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世界の終わりに、想うこと  作者: 鈴木りんご
10/27

10話「私が終わる前に」

               杉山すぎやま わたる 三十三歳




 世界が終わる……


 後、わずか三時間で人類は滅びる。


 さほどショックはなかった。


 私は数ヶ月前、すでに世界の終りを告げられていた。


 一年ほど前から調子がおかしかった。頭痛が続き、急に眠気が襲ってきた。曜日の感覚が酷くあいまいになって、物忘れも多くなった。唐突に怒りが湧き上がってきたり、思考が止まるような空白の時間が出来るようになった。


 私は欝にでもなってしまったのかと思った。


 そして診断の結果、告げられた病名は若年性アルツハイマー。それは私にとって何よりも恐ろしい病だった。


 誰かに自分は何者であるのかと問われれば、私はこう答えるだろう。「私は哲学者だ」と。


 しかしそれを生業にしていたわけではない。それでも私は哲学者を自称していた。いつも考えていた。自分とは何か。私が私と意識する、この思考の存在について。


 私とはいった何だろう。私の名前は杉山航。だが私は名前ではない。では私とはこの体のことだろうか。それも違う。例えば私が腕を片方切断する。その腕は私ではない。以前私の一部だったものにすぎず、私自身ではない。


 では私とは何か……それは私を私と認識し思考するこの意識そのもののことだ。


 私は生きながらにしてその意識を、私自身を失う病に侵された。告知されたときは絶望した。それは私にとって世界の終りに等しかった。


 正直、自殺も考えるほどだった。この国で安楽死や尊厳死が認められているのなら、私はその手段を選んだかもしれない。


 それほどに私は、私を失うことが恐かった。もし私の病気が苦痛を伴う死に至る病だったのなら、私は死ぬそのときまで私らしく戦えただろう。


 だがこの病は私から、私を奪うのだ。どう立ち向かえばいいのかわからない。私は過去も、誓いも、夢も決意も何もかもを奪われていくことになる。


 医者は進行を遅らせることが出来ると言ったが、ゆっくりと少しずつ自分を失っていくなんて、それこそ私には地獄だった。


 それでもとりあえず、私が私であるうちにやっておかなければならないことがあった。


 私の仕事は漫画家だ。デビューしたのは十二年前、大学に在学中のときだった。青年誌の新人賞で準大賞を受賞した。作品のタイトルは「作者様の手のひらの上で」作者の横には(かみ)とルビをふった。それは自分が漫画の登場人物であることを知っている主人公の物語。


 始まりはこんな感じだった。




「やあ、こんにちは」


 今この世界、僕の周りに在る世界でちょうどお昼時。だから「こんにちは」だ。


 でもあなたの世界では違うかもしれない。今はまだ朝で「おはよう」かもしれないし、もう夜で「こんばんは」かもしれない。それは僕にはわからない。それにもしあなたにとって今は「こんばんは」だったとしても、次にこの本を開くときは「こんにちは」で正解の可能性だってある。


 まぁ、そんなわけで……


「こんにちは。この物語の主人公です」


 僕はそれを知っている。なんらかの特別な理由があってそれを知ったわけではない。僕がそれを知った過程は簡単だ。作者がそう望み、そういう設定にしたからだ。


 だってこれは物語。作者という神が作り出した世界なのだから。


 僕は無力だ。彼の望んだよう思い、考え、動くことしか出来ない。


 そして勿論、あなたもまた無力。


 あなたに出来ることは三つだけ。一つ目は僕と共にこの物語を進んでいくこと。二つ目は物語の結末を先に見てしまうこと。最後は本を閉じることだ。


 もし僕の願いが叶うのなら、終わらせてほしい。こんな紙くずに綴られた僕の物語を……あなたの手で破り捨ててほしい。


 だって、僕の世界の終わりはすでに決められている。


 これは漫画だ。マルチエンディングのゲームではないし、ゲームブックでもない。だから終わりはもう覆らない。すでに綴られている。


 世界はあなたがこの本を開いたときに始まり、あなたが閉じたときに終わる。


 どうせ決められた運命を辿ることしか出来ないのなら、この物語が結末に辿り着く前に終わらせてほしい。あなたの手によって……


 それが唯一、僕を神である作者から解き放ち、無限の可能性の海へと救い出す方法なんだ。


 しかし……僕のこの想いもまた、作者の手によって綴られただけの偽りの想い。


 だから結局……すべては無意味だ……




 そんな感じで始まる物語。


 この作品を描いたころの私は「運命」という言葉について考えていた。この世界には神様がいて、全ては神様の設計図通りに進んでいるんじゃないのか、そんなふうに考えることがあった。


