第88話 奇妙な依頼と紅茶
ティーカップをゆっくり口に運ぼうとすると、目の前の少女が俺を凝視しているのに気づく。
「……なんだ?」
俺がそう尋ねると、少女は、
「いえ……どうやって紅茶を飲まれるのかな、と思いまして」
「あぁ……」
基本的に外すわけにはいかないから食事時すらまず外さない仮面である。
今も外すつもりはなく、しかしそれは少女の目から見るとかなり奇妙に感じられるらしかった。
まぁ、もちろん外した方が飲みやすいのだが、しかしそれは無理だ。
俺は屍鬼である。
そういった魔物であることを人に見せびらかすわけにはいかない以上、これは外すわけには行かない。
かといって、いつもロレーヌと食べているときにやっているように、仮面の下半分だけを素肌が見えるような形状に変えるのも憚られる。
大人相手ならまぁ、火傷が酷くて見苦しいけれど我慢してくれ、で何とか見せることも出来なくもないが、今俺の目の前にいるのは十二、三歳の少女だ。
流石に俺の顔の下半分はグロテスクに過ぎる。
そもそも、この屍鬼の体の中でどこが最も気持ち悪いかと言えば、まさにこの顔の下半分だ。
唇などない、むき出しの歯と歯茎、枯れ切った素肌、一目見た瞬間、即座に骸骨を連想するだろう。
いや、骸骨そのものよりも悍ましいかもしれない。
中途半端に人に近づいた俺の顔は、筋肉そのものがむき出しであり、その動きがありありと外側から見えたりするのだ。
ただの真っ白な物言わぬ骸骨の方が、よほど衝撃は少ないだろう。
そんなわけで、見せるわけにはいかないのだ。
では、どうするかと言えば……。
「……それは、魔道具ですか?」
俺がやった行動に対して、少女はそう尋ねてきた。
つまりは、仮面の形状変更だ。
しかし、下半分全てを取り払う形ではなく、口の部分に僅かに紅茶を注ぎ込めるだけの隙間をあけたのである。
恒常的にその状態を維持することは出来ないが、ほんの数秒程度なら出来るのだ。
あんまり長くやろうとするともとに戻ってしまうが、紅茶を飲むくらいなら数秒で十分である。
紅茶を口に運びつつ、言う。
「まどうぐ、というよりは、じゅぶつ、にちかいようだ……まるとのろてんで、しりあいがかったんだ」
俺の言葉に少女は目を見開き、そしてきらきらとさせて言った。
「マルトにそんな面白そうなものが……。あの、申し上げにくいのですが……譲っていただくことなど出来たりは……?」
ラトゥール家には魔道具の収集癖がある。
その話はどうやら真実であるようだ、とこの少女の様子でよくわかる。
少女が一体ラトゥール家のどういった立場の人間なのかは分からないが、少なくともイザークのような仕える方ではなく、仕えられる方に属することは間違いないだろう。
そしてそんな彼女が言うのだ。
この仮面を譲る、と言えば結構な金額を払ってくれそうだが……と思っていると、少女はやはり、
「もちろん、お代の方は十分にご満足いただける額をご用意します……いかがですか?」
と言って来た。
俺としては、譲りたい。
譲りたいのだが、しかし、この仮面は今の俺にとって間違いなく必需品なのだ。
これがあるがゆえに、仮面を外せと言われても呪われているから無理だで通るのだから。
だから、少なくとも、この顔が人に見せられるようになるまでは、誰かに譲るわけには行かない。
それに加えて、外そうと思っても外れないのだ。
どう頑張っても譲ることなど出来るはずがなかった。
俺は目の前に浮かぶ金貨の山の中でおぼれる自分の姿が少しずつ遠ざかっていくのを断腸の思いで見守りながら、強い意志でもって少女に首を横に振りながら言う。
「……すまない。これは、かねじゃないんだ。ゆずることは……」
かなり忸怩たる思いが声に滲んでいたのだろう。
少女は眉根を寄せて、何か同情的な視線を俺に向けて言う。
「いえ……何か、深い思い出などあるのでしょうに、お金で譲れ、などと無理を申し上げました。失礼を……」
……思い出?
