第3話 《中編》【サチコ、役場へ行く】
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「ん……ここは……?」
オックスは目を開けると、首だけ動かして、周囲を見渡す。
白い――ただただ白い空間だ。
寝台に横になったまま、再びオックスは目を閉じて、呟く。
「そうか……私は死んだのだな」
オックスは、己の状況を理解する。
そう、オックスは死んだ。
いや、殺されたのだ。
最後の瞬間を思い出そうとする。
だが、記憶があいまいで、どうにも思い出せない。
わかるのは、ただひとつだけ。
オックスは弟子に裏切られた。
それだけはハッキリと覚えている。
一筋の涙が頬を伝う。
はぁ、と大きくため息を吐く。
目を開けて、上体を起こすと、頭を抱える。
今までの人生はなんだったのかと、詮無い自問を繰り返す。
すると次第に記憶が戻ってきた。
リウムの悲しそうな顔、ロジウムの嗤う顔。
オックスはもう一度、深く溜息を落とす。
やがて、ようやく立ち上がると、もう一度周囲を見る。
「ここは……白亜の神殿、か」
神話で言い伝えられた通りの場所だ。
死者が訪れる、黄泉の入り口ーー白亜の神殿。
大人2人が、両手を広げても足りない程に太い柱が、計12本。
その内の4本は、オックスのいる寝台を広く囲むように立っている。
神話によるとこの宮殿は、死者がどんなに歩けど、端にたどり着けないという。
見た目通りの広さではないのか。
壁は無い。
神殿の周囲は、何もない黒い空間が、どこまでも広がる。
オックスが状況の検分を終えた頃に、何やら気配がした。
見上げると、まばゆい光がある。
まるで見計らったように、天井の吹き抜けから光の球が舞い降りる。
「――聖人オックスよ」
やがて光が、人の形を成す。
神々しい女性だ。
綺麗に結い上げた金の髪に、青い瞳、それに眩しいほど白いドレス。
白く輝く大きな翼を、腰から広げている。
その数4枚。
美しい場面だ。
なのに、芝居がかっている気がして、どうにもむずがゆい。
そもそも、現れるタイミングが良すぎるのだ。
もしや目覚めるのを、どこかでジッと待っていたのか?
それなら、最初からオックスの横に座って、本でも読んでいればよかったのだ。
女性がオックスの前に降りて立つ。
「現世での働き、見事であった」
まるで台本のセリフだな。
若干、緊張気味に見えるのは気のせいか。
妙に白々しい気分だ。
だが、オックスは大人なので、空気を読む。
「もったいなきお言葉、畏れいります。」
与えられた役割通り(推測)に、オックスは跪く。
初対面の相手に、なぜ畏れいらなければならないのか、オックスにはわからない。
台本を書いたのは誰だ? 舞台監督を呼べ!
「わたしは【純潔】の四翼、天使フェルミン。あなたを迎えに参りました」
演技は続く。
天使には一切の照れがない。
それどころか誇らしげな雰囲気すらある。
ある種のプロ意識に、オックスは少しだけ敬意を抱く。
「なんと! 私ごときを、天使様が、わざわざお迎えに?」
へりくだって言った。
少しやり過ぎたか、と背中に汗が滲む。
どうにも加減がわからない。
「くふふふ、四翼の天使が迎えに来るなど、前例が無いことです。名誉に思いなさい」
「ははぁッ」
天使は満足そうに笑った。
一瞬、素の表情が見えた気がする。
しかし、どうやらオックスの態度が、お気に召した様子だ。
ふむ、この路線で間違いなかったな。
芝居を継続するとしよう。
それにしても〝四翼〟とはな。
神話では確か……。
そうそう。
死者の迎えはエンジェルと呼ばれる、羽のない天使の仕事だ。
天使や悪魔は羽の数で階級が変わるという。
最高で何枚だろうか。
神話では十翼が最高位だ。
これには諸説あり、十二の天使や悪魔が居るとかいないとか。
むむ。
賓客待遇は、居心地が悪いな。
できれば、通常の扱いをして欲しいものだ。
「身体に異変はありませんか?」
「はい。それどころか、すこぶる調子がいいですね」
これは演技ではなく、言葉通りだ。
長年患った足腰の痛みが、嘘のように消えている。
「それはなにより。もっとも肉体の状態が活発な、20歳の肉体を再現したので、そのせいかもしれませんね。これも前例がないことですよ?」
「20歳?」
「ご覧なさい」
天使が言うと、オックスの前に大きな鏡が現れた。
そこに映るのは、艶やかな金の髪に、張りのある肌の自分だった。
なるほど、確かに20歳の身体だ。
生前、少々髪が寂しくなっていたオックスは、素直に喜ぶ。
今度は毛髪ケアを怠らないようにしよう。
上着をめくり、背中の紋様があるのも確認する。
それにしても、また特別扱いか。
どうにも、裏がありそうだな。
「では本題に入りましょう。これからあなたは、天界へ昇ります。そこで天使の一員になるのです」
ん? 今、何かとんでもないことを言ったか?