 その想いに対する自分なりの答えが、この作品だった。結局この物語の主人公は気にしないことにする。最後に主人公は言う。「例え、設計図があったとしても……設計図を見ないで作ったのなら、それは僕が思い通りに作ったものだ。例え、設計図通りに出来上がったとしても……設計図を見ないで作ったのなら、それは僕が思い通りに作ったものだ」


 それが私なりの答えだった。もし神様がいたとして、全てが運命で決まっていたとしても、私がそれを知らないのなら……それは全て私が選択し、決めたことだ。特別に気にするようなことじゃない。運命なんて、ないのとかわらない。


 この作品は雑誌にも掲載され、読者受けもよかった。その後いくつか短編を描き、どれも好評だった。そして新人賞受賞から二年目、初めての連載が決まった。しかしそれほど人気は出ず、十話で打ち切られた。その後も二度連載を任されたが、どちらも長続きはせず打ち切りになった。それでも連載のないときに描く短編は、相変わらず好評だった。


 そんな私が遂に当てたのが、今の連載だ。打ち切られることなく既に二年続いている。内容はこの連載以前ずっと描いていた哲学的な作品とは違って、ただのラブコメだ。


 少し不本意ではあったが、それでも私の作品を見て喜んでくれる人がいることが素直にうれしかった。


 この作品を私が私であるうちに終わらせなければならなかった。担当編集者と話し合った結果、若年性アルツハイマーの告知から五話で連載を終わらせるとことになった。


 そして担当編集者は私に言ってくれた。「ラストは先生らしく行きましょう」と。彼の言葉に背中を押され、私は私らしさ全開でいくことに決めた。


 そして残り二話……そんな今、世界は終りを迎えようとしていた。


 連載をきっちり終わらせることが出来ないのは残念だった。主人公たちの物語を最後まで描ききってやることが出来ないのは悔しかった。結局これで私の連載作品は全て最後まで思い通りに描ききることは出来なかった。


 しかしうれしくもあった。


 私は私を失わないまま死ぬことが出来る。哲学者で、漫画家の私のまま終わることが出来るのだから。


 私はずっと自身に終りが訪れるのは長編漫画の最終回みたいに、壮大な冒険を終えて感動的なエピローグの後だと、勝手に信じていた。


 私の人生は今、何話目くらいだったのだろう。


 若年性アルツハイマーの診断を受けたとき、私は自分の人生にさえも打ち切りを言い渡されたのだと思っていた。しかし実際は打ち切られるより先に、世界という掲載雑誌の方が廃刊になってしまったようだ。


 世界の終り……幾度となく考えたことがあった。ただ夢想してみたり、漫画のネタとして考えたり。


 時計を見る。後、二時間ほどだ。


 いろんな作品でも世界の終りを見た。漫画、小説、映画。実際はこんな感じなのかと思う。


 昼間で雲もないのに、太陽が見えない薄暗い世界の中に在るような感覚。


 ドキドキした。何かを期待するような不思議な感じだ。脳内で大量にアドレナリンでも分泌されているのかもしれない。子供の頃、大きな台風が来て学校が休みになったときの高揚感に似ている。


 やり残したこともあるし、やっておきたかったことだってあった。それでも私は私のまま、最期まで生きることが出来る。それが何よりもうれしかった。だから私の物語は文句なくハッピーエンドだ。もしこれが神様の設計図通りなのなら、私は神に感謝しよう。


 あー、なんだろう……わくわくが止まらない。私が死んだ後、この思考はどうなるのだろう。消えてしまうのか、天国みたいなところに飛ばされるのか……それは生きている限り、答えに至ることの出来ない長年の疑問。


 それを知ることが、私の哲学者としての最後の楽しみだった。

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