第78話 銅級冒険者レントと聖なる水
イザークとは思いのほか話し込んでしまったが、本来ここ《タラスクの沼》は井戸端会議をするような場所ではない。
お互いに瘴気や毒については問題がなさそうだと分かっているからこそできることだ。
そうでなければ、一秒でも早く脱出したくなるのが普通だ。
長くいればいるほど、体だけでなく持ち物や装備すらもここの穢れた空気によって劣化が進んでいくのだから。
なので、イザークははっと気づいた様子で、
「少し長くなりましたね。そろそろお帰りになりたいでしょうし、私も《竜血花》採取がありますのでこの辺で、ということで」
と話を切り上げてきた。
お互いにそろそろ、とはどっかで思っていたのでちょうどいい。
俺も頷いて、
「あぁ。いらいについては、ぎるどで、ということでいいんだな」
「ええ、指名依頼をさせていただきますので、ご連絡がいくと思います……まぁ、そうせずとも誰も受けないとは思いますが」
そう言って笑ったイザーク。
確かに、《タラスクの沼》に定期的に行って《竜血花》を採取してくる依頼を掲示板に張り出したところで、誰がとるのかという感じはする。
一回だけならまだしも、定期的に、というのがハードルが高い。
こんなところに何度も通っていたら遠くない内に体を壊すに決まっているからだ。
冒険者は体が資本である。
倒れたら飯の種を失ったも同然だ。
したがって、俺のように特殊な事情により何度来ようとも問題ない者以外は受けようとは思わないだろう。
そしてそんな奴は滅多にいない。
俺は頷き、それから手を振って別れた。
イザークの方も愛想よく手を振り、そして、あぁ、と思い出したように何かを投げてきた。
俺はそれをキャッチし、確認してみると、
「……せいすいのびん?」
首を傾げていると、イザークが、
「よろしければお使いください。どうも、お持ちではなさそうですので」
と気になることを言う。
分かっていたのか?
そう思って俺は尋ねる。
「なぜ、そうおもう?」
「聖水には独特の匂いがありますからね。ただ、別の手段はお持ちのようですが……ここは《竜血花》の群生地ですので、瘴気も邪気も常に浄化されていますが、それ以上に清浄なものを感じます」
《タラスクの沼》はこう言っては何だが、非常にきつい匂いがする。
毒や泥濘に支配された空間なのだから当然と言えば当然だ。
ここ、《竜血花》の群生地については浄化されているからそれほどではないが、ここはむしろ《竜血花》自体の香りがきつい。
つまり、聖水の匂いなどそうそう感じ取れるような環境ではない。
聖水の匂いは確かに独特ではあるが、ほのかに香る程度のもので、時間が経過した香水よりも薄い匂いだ。
街中などで聖職者とすれ違えばほのかに分かるが、こんな雑多な匂いが強烈な場所で分かるようなものではない。
嗅覚によほどの自信があるのか?