「て、天使? この私が、ですか?」
なるほど。
だからこそ、この特別待遇なのか。
しかし、天使とは……。
自分の腰から羽が生えたところを想像する。
あまりの滑稽な絵面に、オックスは吹き出しそうになる。
だが、大人なので我慢する。
生前の髪が薄い姿だったら、耐えきれなかっただろうな。
薄毛の天使……か。まさに噴飯ものだな。
恥ずかしくて人前に出られなく……クッ、危ない危ない。
あやうく噴きだすところを、再度耐え切ったぞ。大人だからな。
「そうです。脆弱で愚かな人間から、高次な存在へと進化できるのですよ。喜びなさい」
天使が恭しく言った。
この発言に、オックスの眉がピクリと動く。
今、なんと言った?
「……地上へ戻ることはできないのですか?」
「戻る? あのゴミ溜めにですか? どうしてです?」
天使は本気でそう思っているふうだ。
私の故郷を〝ゴミ溜め〟だと?
へりくだりの演技は、もう止めだ。
オックスは憮然と答える。
「……確かめたいことがあるからです」
天使は鼻で笑う。
「オックスよ。薄汚い現世での些事は、捨て置きなさい」
「薄汚い? 些事、だと? 天使フェルミンよ。私は……」
オックスが食ってかかろうとした、その時、
空間が揺らいだ。
天使の後方2メルの位置に、黒い物体が突如出現し、
「どっせいッ!」
天使の顔面に、目で追えない速さで、その先端を突き当てた。
「ぶへぇッ!」
天使フェルミンが吹っ飛ぶ。
ドゴォォォォッ!
柱を破壊して、なお勢い衰えること無く、天使は彼方へ吹っ飛んだ。
どうやら天使にとってこの宮殿は、無限の空間ではないようだな。
ニヤリと笑う。
オックスは少しだけ溜飲を下げた。
天使の消えた場所には、足を高く上げて、男が立っている。
「ダメダメダメダメ、ぜーんぜんダメッ!」
男が言って、チッチッチ、と人差し指を立てて振る。
肩に届くほどの黒髪に、黒い礼服と黒いステッキ。
全身黒ずくめの男は、天使の顔面を蹴った足を下ろす。
「悪魔、か」
無駄な警戒をしつつも、オックスが言った。
先の攻撃が、オックスに向けられたなら、いくら警戒しても意味は無い。
だが、恐らく攻撃はされない。
この悪魔が現れた理由は、おおよその見当がついている。
「正解ですッ。我が名はブラセオ。――まったく、こーんな重要人物を、下級天使なんかに任せちゃダメでしょ――よっと」
悪魔ブラセオの腰から、勢いよく羽が現れた。
パンッ!
