第97話 奇妙な依頼と薄い感情と
一滴目が舌先に触れた瞬間に、刺さるような痛みが襲って来た。
飲むのをやめた方がいいのかもしれない、一瞬そう思ったが、これを飲み切らなければ意味がないような気もした。
気のせいだったかもしれない。
ただ、存在進化については勘を頼るしかないのだ。
理屈でなく何かがそう言っているのなら、そうせざるを得ない。
俺は、そう思って、瓶を大きく傾けたのだ。
――からん。
と、テーブルの上に瓶が転がる。
あれでかなり有用な魔道具である。
割れないように気を付けて置いたつもりだったが、残念ながら倒れてしまったらしい。
しかしそれも仕方ないだろう。
目の前が赤い。
体にびりびりとした痛みとも苦しみともつかぬ衝撃が走っている。
これは、やばいな。
単純にそう思った。
しかし、死にそうだ、というわけでもない。
なんというか、体が思い切り作り替えられて行っている。
そんな感じがするのだ。
体の奥深く、今まで何もなかった空間に、俺の体の中に渦巻くすべての力が勝手に使われて、何かが一つ一つ押し込まれて行っている感じだ。
その何かは、おそらくは俺の体の中にいままで存在していなかっただろう、生きた内臓というところだろうか。
体の表面に大量の蟻が物凄い速度で走り、昇っていくような感覚は、皮膚ができ始めているからに違いない。
この悍ましい感覚は、生きているときに大量の酒を飲んだ時と似ていながら、その百倍は気持ち悪く、目の前の景色がまるで巨大な地震が襲って来たかのように歪んでいる。
努めて冷静になろう、と努力してみるも、そんな行動は全くの無意味で、ただただ自分の体中が異常を訴え続けていることを深く理解するだけに終わる。
これは……どこまで続く?
いや、終わりなど来るのか。
そんな思いが胸の中に浮かび、そして引くことなくくすぶり続ける。
なるほど、こんな感覚を吸血鬼の血液を飲んだ者は皆、味わう羽目になると言うのなら、耐えきれずに死んでしまうことも、発狂してしまうことも理解できる気がした。
俺はまだ耐えられている。
心が強いから?
いや、違う。
俺は不死者だからだ。
不死者になってからずっと、俺の心の動きは酷く人間離れしたものと自覚していた。
出来る限り人であるように、人のままであるようにと振る舞いの方はどうにか人らしく見えるようにしてきたが、それにしても生きているときと比べ、心に立つ波は弱く、静かだった。
骨人になり、屍食鬼になり、屍鬼になって、どうしていつも通り平静な様子でいられたかと言えば、実際に俺は平静だったからに他ならない。
気持ちが強く動かないのだ。
それでも、そんな中でも心の反応することは色々あって……。
神銀級になることなど、俺が生きていたころに強く大事に思っていたことにだけ、俺の心は確かに動いているのを感じた。
だから、執着してきた。
むしろ、生きているときよりもずっと、執着してきたかもしれない。
その執着すら、眠って起きたら忘れてしまいそうなほど僅かなものだったけれど、それを手放さないように、強く意識して忘れないようにしてきた。
そんな俺だからこそ、この痛みも苦しみも、この程度で済んでいる。
もしも紛れもなく人だったときにこの苦痛に襲われていたら……。
ものの数秒で俺は正気を失っていただろう。
「……! ……!!」
遠くから声が聞こえる。
歪む視界の中に、ロレーヌの顔があった。
それを見て、俺は安心する。
なぜと言って、屍鬼になったときのような、彼女の血肉に対する欲望はないからだ。
ただ、あるのは……。
意識が遠くなる。
手放すとどうなるのか……。
いや、この感じならば、ただ気絶するだけで済みそうだ。
こんな状態で、ずっと意識を保ったまま、というのはつらい。
いっそ、気絶してしまった方が、楽だろう。
それで存在進化とかは大丈夫なのかと言う気もするが、おそらく重要なのは、この苦しみで正気を失わないこと、苦痛のあまり精神が死なないことだ。