いや、それだけではない。
《竜血花》以上に清浄なものを感じる、などと言っている以上、俺がわずかに纏う聖気にも気づいていると思っていいだろう。
もちろん、《タラスクの沼》にソロで来れる以上、それなりの実力はあるのだろうとは思っていたが、それ以上にどこか底知れない人物なのかもしれないな、と思う。
「……よくわかったな。おれは、せいきがつかえる」
別に、わざわざ隠さなければならないことでもない。
使える人間は少数だが、しかしいないわけでもない。
孤児院の管理人リリアンが使えることを見ても、街中で全くすれ違わないということはないのだ。
まぁ、あえて言い触らしたいとは思わないが、すでに気づいている人間にそうだ、というくらいは別に構わない。
イザークも常識的な感覚は持っているようだから、わざわざ言い触らしたりはしないだろう、というくらいの信頼はすでに感じていた。
彼は俺の言葉に納得したように頷き、
「やはり。となると……聖水は余計でしたか?」
「いや。ひじょうにありがたい。いきはなんとかなったが、かえりはしょうじき、ふあんでな。それほどつよいかごをあたえられたわけではないのだ」
「さようでしたか。でしたら、よかった」
「……しかし、いいのか? これはかなりこうかだろう? ……びんからすると、ろべりあきょうのさいこうきゅうひんだろう」
ロベリア教。
それはこの国ヤーラン王国では目立った存在ではないが、西方の大国などでは大変な権勢を誇るらしい宗派の一つだ。
一応、マルトにも教会があるが、信者の数は多くない。
それに見合った程度の小さな教会であるが、しかし聖水については他の追随を許さない高品質なものが多く売られている。
……いや、売ってはいないのか。
あくまで寄進された人に対して、その信心の高さに報いるために渡しているだけ、という体裁だからな。
ともかく、その寄進の額が多ければ多いほど、聖水の質と、瓶の装飾が増えていくのである。
聖水にも品質がある。
基本的なものはどこの宗派で買おうとも似たような効果だが、高品質なものになるにつれ、作れる宗派と作れない宗派が出てくる。
効果の持続時間や、濃度、匂い、それに透明度など様々な要素が重なって品質の上下は変わるが、このロベリア教の最高級品は、一滴で一般的な品一瓶位の効果と価値があるものだ。
こんなもの、人にぽんと与えるようなものではない。
しかしイザークは首を振って、
「今後も必要になるでしょう? 今渡してもいいかと思いまして」
俺があとで依頼を受けるから、ということでそう言っているのだろうとすぐに分かった。
しかし……。
「おれがいらいをうけずにこのまませいすいだけもちにげするとはかんがえないのか?」
「それならそれで。私の見る目がなかったというだけのお話ですから。それに、私も、私の主も経済的にはさほど困っていないのです」
聖水くらいは端金だ、というわけだ。
うらやましい限りであるが、しかしだからこそ、欲する人材の得難さを知っているのかもしれない。
ここで聖水を与えておいて恩を売っておけば、依頼を受ける可能性が上がるだろうと言うくらいには思っているだろう。
たしかに断りにくくはなりそうだ。
まぁ、そもそも断ろうとは今の時点では考えていないのでいいのだが。
「そういうことなら、ありがたくもらっておくとしよう……それでは、こんどこそ」
「ええ、帰り道にはお気をつけて」
そうして、俺はイザークと別れた。
帰り道については、それほど特別なことは無かった。
最大の難関であるタラスクの生息地を聖水の絶大な効果でもって簡単に抜けることが出来たのだから当然だろう。
他の魔物は、水にさえ落ちなければ問題ないし、ゴブリンはかなり遠巻きになっていたからな。
俺を見るとなにか怯えるように下がっていったので、俺が何度かゴブリンをまとめて屠ったとき、逃がした奴がいたのかもしれない。
基本戦術が遠方から弓矢を放ってくるような奴らだったからな。
見逃してもおかしくはない。
しかしあんまり遠巻きにされると、いつかここのゴブリン討伐の依頼などを受けた時に難しくなりそうで困る。
……いや、そこまで記憶力がある奴らじゃないか。
一週間もすれば、俺の顔とか忘れているだろう。
別に馬鹿ってわけじゃないんだが、なんか刹那的な生き方をしてるのが多いんだよな、ゴブリンって。
普通に集落を作って人間と交流したりする奴らはむしろそういう生き方に嫌気がさしたやつらなのかもしれない。
いつか聞いてみたいものだ。
ゴブリンの言葉は特殊なのでまずそこから勉強する必要があるだろうが……。
そんな益体もないことを考えながら、俺は《タラスクの沼》を抜けていった。
来た時に下った坂道を反対に上り、馬車を待つ。
しばらくぼうっとしていると、やってきた馬車の御者は驚いたような顔で、
「……そこまでピンピンしてるとは意外だな? 実は相当な手練れなのか」
と聞かれたので、
「ほんとうはみすりるきゅうぼうけんしゃで、このかめんはよをしのぶかりのすがたなんだよ」
と少し茶化して言うと、男はふっと笑って、
「なんだ、あんた、見た目よりとっつきやすそうだな? またここに来るなら俺に声をかけろよ。安くしとくぜ」
そう言われたので、頼む、と言い俺は馬車に乗り込んだのだった。




