第98話 奇妙な依頼と美肌
存在進化?
なんだそれは……。
というほど呆けてはいないつもりだが、言われるまで意識に上らなかった辺り、不死者になって脳みそまで腐っていただろうと言われてもちょっと反論が出来ないところではある。
まぁ、確かに言われてみれば体の感覚は大幅に変わっていた。
寝起きだから今一ぼんやりとして全容がつかめなかったんだよ……。
しかし、そういう感覚すら、結構久しぶりな気がするな。
今日の朝までは結局、そういう感覚ははるか遠くにあったから。
なんというかテンションが常に一定だったというか、存在進化するとき以外は、ものすごく冷静な気持ちでしかいられなかったというか。
みんな大爆笑しているのに自分だけ面白さが分からなくて、でも疎外されたくないから無理やり笑ってどうにかやり過ごしていたような感じと言うか。
あれは虚しい……。
いや、それはいいか。
ともかく、今は結構、心の動きが活発になっているような気がする。
あの冷静さは、不死者だったから、というより、体の中身が空っぽだったから、心もついでに空っぽだったようなものだったのかもしれないな。
今は、しっかりと体の中身も詰まっているぞ。
腹を掻っ捌いて見せても……よくないか。
そもそも、まだ自分がどうなっているか大して確認していない。
鏡、鏡……。
そう思っていると、ロレーヌが準備よく部屋の壁に立てかけてあった姿見を持ってきて見せてくれる。
この間まではそこまで大きな鏡はなかったはずだが、どうやら購入してくれたらしい。
まぁまぁ高いだろうに、なんだか申し訳ないような気もするが……。
「……よく、分からんな」
俺が鏡を見ながらそう言うと、ロレーヌは呆れた顔で、
「ローブと仮面を取れ、ばかもん。その格好ではいつもと変わらないのは当然ではないか……」
と突っ込む。
確かに全くその通りで、しかしだとするとロレーヌはどうやって俺が存在進化したと思ったのか……。
そう思って首を傾げると、ロレーヌは察して説明してくれる。
「手袋だけとってみたんだ。そこだけで明らかだろう?」
言われて、なるほど、していたはずの手袋が外されて、ベッド脇の小さなテーブルの上にたたんで置いてあった。
自分の手を見てみれば、今日の朝までかなりグロかったというか、これは人間の手なのかそれとも枯れ木を材料に人間の手を模した上で腐った肉を張り付けたものだろうかと悩むような感じだった俺の手が、今ではするりとした綺麗なものである。
若干青白く、血の気がまるでないのは確かだが……しかしこれを見て、即座に「不死者の方ですよね? 初めて会うんです、サイン頂いてもよろしいですか!?」と言ってくるものはおそらくはいないだろうと思われる程度には人間をしていた。
……まぁ、骨人だったときも屍食鬼だったときも屍鬼だったときも一度たりともサインを求められたことは無いけどな。
ばれてないから。
もし仮に街中でばれたとしても、「不死者の方ですよね? 討伐報酬が魅力的なんです、お命頂いてもよろしいですか!?」と大剣を振り上げてくる筋骨隆々のおっさんたちしか俺には寄ってこなかっただろうけどな……。
考えたくない。
……それにしても。
「……人間にかなり近づけている、のかな?」
俺がそう呟くと、ロレーヌは少し悩んで、
「夢のない話だが、そもそもお前がいつか人間になれるのかどうかすら謎だからな。何とも言えんが……見た目だけで言うのなら、人間に近づけているかもな……とりあえずそれを判断するために、仮面とローブを取れ」
相変わらずと言うか、こういうときにただの希望を事実として扱わないところははっきりとして分かりやすい。
確かにその通りなんだよな。
俺がいつか人間なれるかどうかなんて、誰にも分からない。
それでもそこまで強いショックを受けないのは、ロレーヌが別にそれでもかまわないとさっき言ってくれたからだろうか。
少なくとも、魔物として一人孤独に生きていかなければならないかもしれない、みたいな悲壮な気持ちにはならないな。