俺はその意味において、初めから死んでいる。
だから問題ないと確信できた……。
そして、目の前が暗くなる。
ゆっくりと頭が地面に落ちていくような浮遊感、そして地面に叩きつけられる直前、ふわりと何かに抱き留められた気がした。
◆◇◆◇◆
やっぱり、平気だったな。
意識が戻ってきて、俺はすぐにそう思った。
体に感じるのは、妙な軋みだ。
なんていうかな。
骨を折った時に、木の添え棒をつけられているようなつっぱりを感じる。
なんだこれ……。
まぁ、不快と言うわけではなく、ちょっとした違和感でしかないのだが。
目を開こうとして、瞼の重みを感じ、俺は少し驚く。
そう言えば、屍鬼だったときは瞼の上げ下げとかしたことなかったかもしれない。
目をつぶった様な気持ちになってはいたが、仮面を下半分だけ覆った形状にして鏡で見たときは瞼はなかったな。
しかし、今はそれを感じると言うことは……。
目を開くと、ぼんやりとした光を感じた。
蝋燭の揺らぐ、僅かな光の感触だ。
この家にはちゃんと灯り用の魔道具があったはずだが、眠る直前なんかはそう言った明るいものは消すようにしているからな。
今は、俺が気絶していたので、ロレーヌが気を遣って灯りはそちらにしてくれたのだろう。
体はどうやら横になっていて、ベッドの上だったらしい。
瞼をあけて初めに見えた天井には影が見えた。
……人影だな。
あぁ……と思って、ベッドの横に目をやると、そこには、分厚い書物のページを捲るロレーヌの姿があった。
しばらくロレーヌの横顔を見つめていると、本の左側に目をやったときに俺に気づき、
「目が覚めたか、レント」
と口にした。
どうやら、そこで俺の様子を見ていたらしい。
それで、少しすれば目が覚めると思っていたら、あまりにも昏々と眠り続けていたため、暇になって本を持ってきて読み始めた、というところだろうか。
外は暗く、俺が倒れたのは朝だったことを考えると、かなり長い間眠っていたことになる。
久々の眠りだったわけだが、あまり楽しめずに終わってしまったな。
「あぁ……何を読んでるんだ?」
俺がそう尋ねると、ロレーヌはぱたりと本を閉じ、それから表紙を撫でながら答えた。
「吸血鬼の生態についての解説書だな。主に種類について書いてあるものだが……大まかな分類はお前も知っているだろう。屍鬼、下級吸血鬼、中級吸血鬼、上級吸血鬼……という奴だ。まぁ、強力なものになるにつれて、これに分類できないものも増えていくようだから、必ずしもすべてに当てはまる理屈ではないようだが……たとえば、長い年月を生きた古代吸血鬼はこのどれにも当てはまらないし、吸血姫もどこにも該当しないと言われる」
「……どっちも会ったことのある奴なんていないって聞くけどな。せいぜいが、上級吸血鬼程度で、群れの規模も眷属全員合わせても村一つ程度だと。街なんかでそれなりの社会を築いているとそれでも厄介だろうが……それに、まぁ、嘘か本当か怪しい伝説だと国一つを飲み込んだ黄昏の吸血鬼なんて奴もいたって聞くが、そんなのは、それこそ伝説だしな……」
「伝説だからといって必ずしも真実でないとは限らないだろう。レント、お前だって、それこそ伝説中の伝説、《龍》に実際に出会ってその身を食われているんだ。黄昏の吸血鬼だっていたのかもしれないし、東の地に舞い降りた払暁の天使も実際にいたかもしれない。そうだろう?」
そこを言われると、確かに弱い。
俺は事実、伝説をこの身で体験しているのだから、伝説は伝説に過ぎないだろう、とは口が裂けても言ってはいけない存在だろう。
俺は仕方なく頷いて、
「まぁ……そうだな。で、またなんで改めてそんな本を読んでるんだ?」
俺がそう尋ねると、ロレーヌは俺を指さして言った。
「簡単な話だ。つまり……」
「つまり?」
――存在進化おめでとう、という話さ。
ロレーヌは微笑み、そう呟いたのだった。