「キンキンキン」について本気で考えてみた
今話題になっている「キンキンキン」について考えてみた。
まずこのキンキンキンとは何か?
知らない人もいるだろうから簡単に説明しておこう。
キンキンキンというのは、とあるなろう作品の戦闘描写にて使用された擬音である。問題とされているシーンをそのまま書くわけにはいかないので、私がキンキンキンの使用例をそれっぽく書くことにしよう。
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「我が剣技を受けよっ! はああぁぁぁ!!」
「ふ、かかって来るがいい」
キンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキン!
「ほう、なかなかやるな。剣速も一撃の重さもそれなりだ」
キンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキン!
「ぐぅっ!? 剣術検定B級の私の剣を、無資格者の貴様が全て捌いている……だと……? そんな事があってたまるかぁ!!」
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お分かりいただけたであろうか?
それでは何故問題となったのか、これを考えよう。
まず先に言いたい事は、この手法は小説家になろうでは多く使われており、特別珍しいものでは無いということである。
トントンジューでタレをかけるだけで料理を表現するものもあるくらい擬音による描写、いや、描写の代わりに擬音を使う手法は広まっている。
では問題と思われる点を挙げよう。
・描写が擬音と台詞のみになりがち
まぁこれに限る。
実際は一人称の地の文が入っているのだが、主人公の心の声なので台詞のようなものとする。
では次に、何故擬音描写が問題と思われるのか、を考える。
まずは
・詳細な描写が一切無い為、読者の想像力に委ねるしかない
本当に一切無い。これで、いやあるし、と言う人は具体的にどの文がどういう情景を描いているのか教えて欲しい。
小説は、難解な言い回しにも関わらず、頭の中でまるでその情景が浮かんでくるかのような文章が書かれているもの、という認識はないだろうか?
私はそんなイメージを小説に抱いていた。
その為、このようにキンキンキン、という擬音表現のみでは、どのような軌跡を描いて剣がぶつかっているのか、剣術検定B級の剣技とは具体的にどのようなものか、剣のぶつかる衝撃の強さも相手の技量も、何より二人がどのような立ち位置でどう動いているのかがまるで伝わらない。
他にもあるだろうが、このような情報の一切を省いたものなのだ。
となると、読者に必要なスキルは
・読解力ではなく、擬音だけでそのシーンを脳内再生出来る知識と想像力
となる。これの何が問題か?
まずその擬音から想像する為に必要な知識とは基本的に漫画やアニメから得られるものである。
――実際剣道とか剣術をやられている方だと現実的に考えて、となるのでパスしよう。
特に漫画はその要素が強い。つまり漫画やアニメを好む人に向けた表現方法と言うべきものであり、文学小説とは別のものであると言える。
昨今のラノベもこの傾向が強まり、表現でいうと小説とラノベは別物、なろう作品に関しては更に別物とも言えるだろう。
小説とはこういうものだ、という意識が強い人程この表現を嫌うと推測される。
では、果たしてこの表現は駄目なのか?
否、決して駄目では無い。
それは何故か。上記にある問題点がそのまま評価点となるからだ。
・読者の想像力に委ねる事で無限の楽しみ方が出来る
あえて詳細な描写をしない事で、この戦いはこういうものだ、という決めつけを取り払い読者の楽しみを広げるのである。
台詞や地の文である程度の方向性は決められているが、誰がどのように戦いその結果になったのか、その過程は読者が自由に決められる。
これは想像力豊かな者にとって良い点と言えよう。
・難解な描写を排除し、結果のみを簡潔に伝える事で生まれるテンポの良さ
たまに、あーこのシーンだるいな……読み飛ばすか、という事は無いだろうか?
擬音はその全てを解決させる。格下との盛り上がらない戦闘をあっさり終わらせつつ圧倒感を簡単に出す方法。
それはキンキンキンである。
それさえ書いておけば、なんか剣で戦ってるけど台詞から察すると主人公が圧倒して勝ってるんだな、というのがハッキリと分かる。
ちなみに、私はキンキンキンで戦闘シーンを脳内再生出来るタイプの人間である。
では、この描写は有りなのか無しなのか。
私が出した結論は、「有り」である。
読解力や想像力は人により差が出るものだ。
小説とはこういうものだ!
という固定概念はどうしてもあるし、これが書籍化されるのか、と嘆く方もいるだろう。
だが少し考えてみて欲しい。その固定概念に当てはまらないタイプの小説が出てきたのだ、と。
ラノベと文学小説は全く異なる作ジャンルと私は思っている。そしてキンキンキンはそれらとはまた別のジャンルと言えるのではないだろうか?
小説という言葉ではもはや収まりきらない程多種多様なジャンルが出来ていると私は考える。
小説はそれらをまとめた総称を指し、そこから更に細かく分類される。その中の一作品という、ちまたで言えばなろう作品、ナローノベルとも言うべきものなのだ。
最後に、私は擬音のみ表現を認めている。
しかしそれを表現方法として使う作者は、己が表現する事を避けて読者に委ねているだけだ、とも思うしそう思われても仕方ない。
表現力が乏しい故にこのような手法を取っています。と自己紹介している事を自覚して欲しい。
そして、読者と共に楽しめる作品を仕上げていってもらいたい。