音がはじけて、衝撃波が生じる。
「ぐッ」
咄嗟に障壁を張って、オックスは、その場に踏みとどまる。
無駄かと思われた先の警戒が、役に立ったわけだ。
「我が輩、こういうの、イヤなんですよねぇ。ほら、なんて言うんです? 『ワタクシ、こんなに偉いんザマスヨ』と自慢しているようで」
男の腰から生えた羽は、見事な漆黒だ。
その数10枚。
恐ろしいほど、高位の悪魔だ。
というか最高位ではないか?
立ち振る舞いから、並みの悪魔ではないと思ってはいた。
まさか、これほどとはな。
「あなたもそう――」
言うや、何もない空間を掴むと、高く舞い上がる。
「思いませんかッ!?」
掴んだまま、床へ叩きつける。
ゴバンッ!
轟音が鳴り響く。
オックスは咄嗟に、腕で顔面をガードする。
――腕を降ろす。
床には大きなクレーターができていた。
「くッ……ブラセオかッ。どうしてここにッ!――離せッ。この汚らわしい悪魔めがッ」
クレーターの中心で抑えられて、ジタバタと暴れる人物がいる。
天使フェルミンだった。
なんと無傷だ。
攻撃する側もされる側も、そろって化け物か。
「ご要望通りに」
「ぐッ!」
悪魔プラセオが手を離す。
すると地面から柱が生えた。
さらに悪魔のステッキが縄へと変わる。
瞬く間に、天使フェルミンを拘束する。
縄の先端が、身動きできない天使の眼前で、鎌首をもたげている。
いや、縄に見えたのは、黒く、長い、一匹の蛇だ。
仕方ないな、と助けに動いたオックスを、悪魔が手だけで制す。
瞬間――オックスの全身が、鉛を流し込まれたように固まる。
顔を向けずに、悪魔は右腕だけオックスへ向けて、チッチッチと人差し指を振る。
その様は、なんとも言えず絵になった。
「こんな……屈辱……。解けッ! 解きなさい!」
恥辱にまみれた顔で、天使フェルミンが叫んだ。
ギチギチと蛇が、その真っ白な肌を締め上げる。
「ククク。悪魔にお願い、ですか」
悪魔はニタリと嗤うと、2つに分かれた長い舌を出す。
チロチロと動く舌が、天使の首筋を、ゆっくりと這いずる。
「ひッ……」
天使が身を捩ろうとする。
しかし、身体に巻き付く蛇は、びくともしない。
オックスは……動けない。
悪魔の黒い手袋が、天使のドレスの裾をめくり、足の内側に触れる。
その手が少しずつ上へ……。
明らかな陵辱だった。
にもかかわらず、2人が被害者と加害者の関係に見えないのは、なぜなのか。
これが、悪魔の悪魔たる所以か。
どちらにせよ、男女の機微というやつは、オックスにはわからない。
「いやいやいや……や……やめ……て……。あぁ……」
数分の間、天使を愛しい恋人のように、悪魔は愛撫した。
天使の表情が、怒りから別の色へ変化する。
白い羽が、灰色へ濁ろうとしたとき……。
「あ、やめます?」
悪魔がパッと離れた。
天使は名残惜しそうな表情を浮かべる。
次の瞬間に、ハッとなると、赤くした顔を恥じるように背けた。
その様子を、満足げに悪魔は眺めて、
「我が輩は、お嬢ちゃんレベルの天使なんて、どうでもいいのですよ。ーーさて」
天使からオックスへ、視線を移す。
同時にオックスの身体が拘束から解放される。
生かすも殺すも、悪魔の気分次第ってわけだ。
やれやれ、自分の命がこんなに軽く感じるとはな。
自分の命運を握る悪魔の目を真っ直ぐ見つめて、オックスは言う。
「上位悪魔が、私になんの用だ?」
わかりきった質問だ。
悪魔がここにいる理由と、オックスを殺さない理由は、恐らく同一だ。
「もちろん」
悪魔は、恭しく礼をすると、
「あなたのスカウトに参りました」
ニンマリと、口端をつり上げて、予想通りの言葉を述べた。
その姿は、やはり絵になっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