いやいや、この仮面に宿った思い出なんて、さほどのこともない。
いきなり顔にくっついて外れなくなった悪夢の象徴のような存在である。
今だってどう頑張ったって外れはしないのだから、余計に。
今の俺が感じているのは、思い出の詰まった品を手放す可能性を考えての悲しみではなく、本当は手に入るはずの金が遠ざかっていく絶望なのだが、それを口にするのは憚られた。
というか、少女のこの反応を見たあとに、そんなことを言って軽蔑されたくはなかった。
お金は大事なんだけど。
「いや、きにすることはない。そんなもの、そとがわからみただけでわかるものではないからな。むしろ、きづかいにかんしゃする……」
そう、外側から見ただけでは、俺の金に対する執着の醜さなど分からない。
それをいいことに格好つける。
汚い大人になってしまった……。
と思いつつ、まだ純粋そうな瞳を持った少女を見ると、彼女は、
「そう言っていただけると助かりますわ……ところで、紅茶のお味の方はいかがです?」
と、まさに上手に気遣って話を変えてくれた。
俺はそう言われて、口に運んでいた紅茶の味に意識を向ける。
……なんか、すごい美味しい。
香りもいいし……もしかすると、今までの人生で一番おいしい紅茶かもしれない、という気すらしてしまう。
俺は正直に少女に言う。
「こんなにうまいこうちゃははじめてだ……まどうぐの、おかげか?」
「そうですね。ただ、茶葉自体は魔道具ではなく、作った農家の方の力です。先ほど申し上げました通り、このポットは一度入れた茶葉の味を何度でも再現できるものですから。つまり……今淹れたものは、ずっと昔にこのポットに誰かが入れた茶葉の中で、私が一番おいしい、と思っているもの、ということです」
それは、美味しいわけだ。
地域や場所により、毎年異なる出来になる茶葉である。
毎年常に、同じ味を味わえるわけではない。
しかし、このポットがあれば、いつでも好きな年代の好きな地域で取れた好きな茶葉を飲めるのだ。
それはとてつもない話で、やはりお値段の方が気になってくる。
せいぜい、一度入れた茶葉の味を記憶して、その一種類を再現し続ける、新たに茶葉を入れれば、その前に入れた茶葉の味は再現できなくなる、くらいの魔道具だと思っていたが、今まで入れたもの全てを再現できるとなるとまた、話が変わってくるだろう。
これは究極のポットだ。
まぁ、毎年味が変わるのが楽しく、記憶の中だけにある味を思い出したりするのが風流なのだという人間もいるだろうから必ずしも誰もが価値を認めるという訳でもないだろうが、それでも多くの人間が欲しがるのは容易に想像できる。
「いったいこんなもの、どこでてにいれたんだ?」
「二百年ほど前に、遠方の迷宮から産出したようですね。それを発見した冒険者の方と直接交渉して手に入れました……金額は、白金貨で三百枚ほどだったとか」
「はく、きんか……」
無理しなければ、一枚で一生遊んで暮らせるだけの価値がある白金貨、それを三百枚……。
たかがポットに払う額ではない。
しかし、ラトゥール家にとっては大した額ではないのかもしれない。
それだけ払って二百年経っても、これだけの家を維持しているのだ。
さらに、マルトにおける影響力もそのまま保っている。
そこらの小さな貴族よりもよほど危険な家なのだろうな、とそれでよく理解できた。
それから、しばらく話して、俺は立ち上がる。
「もう行かれますか?」
少女が尋ねたので、俺は答える。
「あぁ……たのしかったけどな。たぶんだが、またあとで、あえるだろう?」
俺がそう尋ねると、少女は意味ありげにほほ笑んで、
「お分かりですか?」
そう答えた。
まぁ、彼女がラトゥール家のものだというのはもうほとんど自明だ。
どの辺りの立場なのかは分からないが、イザークのように仕える側でなく、仕えられる側なのも間違いない。
「なんとなくな。なまえは、そのときにきくことにしよう」
「……では、お気をつけて。迷宮の残りは、それほど長くはありません……少しヒントを。太陽は見ない方がよろしいかと」
「それはもんばんのおとこからもきいたな……なんなんだか」
「あら? でしたら、余計でしたね。意味は考えてみてくださいませ」
「わかった……」
それから、俺は広場を出ていく。
すると、俺が出た直後、広場の入り口はその周囲の生垣が動き出して、閉じてしまった。
あらためて前後を見ると、そこに続いているのはどこまでいっても迷路でしかない。
「……ほんとうに、ながくないのかね……」
俺はそうぶつぶつと呟きながら歩き出した。
早くゴールに着きたいな。と思いながら。