第76話 銅級冒険者レントと竜血花
タラスクの生息地をなんとか抜け、たどり着いたその場所は、息を呑むほど美しく、一瞬俺は絶句する。
《タラスクの沼》、そこは毒と瘴気に侵された泥濘と有毒の植物、致死性の猛毒を持った生き物たちが支配する場所で、見かけからして通常の生き物の侵入を拒む悪夢の地だ。
こんなところに来ようとする者など、頭のいかれた人間か、危険を恐れぬ冒険者くらいで、普通の人間ならまず、足を踏み入れようなどとは絶対に考えない。
それほど危険な土地の奥地、最も危険な生物が生息する場所の、更に奥に、どうしてこんな場所があると想像できるだろう。
そうだ。
そこは、美しかった。
《タラスクの沼》などというところに存在しているとは思えないような楽園が、そこにはあった。
真っ赤な花が、底まで見える綺麗な水を称えた池の上で、その花弁を俯くように傾げて群生しているのだ。
それに寄り添うように、いや、女王に傅く兵士たちのように、それらの花の周囲を他の植物たちが守る様に包んでいる。
そんな植物の周りを飛び交う虫や鳥、それにかけまわる獣たちは穏やかで、見ているだけでここがあの瘴毒の沼地の最奥だとは完全に忘れてしまいそうだ。
なぜ、ここにこんな空間があるのか。
それは、あの赤い花が理由である。
赤い花――つまりは、《竜血花》のことだ。
あの花は、強力な環境浄化能力を持つ。
つまり、ここに群生している《竜血花》は、この《タラスクの沼》の毒を常に浄化し、それによってこのような空間を形作っているのだ。
周囲の植物や生き物は、パッと見、《竜血花》を守っているかのようにその周囲に存在しているが、実際は逆である。
《竜血花》の周りだけが、彼らにとって楽園で、ここから出れば彼らは一時間となく死に絶えてしまうだろう。
ここは一種の楽園であり、そして同時に牢獄なのである。
それが故に、あの鳥や虫、獣たちは非常に希少であり、ここから持ち帰ればかなり珍重される。
ただ、方法が非常に難しいが。
なにせ、ここの空気は非常に清浄だが、周囲を瘴毒の支配する空間がまるまる覆っているのだ。
生き物を一匹連れて行こうと考えたら、その周囲を常に正常な空気で保護し続けなければならないが、そうなると特殊な魔道具を使うか、高い魔力量を持った魔術師にずっと風の魔術を使いつづけさせるかしかない。
それをしてどれだけの利益が得られるかと言えば、それほどでもなく、労力と割に合わないこともあってか、皮肉なことにそれでこの環境は守られ続けている。
まぁ、下手に《竜血花》の生息環境を破壊すると間違いなく各所から非難されるというのもある。
おかしな乱獲さえしなければ、《竜血花》自体は非常に生命力の強い植物なので、すぐに再生することだし、今後も基本的には問題ないだろう。
《竜血花》の生命力の強さは、こんな場所をわざわざ自らの群生地に選んでいることからも分かる。
あの花は、毒を吸収し、自らの力として生きている植物だからだ。
それがゆえに、わざわざタラスクの生息地が周囲にあるここに、群生している。
タラスクはその死骸や排せつ物からすらも強力な毒が放出される。
《タラスクの沼》の汚染は、それが大きな理由なのだ。
そして毒を好む生き物が集まってきて、最終的にこのような毒の楽園が出来上がるわけである。
ある意味で、タラスクがこの地域の中心なのだ。
そしてタラスクがいないとここの《竜血花》は存在できない。
亜竜の仲間であるタラスクの近くに《竜血花》があるというのは何か示唆的なものを感じないでもないが……まぁ、その辺は俺よりもロレーヌとかが好きそうな話だな。
詳しいことは分からん。
そんなことよりも、とにかく採取だ。
俺はそう思って《竜血花》の群生地に足を踏み入れる。
あまり踏むとか踏まないとか気にせずにざくざく入って行けるのは《竜血花》の生命力が強いことをしっているからだ。
本により得た知識によれば、全部折れるくらい踏みつけても一日あると復活しているらしいからな。
まぁ、それくらいでなければ邪気なんて祓えはしないか……。
ちなみに採取するときは、しっかりと掘って根ごと持ってくるべしと言われる。
切っても絶対にダメだと言うことは無いが、一番重要な調剤に使える花竜血という成分が抜けてしまうらしいからだ。
そんなに面倒で、しかし生命力が強いと言うのなら外部に持って行ってタラスクの毒をやりながら栽培すればいいようにも思うが、それをやるとそもそも花の色が赤く染まらずに花竜血もとれないらしい。
それでも白く美しい花は咲くが、それでは調剤的には意味がない。
ちなみに白い《竜血花》は《白竜花》と呼ばれており、あまりいい意味では使われないが……それはいいか。
《竜血花》を周囲の土ごと掘り出し、持ってきた布で包んで縛り、魔法の袋に入れていく。
一株だけでもいいのだが、ここには数千株の《竜血花》が生えているし、採取しても一週間すればその掘り出した場所は他の《竜血花》で埋まるらしいので問題ない。
沢山採取してどうするのか、と言うといくつかは花屋にもっていき、またいくつかは薬屋に持っていくのだ。
生きていたころの話になるが、《竜血花》があったらいいなと思うことがある、みたいな話をどちらからも聞いたことがあるからだ。
高く売れるから、というのも勿論だが、花屋的にはプロポーズのときにないとは思っても一応買いに来る若い男女とかがいるらしいし、薬屋的にはこれがあれば色々な薬が作れるから花竜血の備蓄が欲しいと言うことで理解できる話だった。
乱獲するつもりはないが、まぁ、十株くらいなら許容範囲だろう。
それでも十分多い気はするが。
でかい魔法の袋を借りてきて良かった。
それにしても、《竜血花》を採取するのは初めてだ。
こんなところにはどうやったって前の俺では来れなかったので当然なのだが、なんだかうれしくなってくる。
「……あだっ」
一生懸命《竜血花》を掘っていると、なぜか突然、鈍い痛みが手に走った。
《竜血花》には棘などなかったはずだが……。
不思議に思って色々と触ってみると、どうやら花びらに触れるとちょっと痺れるような痛みが感じられる。
こんなところに生えているのだ。
多少の自己防衛のために触れたものを驚かせるような成分が含まれているのかもしれないと思った。
そうして、目的の量の《竜血花》を採取し終わった俺は、立ち上がる。
あとは戻って収めるだけだ。
《竜血花》を薬に調合するのはアリゼの知り合いがやってくれるわけだし、俺の仕事はそこで終わりかな……。
そんなことを考えながら、《竜血花》の花園を歩いて戻っていると、ふと、視線の先に人影が過った。
……敵かな、と一瞬思うが、あれはどう見てもゴブリンのシルエットではないし、それ以外に人型の魔物は確かここにはいないはずだ。
必然、冒険者か何かだろう、ということになる。
ただ、だからと言って完全に警戒を解くわけにもいかない。
なにせ、冒険者同士の殺し合いと言うのはたまに起こるからだ。
迷宮の中だとばれやすいが、こういうところでそういうことがあっても、冒険者証は見つかりにくいからあまりばれない。
むしろこういうときこそ警戒すべきだった。
俺はいつでも腰の剣を抜けるように構えながら、近づいてくる者の全体像が見えるのを待った。




