあった。私の夫と彼女の旦那さんもここで知り合って意気投合し、連絡先を交換したと言っていた。彼女は切迫早産のために入院していて、まだ赤ちゃんは生まれていない。二人は二十代前半の若い夫婦だが、互いを想いあっている理想の夫婦だ。その証拠に彼女の旦那さんは、世界が終わるとわかってから半時もしないうちに彼女のもとに駆けつけた。そして今、世界は終わるというのに、二人は幸せそうだった。


 本当に羨ましく思う。私も夫に会いたかった。残されたわずかな時間を共に過ごしたかった。せめて電話で話がしたかった。この子にもお父さんと会わせてあげたかった。声を聞かせてあげたかった。


 しかしそれは無理。わかっている。どれだけ嘆いてみても現実はかわらない。だからせめて、少しでもこの子のためになることをしてあげよう。生まれてきてよかったと、そう思えるようなこと。


 そんなことを考えていると、私の人差し指を握る手に少し力がこもる。そして泣き声を上げた。


 でも、なんだろう。少しも悲しい感じがしない。この子は幸せそうに泣いていた。その証拠に声を上げてはいるが涙は流していない。


「お母さんは、ここにいるから大丈夫だよ」


 そう言って、手を握り抱きしめる。


 そうだ。この子に夫のことを、お父さんのことを話してあげよう。例え会えなくても、せめてどんな人だったかくらい話して聞かせよう。私たち夫婦がどれだけその誕生を待ち望んでいたか、どれだけ愛しているかを伝えよう。


 そうやって私は残りの時間を過ごしはじめた。


 そして世界の終りが後一時半間ほどに迫ってきた頃、私は呼び掛けられた。それはお隣夫婦の旦那さんだった。彼は笑顔で私に携帯電話を差し出した。


「よかったです。電話番号交換してあって。旦那さんからですよ。もう俺には必要ないんで、好きに使ってください。後これ、充電器も念のために」


 そう言って彼は携帯電話を渡してくれた。


「さな?」


 携帯電話から聞こえてきたのは夫の声。涙が溢れる。喜びよりも、安堵の気持ちのほうが強かった。


「うん、私」


「よかった……よかった……」


 夫も泣いているのがわかった。


「真司君と電話番号を交換してあって本当によかった。こっちの電話は、海の崖のとこで叫んでたら、自殺しようとしてると間違われたりとかいろいろあって、散歩していた老夫婦に貰ったんだ。よかった、電話が出来て……」


「うん。よかった」


「赤ちゃんは大丈夫?」


「ええ、元気な女の子。今、声を聞かせてあげる」


「いや、一度切ってかけ直す。ビデオコールでかけるから顔も見せて」


「わかった。待ってる」


 夫の言う通りだ。本当に良かった。


 もちろん電話なんかより、一緒に最期の時を過ごせた方がいいに決まっている。でも電話すら無理だと諦めていたのに、電話が出来た。話すことが出来た。電話越しだけど顔だって見られる。この子の顔も見せてあげられる。


 そうだ、名前も考えてあげなくちゃいけない。私は生まれる前から考えたかったのに、夫が顔を見てから考えると言ってきかなかったから、まだこの子には名前がない。世界が終わる前にこの子に名前を贈ってあげよう。どんな名前がいいだろう。女の子だからかわいい名前がいい。


 電話が鳴る。もちろん夫からだ。


 私は今、幸せだった。世界が終わろうとしている中、愛に溢れ幸せだった。


 わかった気がした。きっとこの子は私のために生まれてきてくれたのだ。夫と一緒にいられない私が寂しくないようにと、急いで生まれてきてくれたのだ。


 なんて親孝行な娘だろう。


「ありがとう」


 娘のおでこにそっとキスをする。


 そして私は遥か遠くにいる夫と私をつないでくれる魔法のスイッチを押した。

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