わたしとお母様は、村役場に向かった。
仕事を探すためだ。
宿屋の女将さんから聞いた道を行く。
昨日は、暗くてよくわからなかった。
いまはわかる。
ここは日本ではない。
絶対に違う。
道は舗装されておらず、建物もすべて見たことのない木造建築だ。
それよりなにより、日本人が一人もいない。
道行く人は、すべて外国の方だ。
それどころか動物が服を着て、二本足で歩いている。
犬が二足歩行しているのを、ポカンと見とれていると、ジロリとにらまれた。
ものすごく怖かった。
動物の匂い、ご飯の匂い、土の匂い。
歩いていると、いろいろな匂いがした。
昨日までのわたしなら、顔をしかめたであろう臭いもする。
が、今のわたしに隙はない。
馬小屋の馬糞臭、そしてお母様の……。
つ、つまりにおいには、すっかり慣れたのだ。
この世界には、二本足で歩いている動物がいる。
服を着ているし、人間寄り……なのだろうか。
その動物人間を見ても、誰も騒がない。
動物っぽい人がいるのは、普通なのだ。
――お母様の姿もこの世界じゃ普通――だったらいいな
しかし、その望みは薄かった。
なぜなら、お母様を見た人が、みんなぎょっとするからだ。
★
わたし達は、中央広場に面した大きな建物に到着した。
『第八開拓村・村役場』
大きな看板にそう書かれていた。
――この村って”第八開拓村”って名前だったんだ!
なんとも味気ない名前だ。
もうちょっといい名前をつければいいのに。
村役場では、仕事の斡旋や馬車の手配等など、公共的な物、すべてを扱っている。
これは女将さん情報だ。
――仕事だ! なにはなくとも仕事を紹介してもらうのだ! 生きていくためには、働かなくちゃ!
それに魔獣を連れて歩くには、許可がいるらしい。
その手続きも必要だ。
わたしは入ってすぐの窓口へ向かった。
勘が正しければ、総合案内所だ。
「どんなご用件でしょうか?」
窓口の女性がニコリと微笑んだ。
当たった。案内所だ。
今日は冴えている。
窓口の三十代女性は、営業スマイルで対応してくれた。
わたしは、仕事を探していること、魔獣の携帯許可をもらいたいこと、を伝えた。
正直に言うと、この時点でわたしは、限界だった。
いっぱいいっぱいの、アップアップだった。
馬小屋の寝苦しさ。慣れない環境。
近い将来への不安。遠い未来への不安や、その他のこまごました不安。
そして宿屋での女将さんの威圧問答で、わたしの精神は限界に達していた。
今の状況に、脳が追いついていない。
頭が、ずっとフワフワしている。
なのにだ。
ここまでたどり着いた。
奇跡だ。
自分を褒めてやりたい。
わたしは、スムーズに事が運ぶよう、顔見知りの女神様に願った。
「では身分証明書を提示頂けますか?」
願いは却下されたようだ。
――終わった……。もうダメだ……。もうあきらめた……。試合終了だ
今のわたしでは、対応できない事案だ。
それどころか万全のわたしでも無理だ。
――帰ろう……
礼を言って帰ろうとしたそのとき、お母様がズイッと前へ出た。
「その身分証明書ってのは、どこで手に入るんだい?」
お母様が訊いた。
「えっ…………」
受付のお姉さんが固まった。
――え? な、なんで固まるの? まずい、まずい、まずいぞ!
嫌な予感がする。
わたしの嫌な予感は、五〇%の確率で当たるのだ。
――でも、しゃべる魔獣もいるんだよね? 女将さん言ったよね? じゃあお母様がしゃべっても、不思議じゃないよね?
わたしはドキドキしながら次の展開を待った……すると。
「えぇぇぇぇっ! しゃ、しゃべったぁぁぁぁぁ!!」
受付嬢さんが絶叫した。
わたしの予想を遙かに超える驚きっぷりだった。
もうなにがなにやらワケワカメ……。