「わかったよ……」
俺は頷きながら、ローブを脱ぐ。
ローブの下には一応、服を着ているがかなり粗末なものというか、ほぼ下着だけだ。
なぜと言って、体の至る所に穴やら欠けがあったので、あまり蒸れる格好をしているとそこから腐り落ちてしまいそうな気がしていたからだ。
実際には、怪我をしても回復魔術や聖気によって修復が可能なので、たとえそうなってもさほどの問題もなかっただろうが、こういうのは気分の問題である。
外から見れば大した意味がなさそうに見えても、それでも保湿に偏執的な情熱を注ぐ若い娘のようなものである。
そのお陰でスライムの体液はとても高価だったので、やっても意味ないからやめろ、などとは言えないのだが。
そもそもそんなことを実際に口にしたらどこで袋叩きに遭うか分からない。
世の中には黙っていた方がいいことがたくさんあるのである。
「……ふむ」
ローブを脱いだ俺の体を見て、ロレーヌが頷く。
その反応に俺は、
「何か、変なところはあるか?」
そう尋ねた。
すると、ロレーヌは、
「……いや? 正面から見る限りは特に何もないな……。それにしても久しぶりに見たが、やはり引き締まった体をしているな……まぁ、修行を欠かさずに行っていたのだから、当然と言えば当然だろうが……私から見て、体型自体にそこまで変化はないように思うが、どうだ、お前から見て、前と体の感じは変わらないか?」
姿見を示しながら、そう聞いてきた。
どうかな?
じっくりと姿見に映る自分の姿を見ながら、おそらくは変わっていない、と思った。
今まで枯れた体やら穴の空いた体やらばかり見てきたから、以前の自分の体型というものの記憶が遥か遠いが、まぁ、概ねこんな感じだっただろう、と思う。
違うところを上げるなら、やはり全体的に漂う青白さ、血の気の薄さだろう。
ぱっと見では人に見えても、未だ不死者に過ぎないのだろう、ということがそれでしっかりと理解できてしまう。
とは言え、それでも今はまだ十分だ。
肌があり、体に穴が開いていないと言うのはそれだけで素晴らしいからな……。
目覚めたとき、何か体が突っ張っているような感じがするのは、滑らかな皮膚が形成されたからだったのだろう。
ほとんど皺のない肌は、以前の自分のそれよりもずっと滑らかで、まるで生まれたばかりのように感じられる。
「……冷たっ」
ふっと肌に冷えた感触を感じ、何かと思ったら俺の背中にロレーヌが優しげな手つきで撫でるように触れていた。
彼女は頷きながら、
「……若い娘が羨みそうな肌だ。これは再生したと言うより、新生したと言ってもいいような滑らかさだな? お前も男だし、それに加えて過酷な生活を繰り返す冒険者だった。以前はそれなりに肌はざらついてただろう。しかし今は……」
ロレーヌはたまに俺が大けがをした時などに手当をしてくれたりして、上半身の裸くらいは普通に見ていたし、触っていた。
そのときの感覚からして、あまりにも肌が滑らかに過ぎる、ということのようだった。
ロレーヌは続ける。
「傷も一つもないようだ……前は古傷がいくつかあっただろう? 背中には大きな切り傷もあったはずだが……すべて消えている」
確かに、体の前側にも同様に小さな古傷がいくつもあったが、今は一切ない。
不死者の体になって、すべて作り直されたがゆえに消滅した、ということなのだろうか。
分からないが、別に古傷一つ一つに深い思い入れがあったわけでもない。
別に構わない……と俺は思うが、ロレーヌは、
「他の傷はともかく、ここにあった傷は中々、冒険者らしくて好きだったのだがな。まぁ、なくなってしまったものは仕方がないか……」
と残念そうに言っていた。
俺よりも傷に思い入れがあったらしい。
ぬいぐるみに刻まれた染みに愛着を感じるようなものなのかもしれない。
それから、ロレーヌは、何でもないような口調で、
「……全体的にあまり変化はないな。せいぜい、背中に小さな羽があるくらいか。大した変化ではないな」
と、驚くべきことを言った。